66 居場所(4)
抱き締めたリョウの身体は思っていたよりずっと華奢で、不思議な安心感があった。
心臓は早鐘を打っているし、顔は熱い。
なのに、帰って来た──そんな風に感じてしまう。
「…」
リョウが身じろぎする。
名残惜しいが、どちらからともなく身を離すと、広場を涼やかな風が吹き抜けた。
リョウが改めて周囲を見渡し、ある1点に目を留める。
そこは──景観が変わってしまったので断言は出来ないが、恐らく数日前にリョウが世界樹を斬り、倒れた場所だった。
2人でそこに近付くと、あ、とリョウが小さく呻く。
「…これ…やっぱり」
そっと地面から拾い上げたのは、カタナの柄と鍔と思しきもの。
世界樹を斬った時に刀身の大部分は消し飛び、リョウのカタナはその時点でほぼ柄と鍔だけになっていた。
リョウが倒れた後、地面に落ちたカタナはそのままになっていたはずだ。
不思議なことに、誰もそれを拾って持ち帰ろうとはしなかった。
──その理由が、今分かった。
「…朽ちてる…」
アベルが呟くと、リョウが頷く。
「…これも、世界樹の力を借りて作ったものだから…。役目を終えたってことだと思う」
柄に巻かれていた糸はぼろぼろに崩れ、柄本体──恐らく硬い木材だったはずの部分は、虫に食われたように不定形な穴だらけになっている。
鍔は金属製だったのだろう。元の紋様や形状が分からないくらい、分厚い錆に覆われていた。
まるで数年、いや、数十年、何百年と経たような姿。
その光景が、朽ち果てた世界樹の切り株と重なる。
──本当に、終わったのだ。
「これ…持って帰ろうか」
朽ちているとはいえ、リョウの大事な武器だったものだ。手放すのは辛いだろう。
しかし、リョウは首を横に振った。
「…ここで、朽ちるに任せよう。それが自然な気がする」
「…そっか。そうだね」
世界樹の力を借りて生み出されたカタナ。
ならば、最後は世界樹のもとに。
リョウはそっとそれを抱え、世界樹だった場所の中央付近、少し多めに露出している朽ち木の上に安置した。
ざあ、と、風が吹く。
澄み渡った青空の中に、大きく枝を広げた巨樹の影が見えた気がした。
「……ねえ、アベル」
「うん」
蒼空を見上げたリョウが、ぽつりと呟いた。
「──……もう、泣いても良いかな………?」
「…うん」
語尾が掠れ、俯くリョウを、アベルは背中から抱き締める。
──その顔を見て良いのは、きっと世界樹だけだ。
零れた雫は朽ちた木とカタナに落ち、森の緑を映しながら、ただ静かに染み込んで行った。
里に戻ると、宝生が同じ場所でコップを傾けていた。
「よう、帰ったか」
何でもない顔で言う宝生に、アベルは少々後ろめたさのようなものを感じる。
リョウにとって最も身近な異性。そう思って勝手に気後れしていた。
そんな相手が、告白の後押しをしてくれたのだ。何と言うか──勝てる気がしない。
「宝生、ただいま」
リョウが穏やかに応じる。
泣き腫らした目をしているが、表情は今まで見たことがないほど晴れやかだった。
宝生は口元を緩める。
「──ドロテア女史が『遅い!』っつって探してたぞ。早く行ってやれ」
「あ」
少し外を歩いて来ると言って出たはずが、既に日が傾き掛けている。
リョウは慌てて頷き、また後で、とアベルに告げて救護室へ向かった。
その後ろ姿を見送り、アベルは宝生へ向き直る。
「宝生、その…ありがとう」
「あるべき場所に収まったか」
宝生は片眉を上げ、にやりと笑って応じた。
あるべき場所。つまり宝生は最初から、アベルのことを認めていた。
気恥ずかしさを隠しながらアベルが頷くと、宝生は目を細めてリョウの去って行った方を見遣る。
「…やっと、保護者役も終わりだな」
「保護者役?」
「ん? ああ。リョウはうちの家で引き取って育てたからな。俺は父親代わりというか、兄というか…ま、そんな感じだ」
道理で距離が近いはずだ。アベルはようやく理解する。
宝生の目に感じたリョウへの親愛の情は、親が子へ、兄が妹へ向ける愛情と同じもの。
家族というものに疎いアベルには、色恋と区別がつかなかった。
(…つまり、俺の勘違い…)
内心で脱力する。
「昔、あいつの背中に『月絆の紋』を見付けた時はたまげたが…まさかその縁が、今になって繋がるとはなあ」
宝生が嬉しそうに笑った。
そしてふと真面目な表情になり、アベルを見上げる。
「──あいつを頼むぜ、アベル。あいつは昔から、自分のことを蔑ろにする癖があるからな」
自分は特殊だから、多少無茶をしても大丈夫だと。
自分の願いより、他人の願いを優先するのは当然だと。
本能に刻まれているように、何度言い聞かせても本質的な部分は変わらなかった、と宝生は言う。
「…だが──もう、世界樹は無い」
里の奥をちらりと見遣り、
「『月晶華』の役目は終わった。これからは、自分のために生きられるはずだ。…その時、お前があいつの隣に居てくれれば、俺も安心出来る」
「…?」
思わず眉根を寄せて宝生を見る。
これから先をリョウと共に生きるのは勿論望むところだが、宝生が安心できるとはどういうことか。
宝生は不思議と晴れやかな笑顔を浮かべ、空を見上げた。
「──情勢が落ち着いたら、旅に出ようと思ってな」
視線は遠く、蒼空の彼方へ。
「…今まで里に籠もりっきりだったからな。世界を見てみたくなった」
「…そっか」
その決意に驚くと同時に、すとんと納得した。
ずっと世界樹を守ってきた一族。だからこそ、外への憧れのようなものもあるのだろう。
宝生は防御に長けた術者だ。一人でも飄々と、好きな所に行ける気がする。
ざあ、と風が吹く。
不思議な温かさを感じる風に、アベルは不意に気付いた。
──一人ではない。
どんなに遠く離れても、凪の一族の心は、きっとここにある。
根拠のない確信だが、アベルは自然と微笑んでいた。
「…旅に出ても、たまには公国に顔を出してよ。リョウも喜ぶからさ」
「ああ、もちろんだ」
宝生が破顔する。
アベルは初めて、宝生と心から笑い合った。
アベルが救護室に向かった後。
ふう、と溜息をついた宝生は、で、と背後を振り仰いだ。
「良いのか、リョウに会わなくて」
《──良いのよ。私は》
涼し気な風と共に、鈴の音のような軽やかな念話。
空中に現れた青緑色の髪と琥珀色の瞳の娘が、くるりと宙返りする。
《親離れ子離れの良い時期だわ。──あの子はもう、自分の居場所を見付けたんだもの》
「…そうか」
救護室の方を見遣り、彼女は幸せそうに微笑んだ。
その姿を──かつて世界樹だった風精霊の姿を見て、宝生は苦笑する。
「まさか、お前がこうなるとはなあ」
《ええ、私も予想外だったわ》
──リョウが世界樹を斬った、あの日。
宝生たちの術とドロテアの回復魔法は、リョウを通じて世界樹の少女にも流れ込んだ。
自らの死を覚悟してなお、世界樹との繋がりを手放さなかったリョウ。
そして、リョウを死なせまいと全力を尽くした仲間たち。
その力が複雑に作用した結果、世界樹だった少女は風精霊へと昇華し、世界樹という軛から解き放たれた。
《あの時折角格好つけたのに、台無しじゃないの》
唇を尖らせながら、顔は完全に笑み崩れている。
《…ところで、貴方こそ良いの? あの子のこと、アベルに簡単に引き渡しちゃって。──あの子が結婚相手を連れて来たら、『結婚したいなら俺を倒してみせろ』って相手の男に言うのが夢だったんでしょ?》
悪戯っぽい口調に、宝生は苦笑する。
「いくら父親だからって、あいつが子どもの頃から想い続けた相手にそれは無いだろ。野暮ってもんだ」
世界樹の少女が風精霊に昇華したことは、宝生だけが知っている。
そして、宝生とこの風精霊だけが知っていることが、もう一つある。
──神凪リョウは、世界樹の意思が宝生の魂の欠片と肉体の情報の一部を使い、魔素と魔力と自分の意思とを幾重にも重ねて造り出した、本当の意味での世界樹の愛し児。
普通の生まれ方ではないが、宝生は正真正銘、彼女の父親なのだ。
「娘の幸せを願うのが、父親ってもんだろ」
そう言って、宝生は風精霊へと手を伸ばす。
風精霊はふわりと近付き、宝生の手を自分の頬へと導いた。
《…ふふっ》
以前は触れることも話すことも叶わなかった相手。
こうして話が出来ることが、こんなにも嬉しい。
《私も連れて行ってね、宝生》
風精霊が、琥珀色の瞳を輝かせて宝生を見詰める。
《世界中、色々な場所を見て回るのが、私の夢だったの》
「──ああ、もちろんだ」
だから、旅に出ると決めたのだ。
そう口にはせず、宝生はただ、笑みを浮かべた。




