60 反転の世界樹(2)
「あれが…世界樹か」
モーリスの声に、微かな畏れが含まれている。
里人たちが悲痛な顔で世界樹を見上げた。
「結界を維持できなくなったのか」
「…世界樹は、もう…」
「ああ…」
ほんの数日前アベルが初めて見にした時は、青々とした枝葉を広げていた。あの少女の姿を見なければ、明らかな異変が起きているとは分からなかったくらいだ。
だが今は、誰の目で見てもそれが分かる。
──樹皮や枝葉の半分近くが、ドス黒く変色していた。
ばらばらと、大量の葉が舞い落ちている。
その多くはそのまま落ちて行くが、黒く染まった葉は、落ちる途中で黒い霧のようになって消えて行った。
寒気が背中を這い上がって来る。
あの黒い葉は多分、世界樹が溜め込んでいた瘴気そのものだ。
世界樹全体が、瘴気に侵食されている。
「──終わらせてくる」
リョウが立ち上がり、静かな声で呟いた。
その手にはカタナが握られている。終わらせるとは、つまり──
「私たちも行くわ」
アオイが即座に反応した。その横で、凍牙も頷く。
「ああ。戦力が要るだろう?」
「『終わらせる』のは、『月晶華』全員が果たすべき役割だからな。──まあ俺たちには、直接手を下せるほどの力は無いが…」
宝生もゆっくりと立ち上がる。
リョウは首を横に振った。
「瘴魔がここまで溢れ出る可能性がある。宝生たちはここで皆を守ってて。本調子じゃないでしょ」
「それはお前もだろ」
宝生は即座に言い返す。
「当代の『月晶華』は4人だ。一人で行かせられるか」
「でも、その体調じゃ──」
「なら、俺たちも行くよ」
なおも止めようとするリョウの言葉を遮り、アベルは前に進み出た。
「結界が無くなったなら、俺たちでも近くまで行けるでしょ? 世界樹を終わらせる手助けは難しいかも知れないけど…リョウたちが瘴魔を気にしなくて済むように、背中を守るくらいは出来るよ」
ね、と同僚たちを見遣ると、モーリスが真っ先に頷いた。
「ああ、任せておけ」
「ま、乗り掛かった船ってやつだな」
「補助くらいは出来るっスよ」
ブラウやチェレステも続き、カミロを始めとする応援の同僚も頷く。
「…けど、瘴魔は…普通の人に耐えられるか…」
リョウはなおも躊躇った。
「どういうことだ?」
「瘴魔は倒すと、周囲に負の感情を撒き散らす。正面から浴びると普通は動けなくなるし、浴び続けたら正気を保つのは難しいと思う」
アベルも皇城で身をもって感じた。予備知識も気構えも無くあれを経験したら、確かに精神的なダメージが大きい。アベルはリョウの声と背中に感じた熱で、何とか我に返ったのだ。
「特に、接近戦だと危ない」
「──なら、俺が結界を張れば良い」
宝生が腕組みして言った。
「宝生?」
「正直、戦力はいくらあっても足りないくらいだ。協力してくれるっつーなら断る理由は無ぇだろ」
「そうだな」
「ええ、有難いわ」
凍牙とアオイも後押しの言葉を口にする。
「出来れば、里の皆を守る人員も欲しいのだけれど…そちらに宝生が結界を張り続けるのは難しいかしら…」
首を捻るアオイの後ろから、年老いた男女が進み出て来た。
「それじゃあ、ワタシらも力を貸そうじゃないか。ねえ爺さん」
「うむうむ。先代『月晶華』の力、見せてやろうて」
どうやら2人は、元『月晶華』らしい。体力は衰えたが術の方はまだまだ現役じゃぞ、と不敵に笑う。
「おばば、無茶するな。腰を痛めたばっかだろ」
宝生が眉を顰めると、老婆がふんと鼻を鳴らす。
「年寄り扱いするんじゃないよ。お前に結界術を教えたのは誰だと思ってるんだい」
「それは…」
(…知り合いになる老婆が軒並みこういうタイプなのは何でだろう…)
言葉に詰まる宝生を見て、アベルは少々遠い目になる。
とはいえ──これで条件は整った。
世界樹の元へ行くのは『月晶華』の4人と、アベル、モーリス、ブラウ、チェレステ。
里に留まり里人たちを守るのは、応援に来てくれていたカミロたち3人。その3人のバックアップは、元『月晶華』の老夫婦。
さらに、
《俺たちを仲間外れにするなよな!》
里の周囲を警戒していた繊月を始めとするケットシー4匹が、里の守りに加わった。
「…皆をお願い」
「ああ、任せとけ」
リョウの言葉に、カミロが笑って頷く。
既に辺りは異様な雰囲気に包まれ、いつどこで瘴魔が発生してもおかしくなさそうだ。
カミロは、戦闘員だった頃に随分と修羅場を潜って来たらしい。長剣を手に佇む姿には余裕すら感じられる。
カミロたちと里人に見送られ、アベルたちは世界樹のもとへと向かった。
世界樹に近付けば近付くほど、寒気が増す。
恐らく瘴気の気配だろう。ブラウが肩を震わせると、宝生が何事か呟き、手を複雑な形に組んだ。
ウォン、と耳鳴りのような音がして、フッと身体が軽くなる。
「これは…」
「俺の結界だ。完全じゃないが、瘴気の影響を軽減する効果がある」
「すごいっスね…」
チェレステとブラウの顔色が良くなっている。彼らは感知系の異能持ちだから、影響も大きかったのだろう。
アベルも、背中を這い上がって来るような寒気が消えていた。
「瘴魔を倒した時のダメージも軽減できるはずだ。永続するわけじゃねぇから、油断はするなよ」
「分かった。ありがとう」
アベルが礼を言うと、宝生は軽く片眉を上げ、おう、と応じた。
そのまま歩くこと数分。
世界樹のすぐ近くまでやって来ると、異変は目に見える形で現れた。
「──来たな」
ゆらり、前方に黒い靄のようなものが浮かぶ。
それはみるみるうちに濃さを増し──二足歩行の獣の姿を取った。
黒い姿の中、紅い目がぎらりとこちらを捉える。
獣が一歩踏み出すと、その左右に次々同じ姿の瘴魔が現れた。3体、6体──まだ増える。
凍牙が剣を抜いた。
アオイと宝生がそれぞれ違った形に指を組み、術の構えを見せる。
その2人を守るように、リョウも前に出た。
「アベル、モーリス、ブラウ、チェレステ、お前たちはリョウと凍牙の死角をカバーしてくれ!」
「分かった!」
宝生の声に即座に応じて、モーリスとチェレステが凍牙の側に、アベルとブラウがリョウの側につく。
「全部片付けなくて良い。世界樹までの道を拓くぞ!」
宝生が言い放ち、それぞれが応じた直後、
「──炎閃牙!」
アオイの術が炸裂した。
炎の刃が数体の瘴魔を切り裂き、その部分から一気に燃え上がる。
炎に巻かれた瘴魔が消えると、残った瘴魔が一斉に襲い掛かって来た。
「付与、風刃!」
「弐式、閃!」
凍牙とリョウが真っ向から迎え撃ち、一振りで間合いの外に居たはずの瘴魔たちが消し飛ぶ。
ウォン、とまた不思議な音がして、横から突進して来た瘴魔がチェレステの目の前で何かにぶつかり、跳ね飛んだ。
飛んで行く先で凍牙の剣に真っ二つに切り裂かれ、瘴魔はそのまま塵と消える。
圧倒的な技量と、視線も交わさず当たり前に繰り広げられる連携。
これが『月晶華』かと、アベルはナイフを振るいながら半ば痺れるような感覚を覚える。
しかし──出現する瘴魔の数と種類が、圧倒的に多い。




