10 回復と変装(1)
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若い頃の失敗というのは、いつまでも後を引く。
笑い話に出来るなら御の字。いじられるネタにされるのもまあ、我慢は出来る。
──関係者が異常に冷静な目をしていた場合は、身の置き場がない。
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翌日の午後、アベルは足早にリョウの病室へ向かっていた。
本当は朝イチから来たかったのだが、午前中は書類を片付けろと隊長のエドガルドに言われ、仕方なく執務室で仕事をした。
午前中、リョウを変装させるためにニルダとブラウがリョウの所へ行ったと聞いている。
本当なら、自分が同行したかった。
ニルダとブラウは、軍事孤児院時代からの腐れ縁だ。
親友と言える間柄だが、ことリョウに関しては安心して任せられない。
何せあの2人は、アベルがやたらと貴族令嬢に言い寄られていることも、それが原因で不名誉な渾名を付けられていることも知っているのだ。
『歩く惚れ薬』なんて、間違ってもリョウには知られたくない。
…いや、知られたところで、リョウがどう思おうと自分には関係ないのだが。
(…か、関係ない、よね…? というかあの2人、面白がってリョウにあること無いこと吹き込んだりしてないよね…?)
ぐるぐると考えながら、病室の扉に手を掛ける。
「入るよ──」
──敢えて言い訳をするならば。
この時アベルは、ニルダとブラウの事を考えていたせいで、いつも彼らとやり取りする感覚で行動していた。
礼儀は二の次、効率優先。いきなり本題に入っても怒られない間柄。
つまり──
「………へ?」
ドアを押し開いた姿勢のまま、アベルはぽかんと口を開けた。
病室の中、こちらを見て唖然としているのは、後方支援部隊のベテラン回復術師。ああこの人が来たのか、と、頭の隅で考える。
その奥側には、何やら複雑な顔をしたニルダ。
言葉にするならば、『あちゃー…』とでも言いたげな表情で天を仰いでいる。
そして。
「……」
こちらに背を向け、ベッドに座るリョウ。
半ば振り向いているその視線は、妙に冷静だった。
妙に、と注釈が付くのは──リョウが上半身裸だからで。
赤くなるでも悲鳴を上げるでもないリョウの態度に、アベルの思考が停止する。
あらわになった背中は思ったよりずっと細く、華奢だった。
所々に白く見える傷跡は魅力を損なうことなく、むしろ官能的な美しさがある。
背中の中央より少し左上、心臓の真裏に、見覚えのある紋様がある──そこまで認識した時、鋭い声が響いた。
「今すぐ出て行きな、エロガキ!」
「はいっ!」
反射的に身を翻し、思い切り扉を閉める。
廊下に出てようやく、アベルは我に返った。
(……え? え!?)
今、自分は、リョウの裸を見た。上半身だけだけど。
認識した瞬間、ぶわっと全身に熱が広がる。
頭を抱えてその場に蹲り、声にならない呻きと共に悶絶した。
顔が熱い。多分耳まで真っ赤になっている。
それはリョウの肌の白さとは対照的で──
(考えるな俺! 落ち着け! 精神統一!)
落ち着けと自分に言い聞かせている時点で色々とアレなのだが、この時アベルは必死だった。
…なお、すればするほどリョウの姿が脳裏に焼き付いて、精神統一はむしろ逆効果だった。
そのまま廊下で悶えること数分。
「もう良いわよー…って何やってんのあんた」
「……記憶を消す方法を考えてる」
無遠慮に開いた扉がアベルの背中を直撃し、それを謝りもしないニルダが胡乱な目でアベルを見遣る。
その場に蹲ったまま大真面目に答えるアベルに、ニルダは容赦がなかった。
「あんたの記憶から消えても、私たちはバッチリ覚えてるから意味ないわよ」
「忘れて。頼むから。後生だから」
「い、や、だ」
何故こんなにも楽しそうなのか。幼馴染のくせに性格が悪すぎる。
ジト目でニルダを見上げるが、それで心変わりしてくれるはずもなく。
「ほら、さっさと入りなさいよ」
今すぐ穴を掘って埋まりたい気分なのに、ニルダは容赦なくアベルを病室に連行した。
部屋に入った途端、回復術師がぎろりとこちらを睨み付けて来る。
「特殊部隊の隊長補佐様は、一体どこに礼儀を忘れて来たんだろうねぇ」
「………返す言葉もございません……」
言い訳の余地も無く、アベルは深々と頭を下げる。
フン、と鼻息荒くアベルを見遣る回復術師は、後方支援部隊の最古参、最も回復魔法に長けた御方だ。
ドロテア・ソテロ。
一見枯れ枝のような見た目の老婆──もとい、妙齢の女性だが、動きはきびきびとして生命力に溢れている。
身長も高く、遠慮の無い物言いと相まって、若い軍人からはかなり恐れられているらしい。
実際アベルも訓練兵時代からお世話になりっぱなしで、ドロテアには頭が上がらない。
「アベル、ノック無しは流石にダメだって」
「…ハイ…」
ニルダにも肩を竦められ、アベルはさらに肩を落とす。
ちらりと視線を上げると、リョウは困ったような呆れたような顔をしていた。
下手に冷たい目じゃない分、余計に辛い。
「──リョウ、ホントにごめん。その…ちょっと考え事をしてて」
言い訳がましい口調になってしまい、言葉が尻すぼみになる。
そのまま沈黙していると、小さな溜息が届いた。
「…別に、気にしてないよ。見られてどうこうなるようなもんじゃないし」
「いーや、ここはきっちりお灸を据えておくべきでしょ!」
「…何でニルダが出しゃばるの」
「お黙り犯罪者」
ニルダは目を爛々と輝かせて腰に手を当てる。
リョウとのテンションの落差がひどい。
「これから10日間、私とリョウに昼食を奢ること! それで手を打ってあげようじゃないの」
「ああ、そりゃ良いね。アタシも一枚噛ませてもらおうか」
ドロテアが便乗し始める。悪い笑みを浮かべる顔は、まるで童話の悪役の魔女のようだ。
「今相当失礼な事を考えていたね? エロガキ」
「…ガキ呼ばわりはやめていただけると」
「アタシから見りゃ、大抵の男はガキンチョさね」
「…っていうか『エロ』の部分は否定しないのね、アベル」
「男なんてみんなそんなもんさ」
「話をややこしくしないでもらえるかな!?」
この2人が揃うとろくなことがない。
以前から思っていたが、今日本当の意味で実感した。
アベルが頭を抱えていると、リョウが苦笑する。
「仲が良いね」
「……まあね」
一瞬全力で否定したい衝動に駆られたが、曲がりなりにも幼馴染と昔からお世話になっている御方なので、渋々頷く。
「仲が良いっていうか、私とアベルは孤児院時代からの腐れ縁なのよね。ドロテアさんはうち──特殊部隊専属の回復術師みたいなもんだし」
「専属はやめとくれ。これでもアタシゃ後方支援部隊の守神って言われてるんだよ」
「後方支援部隊の鬼婆の間違い──何でもないです」
ぼそり、呟き掛けたらすごい顔になったので、途中でやめておく。
実際、特殊部隊員の治療に当たるのはほぼドロテアだ。
特殊部隊は機密事項が多く、治療さえ下手な人間に任せられない。顔を隠して任務にあたっている隊員も居るのだ。
今回ドロテアが派遣されたのも、リョウの事情が特殊だからだろう。
ニルダが居るのにリョウが変装していないのも、ドロテアには協力者として話を通してあるからだ。
「──さて」
ドロテアが椅子から立ち上がった。
「鬼婆はそろそろ巣に帰るとしようかね」
根に持っているようだ。
「──ああリョウ、一応言っておくが、今日はまだ安静にしておくことだ。回復魔法で治した部分はまだ脆いからね。完全に馴染むのには一昼夜掛かると思いな」
「分かりました。ありがとうございます、ドロテアさん」
リョウが頭を下げると、ドロテアはにやりと笑って頷き、アベルに視線を移した。
「アベル」
「はい」
「話がある。廊下に出な」
声はいつもの調子だが、視線が鋭い。
廊下に出て扉を閉めると、ドロテアは声を潜めて告げる。
「リョウの怪我は全部治した。が、暫くは要注意だよ」
「要注意?」
怪我が治ったなら、問題は無いはずだが。
アベルが首を傾げると、ドロテアは舌打ちする。
「…ったく。これだから男は使えないんだよ」
とんだ言い掛かりだと思う。
眉を顰めるアベルにずいっと顔を近付け、ドロテアは噛んで含めるように言った。
「あの子が見た光景をもう一度思い出してみな。どうせ、お前が『視』たんだろう? ──怪我ってのは、なにも身体に限った話じゃないんだよ」
「え…どういう…」
「あとは自分で考えな」
ドロテアは突然アベルを突き放し、ああやだやだ、と首を横に振った。
「あの子も不憫だね。こんな朴念仁の恋人役とは」
「ぼくねんじん」
知らない言葉だが、貶されているのは間違いない。
それでも文句を言えないのは、ドロテアがリョウを心配しているのが分かるからだ。
「精々、見放されないように気を付けるんだね」
そんな一言と共に、ドロテアは踵を返し掛け──
「ああそうそう。アタシには昼飯の奢りじゃなくて、菓子折りの一つでも寄越しな。そしたら、エロガキの大失態はあんたらの隊長には黙っててあげるよ」
「…それ、隊長には秘密でも大公には伝えるって意味ですよね」
「なんだ、よく分かってるじゃないか」
人の悪い笑みは、やっぱり童話の魔女のようだった。