長い日曜日・五階・二階・地下
文房具店を出ると、もう十四時を回っていた。
「あとお互いに行きたい店、一軒づつ見て帰ろうか」
「もうそんな時間ですか?」
香澄は真治の腕時計を覗き込んだ。香澄の中で伝説になっている雨の帰り道。今から思えば、十五分足らずの出来事だった。それを思えば、今日はもう三時間以上経過しているではないか。
「ねっ」
「判りました。じゃぁ、五階の婦人服見ても良いですか?」
「良いよ。エスカレータあっちだね」
真治が指さした方に向かって二人は歩き始めた。
エスカレータで五階に移動すると、香澄は数あるテナントの中から一店を選び、真治を引き連れて入店する。そのとき、振り返った香澄と目が合った。
「それ、持とうか?」
「お願いします!」
紙袋を指さして真治が言うと、香澄はそれを渡した。そして、目に付いた中から一着のワンピースを選び、自分に重ねた。真治は、また香澄と目が合った。
「どうですか?」
「かわいいよ」
香澄はにっこりと微笑んで、鏡の前まで真治を引っ張って行き、もう一度自分に重ねた。真治も横から鏡を覗き込んだ。香澄は体を左右に振っている。
「ちょっと大人っぽいですかね?」
「そんなことないよ。似合ってるよ」
鏡越しに見つめ合って話した。香澄は真治の手を離すと、襟元から垂れ下がった値札を引っ張り出し、くるくると回して値段を見た。
「一万八千円ですって!」
目を丸くした後に、口を尖がらせながら目を瞑った。どうやら予算が足りないようだ。ちらっと香澄に見つめられて、真治は笑った。
「お高いですなぁ」
香澄は頷いて鏡の前から離れた。元あった場所に真治が片手を差し込んで間を広げると、そこに香澄がワンピースを戻した。買って貰うのはまだ夢だ。
「じゃぁ、次、行きましょうかっ」
「あれ、もう良いの?」
真治が言うと、香澄は再び真治の手を取り、引っ張りながら店を出た。
「一度、男の人と、やってみたかったんです」
「そうなの?」
首を竦め、とても恥ずかしそうに笑う香澄を見て、真治もつられて笑った。何が夢か希望か、世の中判らぬものである。上目遣いの香澄が質問してきた。
「小野寺先輩は、女の人が服を選ぶのって、退屈じゃないんですか?」
「全然。退屈ではないよ」
「そうなんですか?」
さも当然のように真治は答えたが、香澄にはそれが信じられなかったようだ。
「え、なんで? 何? 遠慮してたの? 戻る?」
「良いです良いです。だって、男の人って、お店の外でよく待っていません?」
「あー、そうねぇ」
「だからです」
「なるほどねぇ。でもねぇ。折角なのにねぇ」
二人は下りエスカレータに乗った。一段違いにエスカレータに乗ると、二人の顔は近くなった。真治が答えを考えている間、香澄はすぐ横の真治の顔を見つめていた。
「だって、選んでるのって、デート服なんでしょ? この服だったら、どこ連れて行こうかな、とか、どんなお店が似合うかな、とか、考えるでしょー」
答えを選んだつもりだが、香澄からの返事はなかった。エスカレータを乗り継いで、さらに下へ向かう。
「じゃぁ、一杯買ったら、一杯どこかへ連れて行って貰えるって、ことですか?」
つないだ腕をぶるんぶるんさせて、香澄が聞いて来た。真治は笑った。
「いやいや、中学生だし、そんなに一杯買えないでしょ」
「ダメですかぁ」
香澄のぶるんぶるんが止まった。真治は笑顔のままだ。
「お出かけする度にお洋服変えてたら、お小遣い、無くなっちゃうでしょ?」
「でもでもー、毎回同じ服って、訳には行かないしぃー」
「そうなの?」
真治は驚き、香澄の方を見て聞いた。エスカレータは下がり続ける。香澄のテンションも下がり続けていた。悲しそうに答える。
「女の子同士で出かける時は、そうです」
「へー。そんなもんですかねぇ」
「そういうものです!」
香澄に強く言われて、真治は納得して頷いた。そして、笑顔で答える。
「でも、他に女の子がいなくて、私とだけで出かけるんだったら、毎週同じだって良いよ?」
「え、毎週ですか?」
「うん。だってお気に入りのかわいい服を着て来てくれるんでしょ? 何度だって見たいでしょー」
「ホントですか?」
香澄が声のトーンを上げて確認してきた。真治はさっきから笑顔のままだ。
「その服だってかっわいいよー。また見たいし、着てくれる?」
「はい! これ凄く気に入っているんです!」
香澄は元気よく答えると、エスカレータが下の階に近付くにつれ、腕が組みやすくなるや、真治の右手を包み込むように左手で囲い込んだ。そして真治の肩に頭をくっつけた。夢なら覚めないで欲しい。咄嗟に、そう願った。
二人は再び文房具屋さんの前にいた。
「所で、小野寺先輩は、何処に行きたかったんですか?」
「ここー」
真治が指さしたのは、文房具屋さんの隣にある楽器店だった。香澄は入り口にあるピアノを人差し指で、ポンポンとつついて音を出してみたが、真治に引っ張られて店の奥に来ていた。真治がショーケースを覗き込んだ。
「何が欲しかったんですか?」
「メトロノームの小さい奴」
きょろきょろと二人でメトロノームを探した。隅っこに、赤、青、黄、黒、白の五色のトランプケース位のメトロノームを見つけた。
「こんなに小さいのがあるんですね」
「うん。部活で使っている人を見て、良いなぁって思って」
「でも、大きいのなら学校に一杯ありますよね?」
香澄の疑問はもっともだ。お小遣いは有効に使いましょう。
「トランペットの楽器ケースに入る感じで、かわいいでしょ。ねじを巻いてから止まるまで、ロングトーンの練習するのに良いかなぁ」
「何で、ロングトーン用なんですか?」
香澄の疑問はもっともだ。そんな特殊用途のメトロノームがあるはずがない。
「小さいと、ねじを巻いて止まるまでの時間が短いからだよ」
にっと笑って真治が答えた。
「えー。動機が不純です!」
香澄も笑った。値段を見ると、そんなに高くない。買えなくもない感じ。
「お揃いにします?」
香澄が聞く。真治は香澄を見て少し考えた。その間に香澄は、自分が赤、真治が青を買うことを想像していた。
「二人で一緒に練習するんだったら、一つで良いんじゃない?」
「あ、それもそうですねっ」
香澄の頭の中から、赤いメトロノームが消えた。
「今日は、見るだけだからー」
笑いながら真治がそう言うものだから、青いメトロノームも消えた。二人は続いて楽譜売り場に来た。真治がひょいひょいと適当に楽譜を引っ張り出しながら香澄に聞く。
「ピアノで、どんな曲を練習しているの?」
香澄は真治が楽譜をひょいひょいしているのを見て、紙袋を右手首に引っかけると、自分も両手でひょいひょいし始めた。
「これですね」
しばらくひょいひょいして香澄が引き当てた。
「へー。結構難しいの練習しているんだね」
「でも、大分弾けるようになりましたよ」
「それはすごいね」
香澄は少々照れた。
「次はどんなのやるの?」
「えっとですね、ショパンのバラ三、バラ三」
香澄が張り切って、またひょいひょいし始めた。
「これですね!」
香澄が楽譜を見つけた。そして真治に渡す。受け取った真治は、楽譜をそっと開いて中を見た。どう見ても、自分には弾けそうにない。ショパンだもんなぁ。
「あれま、大変そう。これ買っちゃう?」
真治は香澄に聞いてみた。
「え? でも、お母さんが持っているから?」
わざわざ買うこともないだろう、という感じで香澄が返事をした。お小遣いでピアノの楽譜を買うなんて、考えたこともなかった。
「でもお母さんのは、お母さんの思い出が、詰まっているかもしれないじゃん?」
「思い出って」
真治の言葉に、香澄はちょっとおかしくて、プッと笑った。
「曲の解釈って、時代と共に変わるから、同じ所に同じ印ってことはないでしょ」
「そうですかねぇ?」
確かに楽譜には赤ペンで、どんどん書き込みがされて行く。母から貰った楽譜にも、そういうものがある。
「んー。でも、原本があれば、コピーを取れば良いんじゃないですか?」
「なる程! 賢いねぇ」
真治は納得して笑った。香澄は何をしに来たんだか、という思いが廻った。
「じゃぁ、ケーキ買って帰ろっか」
「はい!」
二人は再びエスカレータに乗って地下の食品売り場に向かった。ケーキ屋さんは上品な大人の女性達で一杯だった。そこに中学生二人は、ちょっと場違いな感じだ。二人はショーケースを見つめながら、ひそひそ会話をする。
「ケーキって、高いんですね」
「すごく美味しそうだけどね」
「近所のお店とは違いますね」
「うん。凄くデコレーションが凝ってるよね」
ケーキ屋さんのショーケース前で二人は固まっていた。店員さんがニコニコしながら、早く決めろと内心思っているかは、判らないし、気にしない。
ケーキ屋さんのショーケース前で時間制限をする奴はクズである。右へ左へ、正に右往左往しつつ、ショーケースにペタペタと指紋を付けながら、至宝の一つを選ぶ。それがケーキ屋さんでのマナーだ。
「所で、何人家族?」
「三人です」
「じゃぁ、四つ買えば良いのかな?」
真治の質問に香澄は手を横に振って否定した。
「父は海外なので、今は二人です」
なるほど。真治は頷いた。
「お母さんは何が好きなの?」
「甘ければ何でも好きですよ」
香澄はショーケースを見たままだ。横顔も素敵である。
「それは選択に迷わなくて良いですねぇ」
真治が頷いて、香澄を見ると、香澄が元気良く答えた。
「私もです!」
「それは良いですねぇ」
右手の拳をあげて答えたものだから、店員さんが寄って来たが、どうやら違ったみたいで、また奥に引っ込んだ。香澄はショーケースの端を見ると、一度降ろした手で、真治をねぇねぇと手招きして指さした。
「プリン六個セット二千円ですって」
「あら、随分お得ですね」
「これにしましょ!」
香澄は一人二個と計算して飛び跳ねた。真治は頷くと、右手を小さくあげて、店員に合図した。今度こそ店員を呼んだ。
「このプリン六個セットを下さい」
「畏まりました」
特に何も言わなかったが、ご贈答用に包まれたプリンセットが出て来ると、真治が胸ポケットに入れたままの茶封筒から伊藤博文を二枚出す。香澄がプリンを両手で受け取って、そのまま抱え込んだ。
「ひっとり二個ー」
「心の声がダダ漏れですよー」
甘いものを買ったときの香澄は、こんな顔をするんだ。と、真治は思って微笑んだ。歩くのが速い。このままスキップでも始めそうだ。もう、そのまま帰り道は、一人で踊りながら行くのかなと、ちょっと寂しくも、揺れる髪を眺めていた。香澄は二つの紙袋をまとめて右手に持ち、勢い良く振り返って左手を差し出した。目が合った真治は、息をも忘れて、その手をがっちりと掴まえる。
「ありがとうございます!」
真治は何も言えなかった。ポスターから出て来た香澄の手を掴んだのかと、錯覚していたからだ。夢中で強く握りしめてしまった手を香澄に見つめられ、真治は赤面した。香澄は目を細くして微笑み、下唇を噛むと、ゆっくりと目を見開きながら、上目遣いに真治を見つめる。そんな香澄も、赤面していた。
二人は、ローズデパートを後にした。真治の時計は、最早バラバラになってぶっ飛んでいたが、それは現地時間、十四時三十三分十七秒のことだった。