20 異変(1)
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今でも後悔していることがある。
あの時、彼女の異変に気付いていながら、何故踏み込めなかったのか。
それを指摘し、案じ、解決策を提示するのは、自分でありたかった。
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リョウと共に貴族教育を受けること5日。
言葉遣いや仕草など、早くも基本をマスターしたリョウに、オーレリアが新たな課題を出した。
ずばり、アベルと組んでのダンスの練習だ。
「ダンスは夜会での必須技能です。最低でも3曲、踊れるようになってください」
その3つは貴族の基本中の基本。
夜会では必ずその3曲が流されるし、踊らない貴族は居ない。
社交界デビューにおいて、それを踊れるかどうかは今後を左右する最も重要な試金石になる。
(…まあリョウの場合、貴族になること自体が偽装みたいなもんなんだけど…)
オーレリアはそれを知らないので、教育は真面目に受けるしかない。
ダンスそのものの教師は別に居るが、基本の姿勢とステップはオーレリアが教えてくれる。
言われるままにリョウと向き合い、片手を組んでもう片方でリョウの背中を支える。
「アベル、距離が遠すぎます。もっと密着してください」
「はい」
ぐっとリョウを引き寄せると、ふわりと不思議な匂いがした。
春の陽だまりのような、初夏の森の中のような、柔らかな匂い。
「…」
リョウの頬が赤い。
今日は軍の制服ではなく、ダンス用や礼儀作法用の簡素なドレス姿だ。
つい、女性なんだよな、と改めて意識してしまう。
(…いやいや、冷静に、冷静に…)
ダンスに関して、アベルは曲がりなりにも経験者だ。こちらがリードしなくては。
…つい先程、早速注意されたのは考えないことにする。
「それが基本形です。実際ダンスを始めると動作によっては離れることもありますが、戻ったらこの距離感になるよう心掛けてください。──レイナ、アベルと視線を合わせてください。それが無理でも、アベルの首あたりを見るように」
「はい…」
リョウがそろそろとアベルを見上げる。
リョウも比較的身長が高い方ではあるが、アベルには及ばない。
ただ──普通の貴族令嬢より、ずっと目線が近かった。
(うわ)
至近距離で見詰め合う形になり、アベルも耳が熱くなる。
リョウの視線が少しだけ下に落ちた。耐えられなかったらしい。
アベルも内心ホッとする。首をガン見されていると考えると、それはそれで落ち着かないが。
「では、基本のステップですが──」
オーレリアの指導に従い、一番簡単なステップをゆっくりと踏む。
足を踏まれるのを覚悟していたのだが、リョウは踏みそうになるとわずかに着地地点をずらし、器用に回避していた。
なお、視線はアベルの首に固定したままである。足元にも目がついているのかと疑いたくなる。
(…まあ、リョウは凄腕の武芸者だし…)
ここ数日、リョウは毎朝隊舎の中庭に顔を出し、鍛錬を行っていた。
最初相手はモーリスだけだったのだが、どんどん参加者が増え、今では集団で混戦状態になるのが恒例。
その中でも、リョウの動きは異彩を放っていた。
全方位から攻撃されても次々さばき、躱し、明後日の方向に放り投げて周囲を巻き込む。
背後を取ろうものなら、振り向きざまの裏拳か足払いか下段蹴り。
正直背後を取った方が反撃のダメージがでかいので、同僚たちはリョウの背後を取ることをお互いに禁止しているとかいないとか。
──閑話休題。
そんな運動神経と反射神経の持ち主だから、ダンスで相手の足を踏むことも無いのだろう。
アベルは納得して、練習に集中することにした。
──『絶対踏んだら駄目だと思ってた』とリョウから教えられたのは、その後随分経ってからだった。
ダンスの教育は、担当した教師が驚くほど早く進んだ。
何故そこまで習得が早いのか、以前習っていたことがあるのかと思って聞いてみたら、『武芸の型だと思えば…』と視線を逸らして答えられた。
とても納得した。
そうしてダンスの教育も基本は一通り終わり、応用編を習う傍ら、オーレリアから貴族独特の言い回しを教えてもらう。
貴族の表現は、アベルも初めて聞くものが多かった。
知らないうちに新しく増えたのかと思ったが、実はパートナーが居るか居ないかで振られる話題が変わるため、教えなければならない事も変わるのだという。
『パートナーが居る状態でこの教育を受けるのは珍しいから、気合いが入るわ』とオーレリアが笑っていた。
──そして教育が順調に進む中、最近アベルが気にしていることが一つ。
「──行くぞ!」
「どうぞ」
数日後、早朝の隊舎中庭。
もはや恒例となった朝の鍛錬で、モーリスとリョウが対峙する。
訓練着に身を包んだリョウは、モーリスと比べると圧倒的に華奢だ。これで大の男を軽々と投げ飛ばすのだから、毎回見ていても未だに信じられない。
モーリスはいい加減慣れたのか、最初から本気の構えだ。
拳を両脇で固め、鋭い呼吸と共に踏み込む。
「──ふっ!」
攻撃の瞬間にさらに上体を沈めて前に出るため、モーリスの正拳は見た目よりずっとリーチが長い。
リョウは最低限の動きでそれを右に躱し、伸び切ったモーリスの腕を掴もうとする。
モーリスは素早く腕を引き、間合いを取った。
「…」
今のは、いつもならリョウが腕の関節を極めるか、投げ飛ばすかで勝負が決している。
パッと見にはいつもと変わらない。
だが、動きがわずかに精彩を欠いている──モーリスも気付いているのだろう。怪訝な表情が浮かんだ。
「…」
リョウは、いつもの無表情。そこからは何の異常も読み取れない。
「──はっ!」
モーリスはそのまま続けることを決めたらしい。
再び間合いを詰めたモーリスは、横殴りに貫手を放つ。リョウが軽く上体を逸らし、鼻先すれすれを貫手が掠めた。
「!」
モーリスはさらに踏み込む。
斜め下からの左の拳。右だろうが左だろうが同じ威力で繰り出される拳は、モーリスの必殺の攻撃だ。
リョウは軽く飛び退ろうとして──
──右の軸足が、がくんと力を失った。
「!?」
大きく態勢を崩したリョウに、モーリスが目を見開く。
咄嗟に止まろうとしたのだろうが、わずかにスピードの落ちたモーリスの拳はそのままリョウの鳩尾に突き込まれた。
「ぐっ…!」
重い音と、初めて聞く苦悶の声。
「リョウ!」
アベルは反射的に地を蹴っていた。
上体を折るリョウの前に滑り込み、ギリギリで抱き留める。
周囲は思わぬ状況に凍り付いていた。
今までどんな相手にも膝をつかなかったリョウが、素人のようなミスで一撃を喰らったのだ。無理もない。
「──リョウ!?」
背後でニルダの悲鳴が上がった。
どうやら、窓から見ていて異常に気付き、隊舎から全速力で出て来たらしい。
駆け寄って来たニルダは、蒼白になっているリョウの顔を見るなりモーリスに喰って掛かる。
「モーリス! あんた、なんてこと──!!」




