9 Interlude【ブラウ視点】神凪リョウ
アベルが硬い表情で執務室を出た後、大公が溜息をついた。
「…やれやれ、あそこまで分かりやすい奴だったとは…」
口調が崩れ、一気に空気が緩んだ。
ブラウは肩を竦める。
「少しは手加減してくださいよ。あれで結構、繊細なんスから」
「分かってはいるんだがな。普段澄まし顔で任務をこなすあいつがああも取り乱すとなると、つついてみたくもなるだろう?」
「…否定はしませんけどね」
正直、ブラウの目から見てもアベルの態度は異常もいいところだった。
冷静沈着な美形軍人。
それなりに人当たりは良いが、特殊部隊の近しい仲間以外とは常に一定の距離を取る。
美女に言い寄られても全く動じず、やっかみから陰では『不能』説がまことしやかに囁かれていたりもする。
それが、アベル・イグナシオという男だ。
だが、正直『美女』とは言い難いあの女性──神凪リョウが現れた途端、その印象は見事に崩れた。
尋問部屋で『彼女の拘束を解いてくれ』とダリオに縋り付いたと聞いた時は、聞き間違いかと思った。
極めつけは先程の病室でのやり取りだ。
大公を立って出迎えたリョウに詰め寄り、至極真っ当な反論をされて頭を抱える姿。
ベッドに座らせるために自ら毛布を剥いで誘導し、背中側にクッションを詰める甲斐甲斐しさ。
怪我人だから無理をさせるなと、大公を止めようとしたその言動。
軍事孤児院時代からの付き合いのブラウすら、一体こいつは誰だ、と、本気で自分の目と耳を疑った。
「…しかし、神凪リョウは本当に何者なのでしょうな」
口を開いたのは、ブラウと共に大公の護衛についていたベテランの特殊部隊員、カミロ・グリハルバ。
ブラウより一回り近く年上で、相手の戦闘能力を見極める異能を持つ。
「私の『眼』で見ても、彼女の戦闘能力は未知数でした。我々の知らない力を持っていると解釈するのが妥当ですが──」
「10年前、アベルをこちら側に返した人間だ。未知の力を持っていてもおかしくはないだろう」
大公はあっさりと言う。
「考えてもみろ。10年前、アベルは無傷で帰って来た。それ自体おかしな話じゃないか。訓練兵とはいえ、たかだか12歳の子どもが高さ10メートル以上の崖から川に落ちたんだぞ? 生きて帰ったとしても、本来なら骨の1本や2本、折れているのが自然だろう」
だが実際、アベルは無傷だった。
背中に奇妙な紋様がついていたが、それについては当時大公が『問題無い』と断言していたから放置されている。
その言葉が無条件で信じられるのには、理由がある。
──大公は、『識者の眼』と呼ばれる異能を持っているのだ。
「──アベルの背中のあの紋様の名は、『絆月の紋』。月は古来、背中を守るもの、守護者を意味するものだ。それがアベルの背中にあると言ったら、宝生殿は苦笑いしていたからな。恐らくアベルは、あの紋様の力で助かったんだろう」
『識者の眼』は、相手に関する様々な情報を見抜く。
趣味嗜好、性格、得意分野、異能の有無、身体的特徴──どれか一つの情報が簡単な言葉で表されるだけらしいが、大公に隠しておけるのは、自分の記憶と思考くらいだ。
「あの紋様がリョウの手によるものだとしたら、彼女の能力は相当なものだ。アベルから聞いた限り、12歳そこそこでアベルを上回る戦闘能力も持っていたらしいしな。──彼女が我々の敵ではない事を祈るばかりだ」
「そこまでですか」
「正直、『識者の眼』をもってしても底が見えない」
先程アベルに釘を刺していたのは、それが理由でもあるようだ。
それにしても、と大公は呟いた。
「呪術か…。『あの方』に助力を頼むべきだろうな」
「あの方、ですか?」
ブラウは首を傾げた。
国のトップである大公が『あの方』などと呼ぶ人物に、心当たりは無い。
大公は苦笑して、背後のエドガルドに視線を向けた。
「エドガルド、お前の伝手で『テレジア女史』に連絡を取れ。呪術に関する問題が起こっていると言えば即座に来るだろう」
「承知しました」
エドガルドも珍しく苦笑を浮かべながら敬礼する。
テレジア女史──響きからして女性だろうか。名前を聞いた事があるような、無いような。
その件に関してはそれで終わりらしい。大公は紙に何やら走り書きしてから顔を上げる。
「──カミロ、ブラウ」
改まった声で名を呼ばれ、ブラウはカミロと共にぴしりと姿勢を正した。
「お前たちはフォローに入るという名目で、リョウとアベル、両方を監視しろ。リョウは勿論だが、あの状態ではアベルも何をしでかすか分からん」
『はっ』
アベルは特殊部隊でもトップクラスの実力者だ。そのアベルが、明らかに冷静さを欠いている。
万が一、リョウが呪術に掛かっていたとしたら、彼女を守るために国を裏切る可能性が──
(…いや、それは無いな。絶対無い)
一瞬連想した未来を振り払う。
アベルは必要以上に責任感がある。
もしリョウが公国に害を為す人間だと分かったら、どんな手段を使ってでも自らの手で葬ることを選ぶだろう。
…そうなったら、恐らくアベルの精神は崩壊する。
(…なあ、頼むぜ、神凪リョウ)
大公に敬礼しながら、ブラウは心から思う。
大事な大事な幼馴染を、悲しませないでくれよ──と。
翌日、ブラウは一人の同僚を伴ってリョウの病室に向かった。
ノックをすると、どうぞ、と淡々とした声が応える。
「邪魔するぜ」
ドアを開けると、ベッドの上で上体を起こした神凪リョウと目が合った。
ほんの少し、不思議そうな顔をしている。一応先触れは出してあったのだが、アベルではない上、知らない人間を伴っているからだろう。
「よう、おはようさん」
「…おはようございます」
昨日、大公の護衛としてこの部屋に来たから、ブラウの顔は覚えているはずだ。軽い口調で挨拶すると、リョウはゆっくりと一礼した。
左腕は三角巾で吊られていて、入院着の合わせから、胸元に巻かれた包帯が見える。
今日の午後には回復術師が派遣されるそうだから、この姿もこれで見納めだ。
「一応改めて自己紹介な。俺はブラウ・エンリケス。アベルと同じ、公国軍特殊部隊員だ。これからは同僚になるから、敬語は要らないぜ」
んで、と続ける。
「こっちは同じく特殊部隊の、ニルダ・アルモンテ。お前さんの変装の手伝いをしてくれる」
「ニルダよ。私も敬語は要らないわ。事情はうちの隊長から聞いてるから、分からない事があったら何でも聞いて」
「ありがとう。私は神凪リョウ──リョウが名前だから、そっちで呼んで。よろしく」
握手を交わすと、ニルダはずいっと身を乗り出した。
「日焼けしてるけど、肌は結構綺麗ね。ちょっと乾燥気味かしら。髪質は…あら、枝毛も無いじゃない。もっと伸ばしたら相当映えると思うんだけど」
「え…っと」
遠慮なくベタベタと触りまくるニルダに、リョウが困惑の表情で固まる。
「あ、悪い。ニルダはちょっと変わった能力の持ち主でな。相手に触らないと、ちゃんと効力を発揮できないんだ」
だから暫く耐えてくれと言ったら、ニルダがむっとした顔でこちらを見た。
「何よ、まるで私が迷惑掛けてるみたいに。仕方ないでしょー?」
ニルダの異能は、『染色の手』。
相手の髪や目の色を、ある程度の範囲内で変化させることが出来る。
とはいえ持続期間はそれほど長くなく、10日程度が限界だ。
「だから、念には念を入れて5日に一度は掛け直す事になるわ。面倒だと思うけど、我慢してね」
「面倒だなんて…こっちが協力してもらう立場だし」
リョウが首を横に振る。
ニルダが感動したように目を見開いた。
「やだ、すっごい良い子じゃない。…あの歩く惚れ薬の恋人の振りをさせるなんて勿体ないわ」
アベルが聞いたらショックを受けそうな事を平気で言う。相変わらずだ。
「…歩く惚れ薬?」
「アベルのあだ名よ。不名誉な方の。あの顔あの年齢で特殊部隊の隊長補佐なんて立場でしょ? 群れるのよ、貴族のご令嬢が」
「オイ」
「なーによ。今から知っておくに越したことはないでしょ? 予備知識も無しにご令嬢方のドロドロした貴族劇場に巻き込まれる方が悲惨じゃない」
「ドロドロした貴族劇場…」
「あ、大丈夫よ? そこは私たちもヤバい事態にならないようにフォローするから。…まあでも、あいつの隣に立つ以上は、ある程度の好奇の視線とか嫌味とか嫌がらせとかには慣れてもらわなきゃいけないけど」
14日後にその貴族の社交場に出て行こうという立場の人間に、今から不安を煽るようなことを言うのはどうなんだ。
どう励まそうか悩んでリョウに視線を向けると、彼女は意外なほど落ち着いた目をしていた。
「助言ありがとう、ニルダ」
少しだけ微笑む。
「ある程度の事は覚悟してるし、対処も出来ると思う。でも、公国の文化にも貴族社会にも不慣れだから、私が目に余ることをしていたら教えてくれると嬉しい」
その言葉に、ニルダは目を見張ってぽかんと口を開け──
「ちょっと! ホントにどうしてこんな良い子がアベルの恋人役なのよー!」
「俺に言うな!」
ニルダに胸倉を掴まれたブラウは、理不尽な扱いに思わず叫んだ。