9日目:生きるという行為の模倣
朝。
少年は自分で着替え、自分で靴を履き、無言で立ち上がった。
そして「行く」と言った。
この二文字の主語と目的語を、わたしは尋ねなかった。
生きるという行為は、ときに意味の模倣から始まる。
模倣とは、目的を知らずに目的地へ歩くことだ。
立派な一歩目だと、わたしは思う。
向かったのは兵舎――というか、この街の駐屯所。
昨日の男が所属する、筋肉の集合所である。
門番の兵士がこちらをちらと見て、顔をしかめた。
「子供を訓練に参加させるな」という顔をしていた。
正論であり、無意味でもある。
男は訓練場の片隅にいた。
木剣を肩にひっかけ、まるで掃除を待つ家具のようにぼんやり立っていたが、少年の姿を見つけると一気に動き出した。
まるで餌を見つけた犬だ。
尾は振らなかったが、目はそれに近かった。
「来たか」
彼はそれだけ言って、少年の肩を軽く叩いた。
痛みを忘れるには、別の刺激を上書きするのが一番らしい。
訓練は、基本動作から始まった。
木剣の握り方、足の運び、簡単な受け流し。
つまり、それなりに「遊び」に近い内容だ。
だが、子どもにとっては全身運動である。
汗はすぐに流れはじめ、息が切れるのも時間の問題だった。
男は手加減しながらも、手を抜くことはなかった。
容赦なく構えを直し、姿勢を矯正し、時に剣の柄でコツンと頭を叩く。
暴力かもしれないし、愛情かもしれない。
判断はつかない。
だが、少年は倒れなかった。
昼過ぎ。
訓練が終わる頃には、少年は泥だらけだった。
顔は真っ赤で、体は小刻みに震えていたが、なぜか笑っていた。
声に出して笑ったわけではない。
ただ、呼吸の節々に「生きようとする何か」が混じっていた。
男は満足げにうなずき、少年の背を一発叩いた。
それだけで彼はふらついた。
けれど、倒れなかった。
わたしは立ち上がり、言った。
「では、帰るか」
少年は無言でうなずいた。
生きることに意味があるかどうかなど、本人すら知らない。
だが、動き出した身体は、思考よりも速く前へ進む。
それだけで、今日という日は存在する価値がある。




