王太子殿下のお世話係令息の恋
剣を持ち、凛と立つ少女の前に、剣を飛ばされた少年が、呆然と後ろに倒れ、地に座りこんでいた。
茫然自失で、地面に座り込んでいるのは、天然の王冠さながらに輝く金色の髪と、サファイアのような青い瞳に、整った顔立ちまで備えた、この国の王太子殿下であるアレクシス様だった。
アレクシス様は、国王陛下、王妃殿下、そして、この国中から、長年の待望の後、王家直系の長子として生まれ、更に幼い頃から、文武両道、眉目秀麗と才覚を発揮し、今は八歳という年齢にも関わらず、周囲を広く把握する冷静さと慧眼を備えていると遍く伝わり、国中の期待を一身に集めている。
そんな呼び声高いアレクシス様は、私にとって、将来の主君であるだけでない。バーナード侯爵家出身の父の姉が王妃になったため、従兄弟の間柄でもあった。殿下より三年早く生まれた私は、兄弟のいない殿下の兄分としての役割を期待され、アレクシス様とは幼い頃から、交流を深めてきた。
とはいえ、アレクシス様から年長者として敬意を払われたと感じることはなかった。それは、彼が無礼というわけではなく、生まれながらに全てを持っていた彼は、世の中に対して、ただ褪めていただけであった。
そのアレクシス様が、剣を飛ばされ、尻を地につけ、呆然と目の前を見つめていた。殿下の視線の先には、焦げ茶色の瞳をした、殿下と同じ年頃の少女が、亜麻色の髪をたなびかせ、凛と立っている。
殿下が剣技も含めた万事に秀でているといっても、当然、師や年上の私に負けることはあった。でも、同年代の子供に負けることはなかった。
将来の主君で、自分の弟分が、同じ年頃の少女に負けた。衝撃を受ける場面だと思うのに、去来した思いを率直に述べるならば――
どこか胸がすく、というものだった。
アレクシス様を嫌いだと思ったことはない。それどころか、あらゆる重圧にも平然と耐え、何事もそつなくこなす姿には、年下であれども、畏敬の念を持っていた。
とはいっても、全てを持ちながら、何かに熱意を持つこともなく、つまらなそうな殿下に、おもしろくない気持ちはあった。
少女が、立ち上がらない殿下に手を伸ばし、アレクシス様は我に返り、真っ赤な顔になった。
思いがけない敗北に、恥ずかしさを隠しきれないらしい。初めて見る年下らしい姿に、堪えようとしても、笑みが浮かんでしまう。
――とはいえ、あの女性は何者?
「あらまあ、大変なことになってしまったわ」
少し後ろからポツリと柔らかな女性の声が聞こえた。振り返ると、ほんわかした雰囲気の少女がいた。剣を持つ少女と同じ亜麻色の髪の色をしているが、殿下に勝った少女よりは、少し年上に見える。
私が彼女を見たことで、私の視線に気付いた彼女が、私を見た。
「あら、ごめんなさい。独り言が大きかったですわね」
「いえ。ところで、大変なこととは?」
「ええと、今、殿下の前で剣を持っている少女ですが、私の妹なんです」
彼女は、アスター伯爵家のエリスと名乗った。アレクシス様を負かした少女は、エリス嬢の妹で、オフィーリア嬢というらしい。
◇◇◇◇◇
アレクシス様がオフィーリア嬢に剣で負けてから、三年が経った。
その日の朝も、侯爵家の屋敷の食堂で、母と二人の幼い妹と共に朝食を取った。どこまで本当なのか、父は仕事だと言って、帰ってきていない。どこを取っても、いつもの光景だった。
静かな食堂に、母の神経質な声が響く。
「さあ、今日はお茶会の日ですよ。ブリアンナ、皆に披露するピアノは仕上がっている? 前回みたいに失敗して、恥ずかしい思いはさせないで頂戴。クリスティ、指を唇に寄せる癖は止めなさい」
母の指摘に幼い妹二人が居心地悪そうにした。
気になるなら、まだ幼い妹をお茶会に引き摺りださなければいいのにと思うが、上流の貴婦人との交流が、淑女への道だと疑っていない母にとって、これも、娘のためなのだろう。いや、自らの見栄のためなのかもしれないが。
母の説教は続く。
「いいですか。人には生きるべき道というものがあります。今日、招いたのはいずれもこの国の歴史ある家々のご婦人方よ。
ランドルフ、貴方の婚約者もそろそろ考えていかないといけないわ。貴方もお茶会に顔を出せないの?」
「今日は王太子殿下に呼ばれているもので」
「そう。王太子殿下に……」
妹二人が私に羨ましそうな目を向けたのを振り切った。
母は厳しく侍女長と執事に命じ、茶会の準備を始める。母の支配するこの屋敷は、息が詰まりそうだ。
屋敷を出て、王宮の中庭にやって来た。
今日は、アレクシス様とオフィーリア嬢が、共通の剣術の師匠に、稽古を受ける。その後、アレクシス様とオフィーリア嬢で手合わせをする。アレクシス様は八歳の時に、オフィーリア嬢と初めて手合わせをして三年が経ったが、十一歳になった今も、まだ勝利を収めたことはなかった。
オフィーリア嬢の付き添いとしてやってきたエリス嬢が私に気付き、頭を下げた。それに応えるために言った。
「本日もお越しいただき、ありがとうございます」
殿下は変わらず、雪辱に燃えていて、誰かが話し掛けられる雰囲気ではない。だから、殿下とオフィーリア嬢の付き添いであるエリス嬢と私は、見守る側として、よく顔を合わせるようになっていた。
しばらく剣術の師の教えを殿下とオフィーリア嬢が受けた後、組み合いが始まった。
金の髪を振り乱し、殿下が力を込めた剣を、亜麻色の髪を一つにまとめた少女が涼やかに受け流している。
不思議な光景だ。私も参加すればいいのかもしれないが、オフィーリア嬢との時間を邪魔すると、殿下は嫌がりそうだと思った。
ややあって、稽古が終わった。しかし、これからが長い――
今日もオフィーリア嬢に負けたアレクシス様が、オフィーリア嬢に詰め寄り始めた。それを見て、またもかと思いつつ、エリス嬢を傍らに準備してもらっていた、お茶に誘った。
「お茶を準備してもらっています。こちらで少々お待ちいただけますか?」
「ありがとうございます。いただきますわ。まあ、今回もこんなにたくさん」
そして、エリス嬢は悪戯な顔で笑った。
「今日も長い反省会になりそうですものね。ゆっくりさせていただきますわ」
彼女の冗談に私も笑った。
けれど、願わくは、この時間が長い方がいい。殿下とオフィーリア嬢を見守りながら、エリス嬢は様々な話をしてくれる。エリス嬢の妹であるオフィーリア嬢はもとより、領地のこと、私はまだ会ったことがないがアスター家の弟を含めた家族や屋敷の使用人のこと、市井で流行りの小説のことなど――
肩肘張らないといけないこともない。ここでは息がつける。
アスター伯爵家は、この国で最も新しい高位貴族である。
数十年前、武勇で知られる彼女の祖父が戦功をあげた際、国に縛り付けるため、爵位を与え、王家の忠臣の娘を妻に与えた。
典型的な政略結婚だったが、初代アスター伯爵の妻となったのはおっとりとした気質の美しい女性で、英雄の心を奪い、二人は夫婦として、仲睦まじく過ごし、添い遂げたらしい。
そういえば、オフィーリア嬢が剣技に優れるのは、彼女の祖父の血が色濃く出ている可能性もあるのだろうか。そして、エリス嬢の柔らかな雰囲気は、彼女の祖母の血とか――
「どうかしましたか?」
視線に気付いたエリス嬢が、私に聞いた。視線が不躾だったようだ。
何でもない、と答えようとしたところで、ふと思うところがあって聞いてみることにした。
「ご自身の妹が、王太子殿下に見込まれていることを、どう思われていますか?」
曲がりなりにも、貴族令嬢である彼女が、殿下の親戚で、側近の第一候補である私に、本当のことを話すとは思わなかった。でも、困っている、とか、光栄だ、とか、軽口であっても、目の前の彼女なら何を言うか気になった。
エリス嬢は、ふふ、と軽やかに笑った。
「私一人では見られない景色だったから、有り難く思っておりますわ」
妹への嫉妬も、想定外の事態への困惑も見られない軽やかな言葉に、目を瞬かせ、彼女が目を遣ったアレクシス様とオフィーリア嬢に、自分も目を向けた。
これまで、子供らしからぬ表情で世の中を眺めていた殿下が、剣術の師のもと、オフィーリア嬢と熱心に何か話している。
確かに数年前まで、想像だにしなかった光景だ。
エリス嬢が優しい目で二人を見ながら続けた。
「先が見えないからこそ人生は楽しい、とはこのことでしょうか」
剣術の師が去り、アレクシス様とオフィーリア嬢が話しているのを、エリス嬢と見ていると、何かをオフィーリア嬢が言ったらしく、アレクシス様が彼女に食って掛かった。オフィーリア嬢は、困惑しきっていた。
殿下がまっすぐに私の元に来るなり、言った。
「おい、ランドルフ。街に行くぞ」
「何を突然……」
「彼女は鍛冶屋街にある剣術指南所に通って、剣の腕を磨いているらしい」
「アレクシス様には、王家御用達の剣術の師がついていて、今もオフィーリア嬢と共に、学ばれたばかりでしょう」
「いや、私が未だに負け続けるのは、そのせいかもしれないだろう。行くぞ!」
珍しく、オフィーリア嬢がオロオロしながら、口を挟んだ。
「殿下のような方がいらっしゃる場所ではございません。それに、お祖父様に教えてもらった内緒の場所なので、迷惑が……」
オフィーリア嬢の言葉に頭を抱えた。それでは、逆効果だ。
英雄と呼ばれた彼女の祖父の名前が出て、やはり、アレクシス様は、街に行くという意思をますます確固たるものにしたようだった。かつてと比べ、殿下は随分と感情を素直に出すようになったとが、果たしてそれがいいことなのかは、一考の余地があるかもしれない――
周囲を見渡した。
アレクシス様は意地でも街に行くという意思を見せている。オフィーリア嬢とエリス嬢はどうしたものかと考え込んでいる。今、ここにいる大人は、王宮の護衛騎士、そして、エリス嬢とオフィーリア嬢の供として来た伯爵家の使用人。未成年といえど、私が殿下と一番身分が近い。
場を収めるならば私なのか、と仕方なく口を開いた。
「アレクシス様、オフィーリア嬢が言われるとおりです。殿下にはお立場があります。殿下のような方が、突然、市中に現れては護衛騎士も市井の人々も困ります」
「俺の国なのに、俺が行ってはいけないというのか?!」
「そうは言っておりません。順を追う必要があるということです」
私がそう言うと、未来の王者であることを示すように覇気を出し、殿下が問い詰めてきた。
「なら、お前が何とかしてくれるのだろうな?」
――まだ十歳にも満たないというのに、という少し苦い気持ちを持ちながら、致し方なく答えた。
「……はい」
数日後、アレクシス様とオフィーリア嬢と、付き添いのエリス嬢と私で、オフィーリア嬢の祖父の知り合いが住んでいるという下町に行くことになった。
私達が貴族の屋敷街から出て、市民が住む地域の中でも下町に行くことを知ると、血統主義者の母は、当然、嫌な顔をした。
初めて話をしてからも散々渋られたが、屋敷を出る前に、またも聞かれた。
「ランドルフ、殿下も貴方も本当に街に行く気なの?」
これはアレクシス様の意向で、殿下が私の思う通りに動いてくれる相手なものか。
そう思うとうんざりし、内心、皮肉っぽい気持ちを抱え、表面上は淡々と答えた。
「そうですね。殿下は強い意思をお持ちのようですが、私が同行する必要はないかもしれません。私だけ行かないでいいか、交渉してみましょうか」
私の言葉に、殿下の側近を息子以外の人間に取られることを想像したのか、母は顔を顰めた。
「……いえ、そこまでする必要はありません」
「そうですか」
ドアを開け、外に一歩踏み出したところで、後ろから母の声がした。
「我々は上澄みです。下流のものと交わる必要などありません。今日、貴方が行くのは、本来、貴方が知る必要がない世界です。そのことは、覚えておくように」
母の声を振り切り、馬車に乗り、王宮に行った。そこには、護衛騎士と、オフィーリア嬢とエリス嬢と伯爵家の使用人が待っていた。
私は本当に幼い頃こそ領地に行くこともあったが、王太子殿下がお生まれになってからは、母の意向で王宮と侯爵家の屋敷付近で過ごした。父が外に女性を作り、屋敷に帰らなくなり、それを問題とする人間もない。
だから、鍛冶屋街を含む王都の下町のことはエリス嬢に教えてもらった。アスター伯爵家は、エリス嬢とオフィーリア嬢の祖父が戦功により叙爵するまで平民だったので、彼女らにとって王都の下町は身近らしい。
エリス嬢ではなく、オフィーリア嬢に聞いても良かったが、私がオフィーリア嬢に接触することを、殿下が嫌がることは火を見るよりも明らかだった……。
その後、アレクシス様が現れた。人を圧倒する殿下の雰囲気は隠せていないが、普段より質素な服装をしているから、貴族令息の物見遊山と思われるはずだ。多分。
胃を痛くしながら、護衛騎士に声を掛けた。
「我が儘を言ってすまない。本日は、よろしく頼む」
でも、護衛騎士は朗らかに言った。
「とんでもないことでございます。アレクシス様やランドルフ様に、我々が住む世界を知っていただけると思うと、光栄に存じます」
護衛騎士の言葉に、目を瞬かせ、聞いた。
「君も、これから行くところを知っているのか?」
私の言葉に、少し恥ずかしそうに、でも、高揚したように護衛騎士は答えた。
「はい。私は子爵家の息子で、騎士を志しましたが、恥ずかしながら、毎回、剣の師を我が家に呼ぶことは難しく。本日、皆様が出向かれる鍛冶屋街の剣術指南所は私も通っておりました」
「……そうか」
物心ついた頃から王宮にいるところしか知らなかった護衛騎士も、これから行くところで腕を磨いていたと知り、不思議な気持ちになった。
馬車は王宮を出て、貴族の屋敷街に来た。ここまでは知っている。でも、その先、屋敷街と平民が多く住む区画を隔てる大通りを越えた先には、行ったことがない。エリス嬢からは、大通りを越えると、街並みが変わると聞いている。母は、自分達とは住む世界が違う人々が暮らしていると言っていた。
馬車の中で、平然としているアレクシス様、エリス嬢、オフィーリア嬢に対して、私は、少し緊張した。
そこに住んでいるのは、母が言うように、自分達と違う人々が暮らしているのだろうか。昼から飲んだくれていたり、ふしだらだったりするのだろうか。
馬車は、大通りを越えた。
街の雰囲気は、確かに変わった。人々が住む家々は、私達が住む屋敷より小さく、家と家の間は馬車が通ることもできないくらい詰まっていて、庭も猫の額ほどだ。どこか雑然としている。
でも、人々は生き生きと働いていた。大人は荷を運び、物を売り、アレクシス様やオフィーリア嬢と同じくらいの歳の子供達は、楽しそうに走り回り、私達が乗る馬車が近くを通ると、物珍しそうに覗き込み、傍らの親に怒られていた。
明るい雰囲気に興味を持ったらしいアレクシス様が、馬車の窓を少し開け、パンの焼ける匂いと肉を焼いた匂いがした。殿下が上機嫌に言った。
「楽しそうだな。それに良い匂いがする」
「……そうですね」
馬車は更に進み、鍛冶屋街に到着した。その一角にある剣術指南所へ行き、エリス嬢とオフィーリアの祖父の知人で、剣術指南を行っているという男性に挨拶をした。
オフィーリア嬢はそこには商家の娘と名乗り、通っているらしい。オフィーリア嬢の本当の身分を知っている剣術指南をしている男性にだけ、殿下の身分を明かし、他には、アレクシス様はオフィーリア嬢の友人ということにしてもらった。
アレクシス様は、途中で食事と飲み物の休憩を挟んだ他は、朝から晩まで時間を惜しむように稽古に参加した。災難なことに、オフィーリア嬢はそれにずっと付き合わされた。
夕方になり、ようやく指南所を離れることになった。馬車が動き出すとすぐに、アレクシス様は私に、オフィーリア嬢はエリス嬢にもたれかかり、二人は寝た。
エリス嬢は薄汚れたオフィーリア嬢を優しく見て、髪を優しく梳いた。エリス嬢に向かって、私から言った。
「本日は、朝早くから夜遅くまでお付き合いいただき、ありがとうございました」
「とんでもないことでございます。妹にとっても私にとっても、光栄なことでございました」
「お陰様で、殿下にとって、大変有意義な一日となったと確信しております」
エリス嬢は微笑んでいた。
「ランドルフ様にとっては、いかがでしたか?」
自分自身に水を向けられるとは思わず、言葉に悩んだ。何とか今日のことを思い返し、言葉を紡ぐ。
「……そうですね。人々が、暮らしていましたね」
変なことを言っている自覚はある。今日、行ったのは、この国の王都の下町だ。当たり前のことだろう。
それでも、『私達とは違う』という母の言葉を聞く度、違和感と反発を持ちながら、どこかで、本当に母の言う通り、通りを隔てた向こう側には、本当に違う生き物が暮らしているのかもしれないと思っていた。
エリス嬢とオフィーリア嬢はこの景色を知っていた。アレクシス様は、いつか、誰かとこの景色を見ただろう。でも――
「私にとって、これは、一人では見られなかった景色です」
彼女は何も言わず、優しく微笑んでいた。
肩には私にもたれかかり眠るアレクシス様がいる。目の前には、エリス嬢がオフィーリア嬢を優しく見守っている。
馬車の窓から、遠くなった下町の建物を見た。喧騒はもう届かない。でも、そこに、人々の息吹があることを、私はもう知っている。
再び、正面に目を移し、エリス嬢を見た。夕日に亜麻色の髪が照らされ、美しかった。
殿下とこの国のために生きると決めている。何があっても揺らぐつもりはなかった。それが、歴史ある侯爵家に嫡男として生まれた人間の使命だと思っていた。
それでも、そのことで、この景色を守ることができれば、どれだけ良いことだろうか――
「私は、生涯、この景色を忘れないと思います」
◇◇◇◇◇
アレクシス様は十五歳になった。三年前、殿下は、初めて、オフィーリア嬢に剣で勝った。勝った時の何とも言えない表情はよく覚えている。
殿下は、自らの剣で、オフィーリア嬢の剣を弾くと、呆然とした後、勝利に頬を紅潮させ、その後、寂しそうに顔を歪ませた。
そして、一度勝った後は、アレクシス様はオフィーリア嬢に何度も勝利を収めるようになった。
オフィーリア嬢に慢心があったわけではない。それは、殿下の努力によるものもあったが、成長に従って大きくなった体のつくりの性差によるものが大きかった。そのことは、殿下もオフィーリア嬢も、言葉にしなかったが、分かっていたと思う。
周囲からの評価も、オフィーリア嬢はよく持ち堪えたというものだった。性差により年々広がる体格の違いにも、女性なのに剣で殿下に張り合うことに眉を顰める人々の目にも、新興貴族であるのに王宮に頻繁に呼ばれることへの周囲の嫉妬にも耐え、殿下の剣の相手を務め上げた。私にとって、彼女は、殿下に続き、年下でありながら、尊敬する人物となった。
殿下に勝てなくなったオフィーリア嬢は、剣を折った。殿下に負けるまでと、彼女の中で、期限を決めていたのかもしれない。そして、少しして、彼女は外国語の習得に力を入れるようになったと噂で聞いた。
アレクシス様は、オフィーリア嬢に剣で負けたことをきっかけに、心を入れ替えるように、剣術だけでなく、勉学や公務にも精力的に励むようになっていた。国王陛下と王妃殿下は、息子の気を引き締めてくれたオフィーリア嬢に感謝し、外国語の習得に力を入れているという彼女に、留学を勧め、金銭の援助と学校の紹介を申し出た。
しかし、それは表向きの理由で、新興貴族の出であるオフィーリア嬢に傾倒するアレクシス様から、オフィーリア嬢を物理的に引き離すことを目論むものだと、私には映った。
成人した私は、正式に王宮でアレクシス様の側近として働くようになった。
いつものように王宮に出仕する予定である、とある日の明け方、屋敷の階下に母の金切り声が響いた。
「貴方、いい加減になさってください!」
皆が寝静まっている間を狙って、屋敷から金でも取りに帰ってきた父を、母が見つけたのだろう。
「侯爵としての責務を放り出し、雌猫のところに入り浸り。立場をお忘れになって、草葉の陰のご両親も泣いていらっしゃいますわ!
貴方、随分と、お気に入りの雌猫のところに入り浸っているようですが、まさか、雌猫に産ませた子に、この家を継がせる気ではないでしょうね。この家の歴史は、貴方の一存でどうにかなるものでは――」
いつもは黙っている父が反論した。
「……責務、立場、歴史なんて言いながら、君が大事に思っているのは、結局、自分自身の見栄や誇りだろう」
「なっ、何を仰るのですか。私はこの家のことを思って――」
「私がこの家の主だ。私に不満なら、この家から出ていってくれて構わない」
「そんなことできるはずないじゃありませんか!」
何か割れる音がした。父も母も声が大きい。明日の使用人たちの井戸端会議のネタが決まった。せめて、妹達は聞いていないように願うが、それも難しいだろう――
翌朝、母は何でもない顔をしていた。でも、口にしたのは、いつもの小言より、一歩踏み出したものだった。
「ランドルフ、貴方、結婚については、どう考えているの?」
私に、歴史や権威ある貴族家の令嬢と婚姻を結ばせ、私がこの家を継ぐのを確固たるものにしたいのだろうと想像がついた。
自由はなく、面倒はあっても、この家を継ぐと心を決めている。しかし、父と母の姿を見て、どうして、結婚に前向きになどなれようか――
用意していた言い訳を口にした。
「アレクシス様の最側近として、殿下が身を固められるまでは待ちたいと存じます」
私の言葉に母が渋い顔をした。
「……王太子殿下、ね。噂で聞いていますよ。王太子殿下は、蛮勇で知られる祖父を持つ、新興の貴族の娘との婚姻を望んでいる、と。これでは国王陛下も大変ね。この侯爵家出身の王妃殿下の血かしら。
全く、王太子殿下も、その娘と会ってからは様子がおかしいですし。そもそも剣術など、騎士達に任せておけばよいのに。この国のためにも、王太子殿下には、早く目を覚ましていただきたいものですわ」
母の言葉に、胸に苦いものが広がった。
数年前、つまらなそうにしていたアレクシス様は、オフィーリア嬢に出会い、剣術にも他のことにも精力的に取り組んでいるようになった。それはこの国の頂点になる殿下自身のためならず、国のためにもいいことではないのか。
不満を持つ内心が伝わったのか、母が私をねめつけた。
「分かっていますね、ランドルフ」
「……ええ、母上」
私の同意にひとまず納得したらしい母が、何か閃いたように言った。
「ランドルフ、貴方が王太子殿下に手本を見せるという考え方もあるのではなくて? 我々はこの世界の上澄みで生きている。貴方なら誰に申し込んでも断られることはないでしょうけれど、良家のお嬢様ほど早くお相手が見つかるものよ。そろそろ、身を固めなさい――」
「どうせ、侯爵である父が私の婚約や結婚に乗り気ではないから、進まないでしょう」
あまり母の感情を逆撫ですることは言いたくないのに、つい苛々して、余計なひと言を言ってしまった。案の定、母は目を吊り上げると、感情的な声を響かせた。
「ランドルフ、貴方まで反抗するの?!」
その後、逃げるように屋敷を去り、王宮に出仕した。アレクシス様の執務室に着くなり、殿下が私に言った。
「オフィーリアに会いに行こうと思う」
「……正気ですか? オフィーリア嬢に話は通してあるのですか?」
「当然していない。彼女が同意すると思うか?」
つまらなそうにしていた殿下は、変態に成長した。精力的に、オフィーリア嬢を追いかけまわしている。
引いた気持ちでいる私を前に、殿下が不敵に笑った。
「将来の王太子妃に虫がついてはいけないだろう」
「『将来の』ってアレクシス様が言っているだけでしょう」
「私が言っているんだ。決定事項だ」
殿下の中ではもう決めているのだろう。かといって、殿下はこの国の次期国王で、オフィーリア嬢は往復に何日もかかる異国にいて、殿下が彼女に会いに行くことでの周囲に与える影響を考えると、簡単に首肯できる話ではない。
「国王陛下と王妃殿下の許可は?」
「ない」
「なら、駄目です」
「お前、私の信頼はいらないのか? 欲しいなら何とかしろ」
……本当に、嫌なところをつく。
オフィーリア嬢の気持ちは痛いほど分かる。相手と自分の立場を考えれば、簡単に手を出せる相手ではない。自分の行動が、彼女の周囲にどういう影響を及ぼすか分からないわけではないわけではないだろうに、目の前のこの男は、本当に……。
数日、殿下が留守にするために必要なことを考えるため、書類を整理しつつも、意趣返しをしたくて、言ってみた。
「しつこい男は嫌われますよ」
「嫌われても、彼女が他の男に奪われるよりはいいね」
それだけ思う相手と出会え、素直にその女性を求める強い意思に、うっかり、男として羨ましく感じてしまっていると、殿下が珍しく少し控えめに続けた。
「それに、彼女も私のことは悪く思っていない……と思う」
その珍しく年少らしく揺らぐ様子に、ニヤニヤしながら、貴重な機会と追い打ちをかけてみた。
「希望的観測では?」
とはいえ、オフィーリア嬢が本気で嫌がっているようであれば、私とて止めねばならない。王太子の結婚相手候補として名を上げるなど、これからの彼女の人生に影響を及ぼす。
オフィーリア嬢の近況を聞くため、妹達に、友人伝いで、彼女の姉であるエリス嬢をお茶会に誘ってもらった。エリス嬢は、妹達の誘いを受け、我が家に来てくれることになった。
そして、数日経って、エリス嬢が我が家にやって来た。無礼がないよう、母には外出してもらっている。母も、新興貴族の令嬢と顔を合わせたくないようで、そそくさと出て行った。
「ランドルフ様、ご無沙汰しております。ごきげんよう」
久し振りに会うことに少し緊張していたが、彼女は変わらず、穏やかな笑顔を浮かべていた。でも、どこか大人の女性らしさも感じた。
ついそんなことを考えてしまっていると、エリス嬢がふふっと笑った。内心を読まれたようなタイミングで、少し居心地を悪く感じながら聞いた。
「何か?」
「いいえ。ランドルフ様は相変わらず素敵だと思いまして」
驚くと共に、正面からそんなことを言われたことに、少し恥ずかしい気持ちになった。
こちらの気持ちを知ってか知らずか、エリス嬢は続けた。
「ランドルフ様に憧れる私の友人も多いのですのよ。美しい銀色の髪も青い瞳もですが、何より、柔らかで紳士的な物腰が、物語の王子様みたいだと」
「勿体ないことです。でも、実際の王子様が『あんなの』だからこそ、側近である私まで話し掛けづらくならないよう、穏やかに振る舞うしかなかったというのが実情ですよ」
幼い頃から知るエリス嬢だからこそ、殿下を思い浮かべながら正直に言ってみると、彼女はコロコロと鈴が鳴るように笑った。
殿下の話になったので、早速だが、話を切り出すことにした。
「そのアレクシス様ですが、今度、貴方の妹君に会いに行くことを企んでいます」
「あら、まあ。異国にいるのにですか?」
「はい。異国にいるのに、です」
アレクシス様、オフィーリア嬢、国王陛下、王妃殿下、王宮や侯爵家の面々を思い浮かべながら、口を開いた。
「殿下はオフィーリア嬢に好意を持っています。ただ、国王陛下、王妃殿下は、殿下の気持ちを変えられないかと考えていらっしゃるようです。
国を背負う重圧に耐えていく殿下には、せめて好きな方と添い遂げて欲しいと思っております。ただ、オフィーリア嬢が望まないのであれば、殿下をお諫めすることも私の務めと思っております。
オフィーリア嬢の意向を探っていただけないでしょうか。このことは内密にいただきたいですが、ご両親にだけは、相談してもらっても構いません」
現在の国王と王妃の意に背き、王太子の恋を後押しするのも、未来の国王の求愛を断るのも、どちらにせよ、重い決断を迫っているようで、気持ちが重くなる。
何を考えているのか、エリス嬢は変わらない微笑みを浮かべ続けた。
「オフィーリアに身を引くよう言い含めさせ、国王陛下と王妃殿下に恩を売ることも、嘘の情報を私に伝えて、王太子殿下の想いを叶えることもできる状況というのに。ランドルフ様は誠実でいらっしゃるのね」
私を優しい目で見ながら、エリス嬢が続けた。
「では、私も誠意を持って答えますわ。オフィーリアは、自ら王太子殿下の妻を望めるような妹ではありません。でも、それは愛がないからだとは思わないでください。自らが未来の王妃に相応しいという確信が持てないからで、この国への誠意ゆえです。
我が家は祖父が戦功により爵位を与えられた新興貴族ですし、私にとって、オフィーリアは可愛い妹ですし、確かに殿下に剣で勝つという他の令嬢にはなかったことをしましたが、もう過去のことですし、王太子殿下の相手に求められるものとも思いません」
エリス嬢はおっとりとした口調ではあるが、しっかりとした意思を感じさせる声をしていた。
「とはいえ、妹や我が家にとって、光栄なことではありますし。妹を真剣に思ってくださる殿下に、父も母も感銘を受けております。そして、殿下を思うランドルフ様のお気持ちも分かるつもりではおります。
答えがあることではないのでしょう。だから、二人で納得いく結果を見つけてもらえればと思います」
それは優しくはあったが、何とも言えない落ち着かないものを感じた。
「国王陛下や王妃殿下が殿下から引き離すためや、殿下がオフィーリア嬢に振られたことを怨みに思うことにより、冷遇することがあったらどうなさるのですか?」
「あら。そんな狭量なことをされたら、流石に見損なってしまいそうです」
エリス嬢は少し眉を顰めた後、やはり穏やかに笑った。
「でも、きっと大丈夫ですわ。オフィーリアは剣の腕もありますし、今は異国で勉学に励ませていただいた経験もある。妹は、きっと、どうにでも生き抜くでしょう」
「あまり、国を舐めない方がいい。それに、彼女が生きていられても、貴家のことはどう思われているのですか?」
「あらあら、ご心配いただき、ありがとうございます。我が家には、一人、弟がいるのはご存知のことかと思いますが、それがまあ可愛い子で。愛嬌があって、何かにつけて運がいいから、弟もどうにか生きていくと思いますわ」
エリス嬢が妹と弟のことだけを口にするのに、もどかしさを感じた。
「では、貴女は?」
「私と父母だけは、路頭に迷うかもしれないですわね。二代前の祖父の頃のように、無事に平民に戻るだけで済むといいですけれど」
エリス嬢はお茶目な顔をして答えた後、コロコロと鈴が鳴るように笑った。でも、今度は気持ちを軽くしてもらえなかった。
「良くない冗談です。前王も貴女の祖父に期待して爵位を与え、国の発展に貢献することを期待した。領地の民も、領主がそんな心持ちだと知ると悲しむ」
「申し訳ございません。ランドルフ様のお心の広さに甘え、つまらない冗談を言ってしまいました。軽率でしたわ」
尖った言い方を私がしたのに、エリス嬢がしゅんとしたのを見て、我に返った。
エリス嬢とて、本気で言っているわけではない。王太子殿下の気持ちを大事にして、更に、こちらの気持ちを軽くするために言ってくれただけだ。エリス嬢から見て、オフィーリア嬢は完全にアレクシス様を嫌がっているわけではないと知れただけで、十分に今回の目的を果たしている。
いつもは平静でいられるはずなのに、何故、こんな言い方をしてしまったのか、と自問して気付いた。
「……いや、違うのです。私に気を許しての冗談だと分かっています。謝罪させてください。ただ、貴女に会えなくなると、私が寂しいというだけです」
エリス嬢は目をパチクリさせた後、再び、優しい微笑みを浮かべた。
「少しでも、ランドルフ様の慰めになっているのであれば幸いです」
「……しがらみばかりの私の世界で、素直に話すことを許してくれる貴女の存在は大きいです」
「ありがとうございます。私、これからも、誠実であり続けたいと思いますわ。特に、ランドルフ様に対しては」
エリス嬢がいつもの柔らかな雰囲気になったのを見て、胸を撫で下ろした。目的さえ果たせれば、誰にどう思われても良いつもりでいたが、彼女にだけは距離を開けられたくなかった。
遅くなったが、彼女に来てもらった、本来の目的に戻ることにした。
「お引止めして申し訳ありません。妹達が待っています。茶会の場所に案内しますね」
「あら、本当にお茶を出していただけるのですか? これで、本来の目的は終えたから、退出すべきかと思っておりました」
エリス嬢の言葉に、私が頭を押さえると、彼女は再び鈴が鳴るように笑った。その時々を楽しんでいる様子の彼女は、いつも明るかった。
◇◇◇◇◇
アレクシス様は、十七歳となり、成人まであと一年となった。
国王陛下と王妃殿下の唯一の子であるアレクシス様は、誰にも何も言わせない実力をつけると共に、異国にいるオフィーリア嬢へのつきまとい行為を続けた。その意志の強さに、国王陛下と王妃殿下の方が折れつつあった。
アレクシス様がオフィーリア嬢に会いに隣国に行く際、私が殿下の代わりに王宮で話を聞くので、オフィーリア嬢には、彼女が留学してから会っていない。アレクシス様は、オフィーリア嬢に状況をどう伝えているのだろうか。想像すると、やはり胃が痛い。
とある日の朝、いつものように、母と成長した二人の妹と共に朝食を取っていた。父は、やはり外にいる恋仲の女性のところにばかりいて、戻ってこない。
「今日は我が家でお茶会を開く予定でしたね。どなたがいらっしゃるの?」
「アスター伯爵家のエリス様よ」
年長の妹のブリアンナが何でもないように言い、母が目を吊り上がらせた。
「聞いていませんよ!」
年少の妹のクリスティも微笑みながら、母に言葉を返した。
「お母様を驚かせようと思いまして。お喜びになって。今を時めく王太子妃の筆頭候補の姉君ですわ」
「馬鹿なことを言うものではありません!」
ブリアンナが冷ややかに反論した。
「王太子殿下は、エリス様の妹君へ変わらず愛情を持ち続け、毎年、異国まで会いに行っていらっしゃるということは皆が知っているわ。お母様には話が届いていないのかしら」
「知っています! でも、皆、面白おかしく話しているだけで、野蛮な祖父を持ち、剣を取っていた、淑女などとても言えない女性が、王太子殿下のご結婚相手になんてなるはずがないでしょう!」
結局、「お呼びしたのに、まともにお茶も出さないなんて、社交界で笑いものになりますわね」というクリスティの言葉に、母親が目を剥きつつ、折れた。
茶会の準備を終え、ブリアンナとクリスティが話した。
「お母様が出て行ってくださって良かったわ。これで、安心してエリス様をお迎えできる」
「本当に。エリス様をお招きするのは私達が会いたいからだけど、そうでなくても未来の王太子妃殿下の姉君なんて、仲を深めるべき相手なのに。お母様ったら、現実を直視しないで馬鹿みたい」
母は、二代前まで平民だった家の娘と同じ空間にいたくないと家を出ていった。正直なところ、妹達の方が状況を見ていると思う。
あとは、オフィーリア嬢とアスター伯爵家に、少しの後ろ盾があれば、王太子殿下の婚約者として、盤石になるだろう。その手段はいくつか考えられるが――
「お兄様、エリス様はお兄様と結婚してくれないかしら?」
「あら、ブリアンナお姉様。私もそうなれば良いと思っていましたの。今なら、アレクシス様がオフィーリア様との婚約を進めるためにも、喜ばれそうですわ」
突然、ブリアンナとクリスティに水を向けられ、咳き込みそうになった。妹達を見ると、期待に輝く目で、こちらを見ていた。
数年前、妹達のお茶会を理由に、エリス嬢に我が家に来てもらった。以降、妹達は、母とは正反対のエリス嬢の柔らかな雰囲気に、姉のように懐き、懇親を深めている。
妹が言い出したことはおかしなことではない。由緒と歴史は十分な侯爵家、王太子殿下の側近である私、彼女の妹との結婚を望んでいる王太子殿下。条件としては悪くない。
しかし、我が家に目を向けて見れば、婚外子を作り、私の結婚に前向きではない父、血統主義者で伯爵家を下に見る母――
「来てもらって、彼女が幸せになると思うか?」
「……そうよね。愚問だったわ」
ブリアンナが溜め息交じりに言ったが、クリスティはどこか揶揄うように言った。
「でも、お兄様、できないとも、したくないとも言わないのですわね」
クリスティの言葉に、再び可能性を感じたらしいブリアンナも、再び声に期待が籠った。
「お兄様さえその気になってくれれば、私達も力になりますわよ」
妹二人相手に、言葉に詰まる。母相手に居心地が悪そうにしていた妹も、弁が立つようになった。
間もなくエリス嬢が伯爵家の侍女と共に現れ、妹二人が駆け寄った。
「エリス様!」
「お会いしたかったですわ!」
エリス嬢はブリアンナとクリスティを嬉しそうに見た。
「私もですわ。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
エリス嬢には妹と弟がいたが、妹が異国に、弟はまだ領地にいる今、彼女にとって、ブリアンナとクリスティは年下の兄弟のように可愛く思っているのかもしれない。
そんなことを思いながら、エリス嬢と妹達を見ていると、エリス嬢が私に気付いた。目が合い、ドキリとした。内心、慌てて、一通りの挨拶を口にした。
「エリス嬢、今日はお越しいただき、ありがとうございます」
「ご機嫌麗しゅう、ランドルフ様。お招きいただき、ありがとうございます」
私の様子を見て、妹達が口を挟んだ。
「お兄様、もっと気の利いた挨拶はできないの?」
「仕方ないことですわ、お姉様。お兄様はエリス様の美しさに目を奪われているのだから」
「お前達、何を……」
止めようとした私の言葉を、クリスティが遮った。
「お優しいエリス様は、男女を問わず、私達くらいの歳頃の中で大人気なのよ」
エリス嬢は困ったように笑った。
「異国にいる妹のことを知りたい方が多いからだけですわ」
ブリアンナとクリスティが被せるように言った。
「謙遜はおやめくださいませ。きっかけは、確かにそうだったかもしれません。でも、今はエリス様のファンも多くてよ」
「今日、我が家に来て、三人でのお茶会をするのも、他に来たいという人が多くて大変だったのですよ」
そして、妹達はエリス嬢の腕を掴んだまま、今度は私を見た。
「お兄様はご存知ないの? だとしたら、いくら朴念仁だとしても、情報収集不足よ」
「そうですわ。王太子殿下の側近失格ですよ」
妹二人に言われ、改めて、目の前のエリス嬢を見た。
オフィーリア嬢が婚約者候補となり、彼女も注目を集めていることは知っていた。腹に一物ある人間が近付いてくることも、口さがない人々の悪意に晒されることもあっただろう。それでも、これまでと変わらない柔らかな雰囲気は何も損なわれていない。
それは私達が住む社会では得難いことで、若い妹達や妹達の友人が慕うのも、分かる気がした――
「ランドルフ、お前、エリス嬢と結婚しないか?」
王宮に出仕し、王太子殿下の執務室に行くなり、アレクシス様に聞かれ、またも咳き込みそうになった。ぐっと堪え、意図を見極めようと殿下を見ると、何でもないことのように言った。
「私がオフィーリアとの結婚を進めるに当たり、彼女にもう少し後ろ盾が欲しいと思って。ちょうどいいことに、彼女には姉のエリス嬢がいて、私の最側近のお前に婚約者はいない。何より、可愛い従妹からタレコミがあったぞ」
妹達の得意げな顔が浮かんだ。殿下にまで手を回したのか――
何と返すべきか思いつかず、時間稼ぎに、母にいつも使う文句を口にした。
「父が私の結婚に乗り気ではありません」
「私が、お前の父の代わりに後押ししてやる」
しかし、アレクシス様は私の言い訳も一蹴した。
歴史あるバーナード侯爵家の嫡男であり、王太子殿下の側近である私であれば、新興貴族であるアスター伯爵家にないものを補える。
納得する。これで、全方位が丸く収まる。結婚に夢など持っていない。でも、何か釈然としない――
「必ずしも私と彼女の姉である必要はないのでは? 我が家には妹が二人、アスター伯爵家には弟がいるはずです」
「おい、ここまで私が整えると言っているのに本気か? お前、エリス嬢に良い印象を持っているのだろう。このままだと、誰かに取られるぞ」
躊躇する私の思考の先を行くように殿下が言い、再び、言葉に詰まった。
結婚に夢は持っていない。これで四方が上手く収まる。更に、私は彼女に良い感情を持っている。これ以上、何を望むというのか――
考えに考えて、言葉を絞り出した。
「……彼女がそれを望んでいるか、分かりません」
言葉にして気が付いた。私は結婚には夢を持っていない。でも、彼女には夢を持っている。どうか、あの穏やかな笑顔を曇らせないでほしい。
「……ランドルフ、私とは別の方向に拗らせているな。お前がそこまで彼女に夢を見ていたとは知らなかった」
アレクシス様が呆れたように言った。
「殿下には言われたくありません」
殿下は咄嗟に私に反論しようとしたが、何を思ったのか言葉を呑み込み、少し考え込んだ後、口を開いた。
「お前はよくやってくれている。幼い頃から、お前がいるから私は好きにできる」
「ありがとうございます」
「私の側近として、権力はそれなりにあれども、板挟みになることは多く、家に帰れば、バーナード侯爵家の親とは不和。お前に私欲らしいものはない。全てを投げ出したくなったことはないのか?」
「特にありません」
「何故?」
「侯爵家を継ぐ人間としての責務と、殿下への忠誠心です」
「真面目か」
「普通です」
私の言葉に殿下は頭を抱えた後、毅然と顔を上げ、突然、自慢を始めた。
「私は生まれながらに多くのものを与えられている。国を統べる権力、重圧に耐える精神、それに応える能力」
自分で言い切る不遜さ、そして、あながちそれが嘘でもないのが、なんとも憎らしい。
何も言えずにいると、殿下が続けた。
「でも、これは全て与えられたものだ。人生で、自分の意思で求めたものが、一つくらい欲しい。私にとって、それがオフィーリアだ。
彼女は光だ。鮮烈に道を照らしてくれるもの。どうしても、求めてしまうもの。お前にとって、エリス嬢はそういうものではないようだな」
知ってはいたが、身勝手だと思った。相手が幸せになるかも分からないのに。でも、眩しかった――
「国のため、王家のため、私のため、侯爵家のため。それは立派だし、感謝しているよ。では、お前の人生はそれだけでいいのか?」
殿下でなければ、耳を塞ぎたかった。聞いて、揺らぎたくなどなかった。
「彼女が望むか分からない? 彼女に聞けばいいだけだろう。幸せか分からない? お前が幸せにすると、覚悟を決めればいいだけだろう」
こちらの感情を揺さぶって、殿下は一方的に話を終わらせた。
「よく考えろ。話は以上だ」
一か月ほど経ち、アレクシス様が成人した。それを祝い、王宮で夜会が開かれることになった。
殿下の成人を祝うものなので、特別に、妹達のように、殿下と歳の近い未成年の人間も招待され、参加した。年若い多くの人達にとって、初めての王宮での夜会となり、いつもより若い雰囲気で明るく、浮かれたものとなった。殿下の側近である私の周りにも、同世代の大勢の人間が集まっていた。
多くの人からの挨拶を受けながら、そっと会場を見渡すと、エリス嬢もいた。殿下に言われて以降、エリス嬢のことをずっと考えているが答えは出ない。
優しい微笑みを遠くから眺めながら思う。このままではいけないのか。このままでもいいのではないか。私は、あの柔らかな笑顔を見守ることができれば、それで――
ややあって、殿下が私の近くに来た。アレクシス様と側近である私は、当然、普段から顔を合わせる仲であり、夜会のような人脈を広げる場面で話す必要はない。何かあったかと訝しんでいると、アレクシス様が私にしか聞こえないような小さな声で言った。
「エリス嬢が男性と二人で出て行った。ただならず親密な様子だ」
伝えられたことに思わず狼狽していると、珍しく朗らかな声で、殿下が周りに言った。
「皆の者、今日は私のために集まってくれたこと、感謝する」
殿下は皆の注目を掻っ攫い、私には『行ってこい』と目で伝えた。
場を離れ、まずはホールの出口に向かった。そういえば、妹達は、男女問わず人気だと言っていた。王太子殿下とオフィーリア嬢のロマンスの結果が出るまでは、様子見だと何となく勝手に思っていたが。
誰かが彼女を好きになってもおかしくない。そして、子の自由を重んじる家庭に育った彼女が、その想いに応えたとしても――
出口の方に向かうと、妹達に手を引かれた。妹達は王宮の中庭の方向を示し、小声で言った。
「お兄様、こちらよ!」
「お急ぎになって!」
「すまない」
急ぎ足で中庭に向かうと、エリス嬢と、殿下と変わらない年頃の男性が、仲良さげに談笑していた。あれは、確か、先日、成人したカールトン伯爵の長男だ。
エリス嬢は男性を頼るように見上げ、男性は顔を赤らめた後、蕩けるような笑みを浮かべた。
ヒリヒリした胸の痛みを感じていると私に気付き、二人がこちらを見た。
感情のまま、ここまで来てしまったが、完全に横恋慕だ。エリス嬢とカールトン伯爵の息子も状況がよく分からないようで、黙っている。
沈黙を破ったのは、エリス嬢だった。
「ランドルフ様、どうかされました?」
その優しい声に、またも甘えるようで恥じたが、恐らくこれが最後の機会だ。ままよ、と思い、口を開いた。
「談笑中に申し訳ない。エリス嬢に話したいことがあります。よろしいでしょうか?」
「私ですか? ええ、もちろん」
エリス嬢が驚きながら答え、カールトン伯爵の息子は私の雰囲気に圧倒されたように黙って何度も頷いた。殿下の側近として、歳の割に経験を持つ私が、成人したばかりの相手に大人げなく、情けない。
エリス嬢に来てもらい、中庭を進んだ。いつの間にか、かつて、殿下がオフィーリア嬢に挑んでいた場所に来ていた。エリス嬢も気付いたらしく、懐かしげに周囲を見た。
立ち止まり、ようやくだが、エリス嬢に話し掛けた。
「先程は、不躾にも、お話し中に申し訳ありませんでした」
「後で話すので大丈夫ですわ」
彼女はいつものように微笑んだ。それにいつも心を癒されていたというのに、今日ばかりは苦しくなる。
「それは、私ではいけないことですか?」
「え?」
「先ほどの彼とどこまで話を進めているのか、存じません。それでも、私ではいけないでしょうか? もう、間に合わないでしょうか?」
彼女を取られたくないと、唐突に自覚する。彼女が好きだと、抑えていた気持ちが溢れる。
今更でも、何か彼女にアピールできることはないかと考えるが、頭に浮かぶのは「父は王妃殿下の兄」とか「王太子殿下とは旧知の仲で、最側近として務めている」とか、結局は、彼女や先ほどの男性に圧力をかけるような家や立場のことばかりで。
男としては、立場も何も定まらなくても気持ちを伝えられた相手に敵わないと思い知らされる――
苦い気持ちで返事を待つが、エリス嬢の答えは思いがけないものだった。
「いえ、お願いしてもいいですか? 何人いらしてくださっても有難いですし」
「……何人いてもいい?」
「ええ。弟も、頼る方が多いと心強いと思います」
「…………弟?」
ともすれば、噛み合わない会話をしながら、私は何か誤解しているのではないかと気が付いた。エリス嬢は朗らかに言った。
「ええ。領地で過ごしている弟が、今度、ようやく王都に来るので、ブリアンナ様とクリスティ様に、弟の相談に乗っていただけそうなご友人を紹介いただいていたのです。ランドルフ様まで頼りにさせていただけると心強いですわ」
やられた……。
彼女の言葉に、アレクシス様と妹二人の姿が浮かび、謀られたことを知った。こちらの内心を知らないエリス嬢は、気持ちを切り替えたようで嬉しそうに言った。
「ランドルフ様のことは頼りにしておりましたが、王太子殿下の補佐というお仕事柄、お忙しいかと遠慮がありまして……。でも、弟のことをそこまで思ってくださっていたなんて有難いことです」
「……申し訳ありません。勘違いしました」
「ええと? そうですわよね、やはりお忙しいですわよね」
「いえ、弟君のことは全力で力になります。でも、それだけではないのです」
好きな女性に対して、無能になるのは私もらしい。以後、アレクシス様に、オフィーリア嬢の件で偉そうなことは言えなくなった。
そして、見守っていたつもりで、見守られていたのは私だったのか――
羞恥から、エリス嬢をじっと見つめたまま、何も言えなくなった私に、彼女が声を掛けた。
「ランドルフ様、何かお話があるのですね? どうぞ好きに仰ってください」
彼女は、殿下と自身の妹を見守っていた時のように優しく私を見た。
「幼い頃からランドルフ様とお話する機会に恵まれましたが、ランドルフ様がご自身のことを仰るのを聞いたことがありません。ブリアンナ様やクリスティ様も、それをもどかしく思っていらっしゃるようでした。もしかすると、王太子殿下も。話を聞くことくらいは、私にもできると思います」
その言葉に、ようやく覚悟ができた。
「エリス嬢、私には制約がたくさんあります。父は平民と子を作り、その反動で、母は血統主義者。未来の君主である王太子殿下は、尊敬はすれども、我が強く、私はこれからも振り回されてばかりでしょう。
多くの都合で私の周りはできていて、貴女の周囲の家族や友人のように穏やかなものであるとは言い難い」
突然の私の告白だったが、彼女は静かに聞いていた。覚悟を決めたとは言え、その先を口にするのは少し緊張した。
「それでも、殿下にとっての光が、この世界を鮮やかに照らすものであるならば、私にとっての光は、この世界を優しく包み込むものです。それは、貴女以外にはないと確信している。どうか、私の道を、生涯、照らしていただけないでしょうか」
エリス嬢はポカンと目を大きく見開いた後、自分に言われたことなのか、何を言われているのか、夢でないか確認するよう、顔を赤くして、キョロキョロと周囲を見渡した。可愛い。
「それは……」
「貴女を愛しているがゆえの求婚です」
初めて聞くオロオロとした声で私に確認しようとするエリス嬢に被せるように答えた。
「答えは、私の立場や身分を気にせず、考えてください。自分のために、何かに手を伸ばしたのは、これが初めてでした。私の人生の最初で最後の我儘に付き合っていただき、ありがとうございました」
自らの気持ちを素直に表現するとは、こんなにも晴れやかな気持ちなのか。
でも、それ以上の気持ちがあると知る――
エリス嬢はポロポロと涙を零した。狼狽えながら、胸元のハンカチを差し出した。彼女はそれを受け取り、絞り出すように言った。
「……本当に、私で良いのですか」
その答えは、彼女が私の告白を好意的に受け取ってくれているようで、良い結果を求めてのものでなかったはずなのに、どうしても、続きを期待してしまう。
「自分のことを卑下するようなことは言いたくありません。
それでも、新興の我が家に、この国への忠誠心はあれども、ランドルフ様の生家の負う歴史には遠く及びません。妹に才はあれども、私自身は凡庸な身です」
決してそのようなことはない。彼女の優しさに、私も妹も、そして、きっとオフィーリア嬢も、どれだけ心慰められたか分からない。
胸がいっぱいでうまく言葉にできないでいる間に、彼女が続けた。
「それでも、望んでいただけるのであれば、誠意だけでなく、ランドルフ様にはこれからは誰よりも愛情を持ち続けると誓いますので、どうか共に生涯を歩ませてくださいませ」
泣き笑いの表情で彼女がこちらを見て、歓喜が広がった。感情のまま、彼女を引き寄せると、彼女が小さく驚いた声をした。その声は弾んでいた、
二人向き合うと、彼女は優しい笑みを、まっすぐにこちらに向けていた。これから、絶対にこの笑顔を守り続けると心に決めると、そっと唇を重ねた。