21 異変(2)
「ニル、ダ、違う。私が、避け損ねた…だけ」
リョウがニルダの肩を掴んで止める。
だが、その手には明らかに力が入っていない。
ニルダに説明する声も、苦悶混じりの濁った響き。
──まさか、今の一撃で内臓をやられたか。
「…ちょっと見せろ」
モーリスがリョウの前に膝をついた。
眉を吊り上げるニルダを無視してリョウの顔を正面に向け、両方の下瞼を下げて内側を覗き込んだり、首筋で脈を診たり、鳩尾に触れたりと、手慣れた様子でリョウの状態を確認する。
(…そういえばモーリスって、衛生兵の資格、持ってるんだっけ…)
今更ながら、そんな事を思い出す。
リョウを支えたまま待っていると、やがてモーリスは舌打ちして立ち上がり、背後を振り返った。
「──回復術師のドロテアを呼んで来い!」
「ハイっす!」
モーリスの後輩が弾かれたように駆け出す。
疑問も何も差し挟まないやり取りにアベルが戸惑っていると、モーリスは凶悪な顔でリョウを睨み付けた。
「──この阿呆! 体調が悪いなら先に言え!」
「え…」
ざわ、と周囲がどよめく。
その反応をよそに、モーリスは立て続けに指示を出した。
「ニルダ、休憩室のベッドを確保して来い」
「わ、分かったわ」
余程動揺しているらしい。ニルダは珍しく憎まれ口も叩かずにモーリスの指示に従う。
「アベル、リョウを休憩室に連れて行け」
「…一人で行ける…」
「病人は黙ってろ」
「…」
鋭く睨まれ、リョウは口を噤んだ。
そのまま黙って立ち上がろうとして、また膝の力が抜け掛ける。
がくんと態勢を崩すリョウの膝裏に素早く腕を入れ、アベルはリョウを横抱きにして立ち上がった。
え、とリョウが目を見開く。
「ア、アベル、自分で歩ける」
「はい嘘はやめようねー」
どう考えても無理だ。ぐいっと肩を引き寄せて重心を調整すると、アベルはさっさと歩き出す。
それ以上の抵抗は無かった。
ちらりと見下ろすと、リョウは諦めたように目を閉じている。
その顔からは完全に血の気が引いていた。単に怪我をしたからという感じではない。
動きが精彩を欠いていたから、気になってはいた。モーリスの言う通り、体調が悪いのは間違いなさそうだ。
足を早めるアベルは、背後で同僚たちが唖然としているのに気付かなかった。
「…え? あれアベルだよな? 中身別人じゃないよな?」
「どうなってんだ…?」
「お前ら知らないのか? あの2人、付き合ってるらしいぜ」
「マジか! …え、でもあの新人、最近帝国から帰って来たばっかりだっつってたよな?」
「孤児院時代の幼馴染だとよ。んで、10年前に帝国に流れ着いちまったアベルをこっちに返してくれたのが、当時あっちで任務に就いてたあいつなんだと」
「幼馴染で命の恩人、で今は恋人ってか。そりゃあアベルも過保護になるわけだ」
「…大人しく保護されるようなタマか? あいつ」
「まあなあ…」
休憩室に着くと、ニルダが一番奥のベッドを整えていた。
他に人の姿は無い。
「あ、来たわね。こっちに寝かせて」
「分かった」
毛布を剥いだベッドにリョウを横たえる。ニルダが靴をさっと脱がせた。相変わらずフォローが上手い。
毛布と羽毛布団を掛け終わったところに、モーリスが入って来た。
「モーリス、ドロテアさんは?」
「じきに来る」
ニルダに短く応じ、モーリスはリョウに視線を移した。
「…」
リョウは、無言。だが気付いていないわけではない。
暫くして、リョウはそろそろと両目を開けた。
「…迷惑掛けてごめん」
「全くだ。体調管理は最優先事項だろうが」
モーリスは眉間にシワを寄せて言う。
「顔面蒼白、貧血症状に頻脈、血圧の上昇、目眩、判断力と反応速度の低下。──お前、何日前から寝てない?」
「え?」
アベルは思わず声を上げた。
病気ではなく、単なる寝不足?
そう思ったのが顔に出ていたのだろう。モーリスはあからさまに舌打ちした。
「2、3日も眠らなければ普通は正常な判断なんぞ出来なくなる。それ以上になれば倒れても不思議じゃない。…で、こいつはどう考えても油断できない手合わせの最中に気絶し掛けた。異常もいいとこだろうが」
「…気絶、し掛けた?」
「気付いてなかったのかよ」
リョウが首を傾げ、モーリスが苦々しい顔をする。
モーリスによると、軸足から力が抜けたあの時、リョウは瞬間的に意識を失っていたらしい。
至近距離で、衛生兵の資格を持つモーリスだからこそ気付いた異常。
指摘されたリョウは、そっと目を逸らして呟いた。
「……眠れてないわけじゃない」
「あん?」
「…寝ようとすると、嫌な夢を見て、起きちゃうだけ」
「余計に悪いわ」
モーリスが吐き捨てた。
「で、何日そういう状態だ」
「………こっちに来てからずっと」
『──はあ!?』
モーリスだけでなく、ニルダとアベルの声も重なった。
リョウがこちら──公国に来てから、既に10日近く経っている。その間ずっと寝られなかったのだとしたら、どう考えても非常にまずい。
正直、どうして今正常に受け答えが出来ているのか分からないレベルだ。
アベルたちが唖然としていると、ノックもなしに扉が開いた。
「──自己管理の出来ない阿呆はここかい?」
「ドロテアさん!」
ニルダが慌てて立ち上がり、ドロテアのための椅子を用意する。モーリスとアベルもベッドの反対側に移動した。
「モーリス、報告」
「はっ。レイナ・サリアスの症状は、貧血様症状に頻脈、血圧の上昇、目眩、及び判断力と反応速度の低下。なお先程、手合わせの最中に瞬間的に意識を失い、鳩尾に一撃喰らっております」
「相手はお前かい」
「はい。…面目次第もございません」
「謝らなくていい。そんなことだろうと思ったよ」
モーリスが敬礼して並べ立てた内容に、ドロテアがふんと鼻を鳴らした。
モーリスがやたら畏まっているのに驚いていると、ドロテアはアベルに視線を移す。
「──だから言っただろ。『要注意だ』と」
「あ…」
リョウをドロテアに診てもらった時、アベルはドロテアから直々に注意を受けていた。
あれはそういう意味だったのか──今更気付き、アベルの背中を冷や汗が伝う。
呪術に掛かった仲間から攻撃を受け、唯一残ったもう一人の仲間に全てを託され、独り、隣国に助けを求めた。
仲間たちがどうなったのかは分からない。同郷の者たちの安否も知れない──自分の立場に置き換えたらどうなるだろうか。
例えば、ニルダやブラウに攻撃され、自分だけ命を受けて隣国へと逃れる。公国がどうなったのか分からないまま。
しかも、隣国は今まで一度も行ったことの無い場所──
(…無理だ。平静でいられるわけない)
どんなに隣国の者が真摯に話を聞いてくれたとしても、親切にしてくれたとしても。
本質的な意味での心の平穏は訪れない。
リョウの場合、それが不眠、あるいは悪夢という形で顕れたのだろう。
「…ごめん、リョウ。もっと早く気付くべきだった」
アベルはリョウに深く頭を下げた。
リョウは目を見開いた後、待って、と声を上げる。
「私が隠してただけで、アベルに責任は」
「ああそうだよ、この大馬鹿者が」
ドロテアが眉を吊り上げた。