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1 プロローグ


────────────────────────────



 世に英雄は数あれど、彼女ほど印象的な者を私は他に知らない。

 己の本心を口にすることは殆どなく、その目はただ先を見据え、人知れず傷付いてなお、前に進み続ける。

 その生き方はあまりに鮮烈で、私の心を釘付けにするのには十分だった。

 いや──きっと私は、出会ったその時から、彼女に心奪われていたのだろう。

 神凪リョウ。

 凪の一族、『月晶華』の称号を持つ剣士。

 ──私の最愛の人。



──『アベル・イグナシオ回想録』序章より──



────────────────────────────





 模擬戦闘で断崖絶壁から足を滑らせたのは、今までの人生で間違いなく一番の失態だった。


 あと一歩分あったはずの地面はそこには無く、空中に投げ出される浮遊感とあっけにとられる対戦相手の顔だけが、記憶に残った。


 何とか態勢を立て直し、ぎりぎり頭から水面に落ちたは良いが──落下の衝撃と水の冷たさに、あっという間に意識を奪われた。



 そして。



「……う…」


 小さな呻き声と共に目を開けると、黒っぽい影が視界の端に映った。


「あ、起きた?」


 幼さを残す割に、不思議と落ち着きのある声。

 視界がクリアになり、相手が手を伸ばして来たことを認識して、瞬時に跳ね起き飛び退る。


「…」

「…えーと…」


 警戒を全面に出して身構え睨み付けると、手を中途半端に伸ばした間抜けな格好のまま、相手は小さく首を傾げた。


 暫くして、何か納得したように一つ頷く。


「…それだけ動けるなら、怪我は無いみたいね」


 茶色掛かった黒の短髪に、印象的な琥珀色の瞳。

 年は自分と同じくらい──12歳ほどだろうか。

 ほっそりしていて男か女か判断に迷うが、声の感じからすると女だろう。


 警戒するこちらを意に介さず、相手はあっさり背中を向け、後ろの棚からタオルを取ってこちらに投げ渡して来た。


「まだ髪とか濡れてるから、ちゃんと拭いて。風邪ひいちゃう」

「…」


 一先ず少女に害は無さそうだと判断し、大人しく髪を拭きながら、周囲の状況を確認する。


 まず、気を失っている間に着替えさせられたのか、いつもの訓練着ではなくゆったりとした麻の上下を着ていた。


 ついでに、ここは野外ではなく、どこかの小屋の中のようだ。

 調理場が無く、床の中央に何故か窪みがあって、そこに灰と炭が盛られている。

 炭は赤熱していて、離れていてもじんわりと温かい。


 天井付近の梁から金属の鎖が垂れ下がり、その先端のフックには金属製の鍋のようなものがぶら下がっている。

 鍋は丁度、赤熱した炭の真上に来るよう吊り下げられていて、中の野菜がくつくつと良い音を立てて煮えていた。


 ぐう、とお腹が鳴る。


「…」


 模擬戦闘の関係上、昨日から何も口にしていない。


 沈黙したまま赤面していると、少女はそれを笑うことなく、鍋の中身を木の椀に注いで少し離れた場所に置いた。


「良かったら食べて。身体が温まる食材を入れてるから」


 少女はこちらを気にすることなく、自分の椀にスープをよそって食べ始める。


 大方髪が乾いたところで、自分も椀を手に取った。

 温かい椀に触れた指がチリチリと痛み、自分の身体が冷えているのを実感する。


 少女が食べているので、毒ではないだろう。

 訓練の一環で絶食中だったが、今は緊急時なので腹ごしらえをしておくに越したことはない。


 内心で言い訳をしてからスープを啜ると、野菜の優しい甘さと野草のわずかな苦味、そして生姜の風味が口の中に広がった。


 喉を通った温かさが胃に届き、じんわりと体の芯を温めていく。


 貴族向けの豪華な食事も食べたことがあったが、今まで食べた物の中で一番美味い。

 心からそう思った。


「…」


 無言でスープを平らげると、少女と目が合う。


「…美味かった。ありがとう」

「どういたしまして」


 食事とは、人の警戒心を和らげる効果があるらしい。

 そんなことを思いながら礼を述べる。


 少女は笑って頷き、汁椀を片付けながらこちらに話し掛けて来た。


「ところで、名前は?」

「それは…」

「あ、名前じゃなくて良いや。何て呼んだら良い?」


 こちらが言い淀んだら、あっさりと言い換える。

 それでも答えられずに口籠ると、今度は小首を傾げて訊いてきた。


「じゃあ、銀月って呼んで良い?」

「銀月?」

「あなたを見付けた時、綺麗な月が見えてたから」


 少女が言うには、つい先程、崖下の川岸で自分を見付けたそうだ。

 ということは、今は夜か。


 崖から落ちたのは夕刻だったし、身体の状態を考えても、日をまたいでいるということはないだろう。


 そこまで考え、思い至る。


 …この少女、こんな時間に何故一人でこんな小屋に居るのだ?


 疑問が顔に出ていたのだろう。少女は笑って説明してくれた。


「ここは帝国領、凪の一族の自治区。私はこの森の守護を任されている『月晶華』の一人、神凪リョウ。──あ、『リョウ』が名前ね」


 変わった響きの名前だった。

 普通、名前が先、家名が後なのだが、少女──リョウのところでは違うらしい。


 そして、ようやく状況を理解する。


 どうやら自分は、崖を挟んで反対側、帝国領に来てしまったようだ。


 崖から落ちて岸に打ち上げられただけマシだが、せめてもっと下流でいいから自国──公国側に流れ着いて欲しかった。


 帝国と公国は極めて仲が悪い。

 小競り合いは日常茶飯事、一歩間違えれば戦争待ったなしという間柄。


 それでも大規模な戦闘が発生しないのは、公国と帝国の国境線が、高い崖を伴う流れの激しい川だからだ。

 一応申し訳程度にいくつか橋は掛かっているが、どれもすぐに壊せるような簡単な作りで、両側を公国帝国両軍が見張っている。


 つまり…自分が公国に戻るためには、帝国軍の監視を掻い潜って橋を渡らなければならない。


(…無理だろ)


 絶望的な状況に、内心頭を抱える。

 それが顔に出ていたらしい。リョウは何か考える仕草をして、口を開いた。


「…違ってたらごめん。もしかして、()()()()の人?」

「!」


 思わず肩が跳ねた。


 それだけで伝わってしまったらしい。リョウは難しい表情になる。


(…帝国軍に突き出されたら終わる)


 いつでも動けるよう足に力を入れて身構えていると、リョウは窓の外をちらりと見て、小さく溜息をついた。


「──銀月、悪いんだけど…」

「…」



「これから案内するから、川向こうに帰ってくれないかな?」



「………は?」



 帰れ。


 つまり、帰してもらえる。


「……どういうことだ?」


 まさかそんな提案が来るとは思っていなかった。

 疑わしく眉根を寄せたら、どうもこうも、と肩を竦められる。


「正直な話、うちの一族は帝国と仲悪くて。下手に銀月みたいなのを帝国軍に引き渡したら、うちの一族があらぬ疑いを掛けられるの。だから、出来れば川向こうの人たちのことは、『見なかったこと』にしたい」


 こちらとしては渡りに舟ではある。

 しかし、軍が見張っている橋を、どうやって渡ろうというのか。


「少し上流に、川幅が狭くなってるところがあるから。頑張れば跳べると思う」

「……頑張れば?」


 それは、普通は無理なのではないだろうか。


 そもそも、跳べそうなくらい狭くなっている場所など記憶にない。

 そんな場所があったら、軍事的な要注意地点として情報が出回っているはずだ。


 少なくとも公国軍では、そんな話聞いたことが無い。


「…本当か?」


 疑念と警戒を全面に出して問い掛け──それを表に出したら逆効果だと遅れて気付く。


 どうも、この少女相手では調子が狂う。これでも、訓練兵の中では一番の有望株だと言われているのだが。


 そんなこちらの内心をよそに、リョウはあっさりと頷いた。


「あるよ。多分、川向こうからだと判らないと思うけど」

「…?」


 行くなら早いほうが良い、と急かされ、干されていた元の服に着替える。


 装備はかなり落としてしまったようだが、懐に入れていた短剣は無事だった。


 訓練兵になった時、教官から渡された短剣。

 その主な用途が自決用だと聞かされた時、自分の立場を改めて思い知った。


 それでも、親に捨てられ劣悪な環境に居た自分を保護してくれた軍事孤児院には、感謝している。


 教養、戦闘技能、各国の文化やマナー。

 ありとあらゆる知識と技能は、全て国から与えられたものだ。


 今ではこの短剣も、御守のような感覚で身につけている。


「準備できた?」

「…ああ」


 外に出て待っていたリョウが、戸口から顔を覗かせる。

 頷き、短剣を元の場所に仕舞って外に出た。


 見上げる空は、深い紺碧。


 今宵は満月。

 中天に掛かる白い月を見て、なるほど自分が『銀月』と呼ばれるわけだ、と納得した。


 小屋は森の中にあった。木々は太く大きく、全体に苔むしている。

 月明かりに照らされ、葉先の夜露が微かに輝いていた。


「こっちだよ」


 リョウの後について歩き出すと、程無く川の音が響き始める。


 灯りも持っていないのに、リョウの足取りに迷いはなかった。

 月明かりでそれなりに明るくはあるのだが、一歩間違うと木々の根に足を取られそうな鬱蒼とした森を、リョウは軽い足取りで進む。



 ──そういえば、リョウの足音がしない。



 暫く歩いてその事実に気付き、背中が冷えた。


 まるで静音移動を教えるときの教官のような静かさ。なのに、足取り自体はごくごく普通だ。

 それでどうして音が出ないのか、全く分からない。


 『この森を守護する『月晶華』の一人』だと、リョウは名乗った。


 月晶華というのは、恐らく役職名か称号──つまり、この歳で既に、そういった役目を負えるほど強いということではないだろうか。


(こいつ…)


 もしかしたら、自分よりもよほど。



 ──その予想は、とても分かりやすい形で証明された。



「──!」



 前を行くリョウが突然足を止め、右手を振り抜く。


 バン!と激しい音がして何かが木の幹に叩き付けられ、そのまま動かなくなった。


 覗き込むと、それは黒っぽい犬のような何かだった。


 犬にしては顎が大き過ぎるし、四肢の先の爪が不自然に大きい。

 それに、四足ではなく二足歩行で襲い掛かって来たように思う。


 こんな生き物、今まで見たことがない。


「…これは…」

「この森にしか居ない、特殊な魔物──魔物って言っていいのかな。まあとにかく、そういう危ない生き物」

「殺したのか?」

「ううん、気絶させただけ。こいつらは群れで行動してて、仲間の血の匂いで狂暴化するから。いつもなら、もっと遅い時間に活動してるんだけど…」


 視線を巡らせ、表情を険しくする。


「…もう結構出歩いてるみたい。少し急ぐよ」

「わ、分かった」


 もしかしたら、自分のような『余所者』の気配を感じて、いつもと違う行動を取っているのかも知れない。


 そう思ったが、口には出せなかった。



 リョウが再び歩き出す。先程より急いた足取りを、慌てて追う。


 時折進む方向を変えるのは、あの生き物との遭遇を避けるためだろう。月明かりがあるとはいえ暗い夜の森を、迷うことなく進んで行く。


「ここだよ」


 拓けた場所に出ると、リョウはすぐに足を止めた。 


 この辺りでは珍しくもない、川岸の崖。かなり下から水音がしている。


 月明かりの下、遥か遠くに対岸が見えて目を疑った。


「……ここ?」

「ここ」


 胡乱な目で見詰めたら、真顔で頷かれる。


 どう考えても、跳んで渡れる距離ではない。

 …それとも、リョウならば行けるのだろうか。


「見た目ほど遠くないよ。光の屈折を利用して、遠く見えるようにしてるだけだから」

「遠く見える…?」


 魔法の一種だろうか。そんな魔法があるとは聞いたことが無いが。


「…来た!」


 リョウが森の方を向き、視線を鋭くする。


 先程の犬もどきの群れだろうか。茂みの奥、赤い光が複数見える。


「行って」

「え?」


 身構えたまま、リョウが告げた。


「あいつらは私が食い止める。銀月は、川向こうに帰って」

「け、けど」


 こちらが躊躇うと、リョウはこちらを振り返らないまま、一歩踏み出した。


 茂みの奥から、獣の唸り声がする。


「私だけならどうとでもなるから」


 落ち着き払った態度。本当に、どうにかしてしまいそうだ。

 ──自分という足手まといが居なければ。


 唐突に悟り、覚悟を決めて崖の方へ向き直る。


 対岸はやはり、遥か向こう。

 ただの錯覚だというが、では実際どれくらいの距離なのか、想像がつかない。


 それでも──帰りたいなら足を踏み出すしかない。



「──ありがとう」


 走り出す直前、小さく囁くと、


「…元気で」


 小さな応えが返って来た。


 その声に背中を押されて、勢い良く走り出す。

 背後で獣の咆哮が響き、直後、同じ獣の悲鳴が上がる。



「──はあっ!」



 振り返りたい衝動を堪えたのは、リョウの鋭い声が聞こえたから。


 あの場にリョウが留まっているのは、自分が無事に川向こうに渡れるようにするため。

 ならば自分は、速やかにあちら側に帰らなければならない。



「…っ!」



 距離が掴めないまま、ただ思い切り踏み切る。


 跳んだ瞬間、届かないはずの距離はみるみるうちに縮まり──



「…!?」



 突然目の前に地面が迫り、ギリギリのところで受け身を取った。


 振り返ると、遠くに月明かりに照らされた対岸が見える。


 そこで戦っているはずのリョウの姿は、目を凝らしても見付けられなかった。



「──…アベル!?」



 名前を呼ばれて振り向くと、目を見開いた教官が駆け寄って来るところだった。


「お前、無事だったのか!」

「…はい」


 頷いたら、こんな状況なんだから少しくらい喜べよ、と文句を言われる。


「訓練兵と教官、総動員で探してたんだからな。感謝しろよ」

「…万が一帝国軍に見付かったら、教官たちの大失態になるからでしょう?」


 半眼で呟く。


 緊張状態の続く帝国との国境付近で演習を行っているのは、教官たちが『現場の空気を感じさせたい』と主張したからだと聞いている。

 間違いではないと思うが、こういう危険もある以上、考え直すべきだと思う。


「耳が痛いこと言うなよ。オカンか、お前は」

「母親は居ないので分かりません」

「まあ俺も知らないがな」


 いつものやり取りをして、ようやく帰って来たと実感する。


 ──先程まで対岸に居たとは思えない。まるで、夢の中の出来事のようだった。


「それにしてもお前、無傷か?」

「はい」


 頷いてから違和感に気付く。


 あれだけの高さから落ちて気絶までして、どうして濡れるだけで済んだのか。


 しかし、どこをどう見ても、擦り傷一つ無い。

 『強運』の一言では済まない状況だ。


「……まあ良い。無事だったんなら何よりだ」


 首を傾げて自分の身体を観察していると、教官が溜息をついて疑問を棚上げにした。


「帰るぞ、アベル」

「はい」


 素直に頷き、歩き出す。



 一度だけ振り返った対岸は、月明かりの下、どこまでも遠かった。





 ──そうして帰還した後、軍医の診察で奇妙な指摘を受けた。


 ──背中の中央より少し左側、丁度心臓の裏あたりに、見慣れない紋様がある、と。




自分史上初の『恋愛』ジャンルもの。

恋愛…だと言い張りたいです、ハイ。(←お察しください)


今作品は書き溜めてから投稿する形式です。これも初の試み。

基本、毎日お昼の12時更新予定。あと時間がある時にもプラスアルファで投稿して行きます。

できてなかったら『間に合わなかったんだな』『設定し忘れたんだな』…と生温かい視線を送ってください。


また、今作品は第6回アース・スターノベル大賞に応募しています。

続きが気になる!という方は、『いいね』やブックマーク、☆などで応援していただけると作者は小躍りして喜びます。


最後までお届けできるように頑張りますので、応援よろしくお願いします!



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