32 呪物と呪術師(1)
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世界は広いようで狭く、狭いようで広い。
自分の知らないことは山ほどあり、知っているはずのことも、ごく一部しか知らなかったのだと思い知らされることが多くある。
テレジア・ソテロとの出会いは、それを改めて実感する出来事だった。
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着替えるのももどかしく、街から帰ってそのまま隊長の執務室へ赴くと、小柄な老婆がソファでお茶を飲んでいた。
「おや、これは珍しいものを持ってるね」
確かに隊長のエドガルドに入れと言われたのだが、これは一体どういう状況だろうか。
戸惑っていると、老婆がよっこいしょ、と気合を入れて立ち上がった。腰が曲がっているせいで、立っても目線の高さが先程とさほど変わらない。
裾の長い上着を引きずり、老婆はこちらに歩み寄って来た。
「…ふうむ…これはまた…」
じろじろとアベルの持つ包みを見遣り、溜息をつく。
「今日アタシがここに来て正解だね。そうだろ、エド坊」
「え、エド坊?」
思わず呻いて、老婆の視線の先を追うと、エドガルドと目が合った。
「坊や呼ばわりは止めてくれまいか、テレジア女史」
厳めしい顔に苦笑を浮かべ、エドガルドが立ち上がる。
リョウが敬礼し、アベルも一瞬遅れてそれに続いた。
(…エド坊…)
ちょっと呼び名が衝撃的過ぎた。
頭の中で言い訳を並べてみる。
「──こちらは、ソテロ伯爵領のテレジア・ソテロ前伯爵だ」
エドガルドの言葉に、アベルはあっと声を上げ掛ける。
──この国で史上初の女伯爵、テレジア・ソテロ。
前代から続いていたソテロ伯爵領の治水工事を推し進め、一大穀倉地として育て上げた優秀な為政者であり、様々な薬を開発した凄腕の錬金術師でもある。
数十年前に流行した感染性の熱病に対し、衛生管理や正しい対症療法を広め、最終的には特効薬を開発して事態を収束に向かわせた。
今は既に伯爵位を息子に譲り、田舎の別荘で楽隠居しているという話を聞いた事があるが──その彼女が何故ここに居るのか。
「特殊部隊隊長補佐、アベル・イグナシオです」
「同じく特殊部隊員、レイナ・サリアスです」
疑問は一先ず棚上げにして名乗ると、ああ、とテレジアが頷いた。
「大公から話は聞いてるよ。アタシには名前を偽らなくて良いからね──リョウ」
「!」
テレジアがニヤリと笑う。
リョウは少しだけ目を見開いた後、承知しました、と頷いた。
しかし、大公から話を聞いているという事は──
「テレジア女史は、今回の件の協力者として大公が呼び寄せた。──彼女はこの国唯一の呪術師だ」
「!?」
アベルは思わずテレジアを凝視する。
総白髪の老婆。呪術師と言われても、実感は湧かない。
しかしリョウは、やっぱり、と呟いた。
「おや、あんたには分かるかい」
「…気配が少し、他と違うので」
言うわりに、警戒の響きは無い。
「呪術師と名乗ったら斬り掛かって来るかと思ったが」
「そこまではしません。…力は、使い方次第、ですから」
「良い判断だ」
テレジアが満足そうに笑う。
「──まあ、アタシの本業は錬金術師だし、呪術師と言っても片足突っ込んでるかどうかって程度さ。他人を呪うようなことはしないってのがうちの系譜のルールだからね。…親類縁者に呪術師の才能のある奴は居ないから、この国の呪術師は正真正銘、アタシで最後になるだろうが」
後半、少し苦笑が混ざる。
呪術師には、瘴気を感知する能力と、それを望んだ方向に操作する能力、両方が求められるという。
瘴気の感知が出来る者は、実はそれなりに居る。特に子どもは、呪術師の才能が無くても瘴気を『何となく嫌な雰囲気』として感じ取ることが多い。
雑貨屋の少年も、花瓶に対して『変な気配がする』と言っていた。恐らく呪術に使われる瘴気の気配を感じ取っていたのだろう。
…しかし、他人を呪わないなら一体何に呪術を使うのだろうか。
疑問が顔に出ていたのだろう。テレジアは肩を竦める。
「呪術ってのは、要するに『おまじない』さ。自分の背中を自分で押したい時に使うのが本来の使い方なんだよ。…ま、元々は『おまじない』ですらなくて、瘴気を自分で何とかするためにあれやこれやと工夫していて偶然生まれたものらしいが」
「瘴気を、自分で何とかする?」
思わぬ言葉が出て来た。
首を傾げると、テレジアは不思議な深みのある眼でリョウを見た。
「──呪術師の源流は、『凪の一族』さ。反転の世界樹の力に頼らず、人間が直接瘴気を魔素に還す方法として、呪術は生まれたんだよ」
「え──」
リョウが目を見開いた。
「その顔じゃ、知らなかったらしいね」
「……はい」
「当然だ。凪の一族と言っても、厳密には里を出た後の、傍流の血筋らしいからね──うちの祖先は。この事実も、もうアタシくらいしか知らないだろうよ」
テレジアの祖先は、里を出た後、反転の世界樹の負担を軽くするために瘴気を『使って』魔素に還す方法を模索した。
だから、本家本元の凪の一族が知らなくても無理もない。
テレジアはそう言って苦笑した後、だから、と続けた。
「今回の件はアタシにも無関係じゃないのさ。遠い親戚が傀儡術に掛かって安否不明って事だからね。それに──」
ぎらり、目に剣呑な光が宿る。
「──帝国の皇帝の一族は、昔アタシのご先祖様が呪術を教え授けた血筋なのさ。…リョウ、あんたの
予想は多分正しい。呪術師は皇帝本人か、その血族だ」
「…!」
リョウの肩がぴくりと跳ねた。
テレジアは腕を組み、溜息をつく。
「──他者を呪わない、そんな一番大切な原則を忘れ去った阿呆みたいだがね。人を呪わば穴二つ…自分にも返って来るってのに、難儀なもんだよ」
「人を呪わば…?」
アベルが首を傾げると、テレジアは簡単に説明してくれる。
本来、他者に悪影響を及ぼす呪術は、同じだけの反動が術者に返って来るものだという。
他人を殺せば自分も死ぬ。
『人を呪わば穴二つ』とは、他人を呪い殺すなら自分の墓穴も掘っておけという意味なのだそうだ。
「恐らくだが、帝国の術者は自分に返って来る反動を抑えるのに、『形代』を使っているんだろう」
「形代、ですか?」
「対象に呪術を掛ける時、間に挟む…緩衝材みたいなモンさ。宝石か、呪符か、それとも別の何かか──形は色々だがね。そこで反動を押し留めて、呪術師まで影響が及ばないようにするのさ」
呪術は形代を経由して、ターゲットに届く。
ターゲットの抵抗で発生した反動は、形代が受け止めるので呪術師には届かない。
それを使っていなければ、複数人に傀儡術を掛けるなど不可能だろうとテレジアは言う。
「傀儡術ってのは禁術だ。呪術の中でもとびきり難易度が高いんだよ。何せ、相手の意思を無視して身体を強制的に動かすんだからね。それが形代無しで出来るってんなら、その呪術師は人間を辞めてるってことだ」
さらりと恐ろしいことを言い放った後、テレジアはアベルへと視線を移す。
「──で、それはどこで拾って来たんだい? 性質の悪い呪術が掛かってるようじゃないか」
テレジアには、どんな呪術が掛かっているのか分かるらしい。
包みを開いて花瓶をテーブルの上に置き、雑貨屋で見付けたのだと隊長への報告を兼ねて説明すると、テレジアが目を細める。
「…なるほど。こっちに来る時、街に入ったら時々変な気配を感じたが、これか」
「他にもあるということか?」
「複数あるのは間違い無いね」
「…そうか。ならば──」




