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作者: 水蒸気

蟻を潰したことはあるだろうか。おそらく、あると回答える人間のほうが多いのではないだろうか。幼稚園の花壇で、小学校の校庭の片隅で、家の玄関の外で、夏の食卓の真ん中で、小さな生命の殺戮が、何気なく、続いている。幼い頃、私は蟻を殺すことが趣味だった。


私が育ったのは過疎の町の外れだった。共働きの両親はどちらかといえば放任主義で、食卓にはスーパーの惣菜が並ぶことが多かった。気まぐれに母がカレーを作ったりすると、それは嬉しかったのを覚えている。生来、内向的な私はひとりで本ばかり読んでいる子供だった。おとなしくて手がかからないということで、両親には自慢の種だったようである。


庭には背の低い欅があって、その根元には毎年、蟻の巣が作られた。天気が良ければ蟻どもはせわしなく巣穴を出入りして、その周りをうろうろしていた。何らかの目的、すなわち、砂を掻き出すとか、餌を探しに出掛けるとか、を持って動いているように思われるものもいれば、本当にただただうろうろしているだけのものもいた。大人になって気づいたことだが、私は、人間をみても蟻をみても、ほとんど同じ感情しか抱くことが出来なかった。蟻をみるような気持ちで人間をみていたのである。


ある時、太ももに一匹のが這い上がり、まだ柔らかかった私の肉に噛みついた。慈愛の精神と強者の傲慢を同じもの勘違いしたのはその時であった。それ指先で強く摘み、砂の上に捨てた。触角と脚を小刻みに震わせながらひっくり返っているそれを踏み潰した。夏の煌めく太陽の下、私は小さな神になった。


明くる日、私はさらに合理的な手段によって、蟻たちを労働の轍から解き放つことにした。殺虫スプレーが巣穴に向かって噴射された。忽ち何匹もの蟻が痙攣し、死んだ。美しい光景だった。入院していた祖父もそうやって死んだことを思い出した。そのほか、傘の先や石ころを使って、次々と潰したこともある。数時間にわたって、何度も石槌が振り落とされた。目の前で死んでいくのは、蟻ではなく、父であり、母であり、祖父であり、学校の先生であり、友達であり、私自身であった。熱い砂の中に、黒い死体が埋没していく過程を、私は飽くことなく観察していた。それでいて、昼食の時間になれば急いで家に駆けていったのだから、子供というのは不思議な生き物である。生き残った蟻たちは、しばらくすれば平常を取り戻し、仲間の亡骸を片付けていた。祖父の葬式も夏だった。


そのうち、私は庭にある蛇口からビニールホースで水を引き、彼らの地底城を水責めにし始めた。多くの穴はすぐに水を飲み込まなくなったが、ひとつだけ底無しに水を吸い込む穴があった。この穴は別の世界に通じているんだ、宇宙に浮かぶあの穴なんだ、実世界と虚世界が目の前でつながっているんだ、というようなことを考えながら、私は殺戮を愉しんでいた。実際にやってみればわかることだが、三時間くらいこの水責めを続けていると、やがて蟻どもは、もはや城を放棄する。なまめかしい白色の幼虫だか蛹だかを抱えて、ぞろぞろと避難を始める。そうすると、その上に私の足が容赦なく降り注ぐ。難民たちは、夥しい数の屍になった。何故、彼らは死なねばならなかったのか。罪のない小さく弱きものが死なねばならぬ理由は何なのか。


ひとつだけ私にもわかることがある。当時私は、完全な存在に憧れていた。そして、自分がそうではないことを知っていた。蟻殺しは、束の間とはいえ、私に全能感を与えてくれた。私はその全能感に酔った。自分が非力だからこそ、穴埋めが必要だった。バランスをとらねばならなかった。だからこそ、彼らはそこにいたのだし、死なねばならなかったのだと思った。諸君に死をあげよう。我らが完全なる調和のために。


時を経て、私は完全など有り得ないことを知った。職場へは毎日窮屈な電車で、一時間かかる。不完全な上司と同僚と部下と自分が、ありきたりな人生に半ば絶望しながら、ばかばかしいくらい必死に仕事をしている。想像していたより忙しい職場だった。かつて冷笑っていたはずの中学生じみた正義感。それが辛い仕事の支えなのだ。夏がきた。今年も実家には蟻の巣ができていた。年老いて両親は弱気になった。たまには顔を見せなさいと、母だけではなく、父からもメールがくるようになった。つい、この間帰省したばかりだというのに。


弱い人間にとって、幼い子どもを虐待するのは自然なことなのだ。そのせいで、我々はますます忙しい日々を過ごしている。28度設定の熱苦しい庁舎から、さらに熱いアスファルトの上へ。生臭い一陣のビル風に吹かれて、今を生きていることに感謝する。ところで、あなたは蟻を踏み潰さないように歩いたことがあるだろうか。

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