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カスミトシンジーノ

 窓の外には、冷たい雨が降っている。季節外れの強い雨、と言いたい所であるが、毎年季節外れと言い続けている気がしないでもない。『何でも修理します』という看板を掲げた修理屋の窓に、大粒の雨が、やかましいリズムを刻む。それでも窓際にある机で、なにやら作業をする老人は、気にもしていない。どうやら修理に没頭しているようだ。

「師匠! 店閉めて、レジ締めました!」

 後ろからの大声に驚き、師匠は顔をあげる。最後のネジを机上に落とした。

「おう、ご苦労さんね。もうあがって良いよ。ありがとう」

 ネジを放置して、師匠と言われた男は言った。しかし店員の伸次は、師匠の手元にある、小さな箱に興味を持つ。

「雨すごいんで、もうちょっと待ちます。で、それ何ですか?」

「ああ、これか? これはな『オルゴール』っていう奴だ」

「へー。何ですか? それ」

 答えを言ったのに、同じ質問をした伸次を見て、師匠は首をすくめた。時代を感じる。そして、ため息混じりに箱の中を指さす。

「これはなぁ、このトゲトゲが回転して、この爪をピンって弾くとなぁ、音楽が鳴るんだよぉ」

 師匠がピンセットで爪を弾くと、小さく音がする。伸次は頷く。

「へー。初めて見ました。修理依頼ですか?」

 それを聞いて師匠は、机の周りをキョロキョロし始める。

「ああ、何だっけ、そこに書いてあるだろ?」

 師匠は机の端の方にある紙を指さした。伸次はそれを手に取る。そして、明かりの方に移動して覗き込む。

「えーっと『小石川音楽記念館』様、ですか?」

「そうだ」

 師匠は最後のネジを、ドライバーでゆっくりときつく締め込んでいた。そして、箱の裏にあるゼンマイをゆっくりと巻き、机の上に置く。

「良いか、蓋を開けるぞ。直ってると良いなぁ」

 伸次は師匠の声を聞いて、目線を依頼書からオルゴールに移す。

「はい。そうですねぇ」

 師匠はゆっくりと、オルゴールの蓋を開ける。巻かれたゼンマイの、元に戻る力が小さな歯車に伝わり、それがゆっくりと回転し始めた。キンコロコンとドラムが回転し始める。

 二つだけ音を奏でて聞こえなくなったが、それは、丁度曲の最後の所だったようだ。師匠はドラムの状態を見ていたので、故障でないことは判った。息を呑んで、回り続けるドラムを観察している。

 そして金属音のメロディーが、中も外も手垢だらけの箱を揺らしながら、静かに鳴り始める。オルゴールに言わせれば『実に三十年振り』とのことだ。

「いやー良かったー。ゼンマイが無くてさー。間に合ったよー」

「良かったですねぇ」

 オルゴールを見たまま師匠は頷く。普段は電化製品の骨董品を扱っている店なので、これは珍しい一品となる。無事修理ができて、面目躍如だ。

「どうだ、良い音だろう?」

「はい。何か懐かしい感じですね。初めて聞くけど。これ、何て曲ですか?」

 伸次はオルゴールに近付いて来て、覗き込んだ。

「これは『愛のオルゴール』だな。洒落てるなぁ!」

 師匠は笑顔で伸次を見上げる。伸次は首をかしげた。

「そうなんですか? 良く判りませんけど」

 伸次にはそうでもなかったようだ。師匠は、また首をすくめた。

「ところで、なんで家で受けたんですか? 専門外ですよね?」

 師匠は、またオルゴールの方を向いて、前から横から覗き始めている。

「あぁ、昔はこういうのもやっていたんだけど、段々減って来てね。それで家電を始めたんだけど、いつの間にか家電の方が、多くなっただけさ」

「そうだったんですね」

「これはオルゴールとしては簡単な方でな。まぁ、一般人のお土産的なもので、そんなに凄いものじゃないんだけど、大昔の貴族様が使っていたような奴は、もっと凄いのがあったんだぞー」

「へー。貴族って何ですか?」

「え、そこから?」

 師匠は渋い顔をする。説明が面倒くさい。

「一般人のお土産を、直していたんですか?」

「おい、そう言うなよ。こういうのは、大体大切な人の『思い出の品』って奴なんだからさ。値段じゃないんだよ」

「それは判りますよ」

 伸次は師匠に直して貰った、父譲りの安い機械時計を見せる。

「ほら、そこに書いてあるだろ?」

 師匠が依頼書を指さしたので、備考欄の文字を読み始める。

「えーっと『ノデラーの遺品』ですか? 誰ですか? ノデラーって」

「お前は知らないのかぁ。『ノデラー ピアニスト』で検索してみ。出て来るから。凄い人だったんだぞー」

 師匠は、机の横にあるパソコンを指さす。そしてオルゴールをもう一度見た。横長のオルゴールは宝石箱になっていて、指輪を固定する為のふわふわがあり、何度も出し入れをしたと思われる跡が残っている。きっと昔は奇麗だったであろう装飾も剥がれ、イヤリングを入れるであろう少し深い所は、多少ガタついているようだ。

 伸次は師匠が指さしたパソコンが、あまりにも古い骨董品だったので、自分のタブレットを出して検索し始める。

「本当だ。出てきました。『ノデラー。本名不明。国籍不明。生没年不詳。女性。一切のプライベート情報が非公開となっている、ピアニスト』だそうです。本当だ、凄いやぁ」

 伸次は師匠の方を見た。師匠は頷いただけで、再びオルゴールを触っている。まだおかしい所があるようだ。伸次はその先を読む。

「メディアへの初登場は、国際放送の『ピアノの妖精といっしょに』で『コイシー星からやってきたピアノの妖精』役として仮面を付け登場した。何ですかこれ? これもある意味、凄いですけど」

「それは俺も知らん! そういう凄いじゃないよぉ!」

 伸次も笑っているが、伸次の方を向いた師匠も、笑っているではないか。

「笑わせないで、続き読んでくれよー」

「はい。『英語、フランス語、ドイツ語に対応し、え、凄いな。各国の子供達にピアノを教えたり、一緒に弾いた。番組最終回で既婚であることをカミングアウト。仮面を取り素顔を見せてピアノを弾いた。その時、ほどいた髪が床まで伸びていたことから、「ノデラースタイル」と流行になり、以後シャンプーのCM等、様々なメディアに取り上げられた。演目はクラッシックからジャズ、ポピュラーミュージック等、多岐に渡る。オーケストラとの共演をはじめ、様々なイベント、コンサートに出演した。長年に渡って注力したのは、子供達との触れ合いコンサートで「ピアノの妖精」のイメージを壊さないように、全てのプライベートが隠された』へー、凄いなぁ」

 師匠も知らない情報があったようである。

「その人の遺品なんだってさー」

「へー。凄く奇麗な人だったんですね」

 伸次が画像を大きくして、師匠に見せる。

「あー、もう何十年も前だけどね。俺が子供の頃だよ」

「そうなんですか。で、何でそんな凄い人のオルゴールが、家に?」

「いや、小石川何とか館って近所らしくてな。没後十周年の記念行事で、直して欲しいって、館長さんからお願いされてねぇ」

「そうじゃなくて、何で、受けたんですか?」

「あぁ、理由の方? その人さぁ『カスミトシンジーノ』っていうピアノ教本出してたんだけど、そのピアノ教本のお陰で、俺は婆さんと出会ったんだ」

 それを聞いた伸次は、再びタブレットを見て、記載の続きを読む。

「これかな。『後年になって「集まれ天才少年少女達・ノデラーが贈るピアノ教本・カスミトシンジーノ」を発行した。日本語版は小石川音楽記念館が刊行している』って、何ですか? この名前。『伸次の』みたいな」

 師匠は、伸次の方を見て吹き出す。哀れな奴を見る目で、伸次に言う。

「馬鹿『シンジノ』じゃねーよ。ジにアクセントの『シンジーノ』だよ。もう。これだから素人はー」

 両手をあげて呆れると、再びオルゴールの方に向く。もうオルゴールは止まっていた。壊れてしまった訳ではない。

「なんですか? 師匠はピアノ、習ってたんですか?」

「ああ。昔な」

「へー。意外ー」

「うるせーな。良いだろ!」

 ちょっと怒って伸次の方を見たが、直ぐにオルゴールの方に向き直る。慎重に持ち上げて、静かに振っている。

「この教本を使っていたんですか?」

「そうだよ!」

 煩いなという感じで、短く答えた。

「へー天才だったんですか? 『カスミトシンジーノは指運の指示がなく』指運ってなんですか?」

「ピアノ教本の、音符の所にさ、どの指で弾けば良いかを、一から五の数字で書いてある奴だよ」

 一応説明してやった。

「いやー、それがなかったら、教本じゃないじゃないですかー」

「それが良いんだよぉ」

 師匠はオルゴールを持ったまま、首だけを伸次の方に曲げて言う。伸次は口をへの字に曲げる。

「えー『創意工夫でメロディーを奏でる教本で、名前の通り天才を対象としたかのような教本である』って。どういうことですか?」

「それな。一人じゃ絶対弾けない曲、ばかりなんだよー」

 師匠はオルゴールを、静かに振っている。

「えー、だめじゃないですかー」

「だから、連弾するんだ。二人で弾くんだよ。ヒヒヒッ」

 昔を思い出したのか、師匠はちょっと顔が赤い。

「何、笑ってるんですかぁ。そういうことですか。あ、本当だ、書いてある『発売当初、絶対弾けないピアノ教本として有名になったが、やがて研究の結果、連弾なら弾けることが判って来た。しかし、それでも指と指が触れるようになってしまうことから、これも名前の通り「少年少女」つまり男女の連弾で弾く教本であることが判明した』って、なんですか? これぇ!」

「なー。画期的だろ? これで俺も、婆さんと出会ったって、訳だ。ヒヒヒッ」

 師匠は伸次の方を見ず、前を向いたままだ。

「ああ『ピアノ教室で好きな子に「一緒にカスミトシンジーノを弾きませんか?」と誘うのが流行した』ですって。師匠、やりますねー」

 伸次はタブレットから目を離し、師匠を見た。師匠は、まだオルゴールを振っている。

「まあなっ。俺の場合は、バレンタインデーに婆さんから誘って来てな、ホワイトデーに、楽譜をプレゼント、したんだよぉ。かわいかったんだぞぅ!」

「あー、そういうの流行ったって、書いてありますね『全二十四曲中、小学四年生までにナンバー十二の「ピエロ」まで弾けたら付き合える。中学卒業までにナンバー二十三まで弾ければ結婚できる、という伝説がある』まじすか!」

「ああ。俺は、中一で二十三まで、行ったぜ!」

 オルゴールを宙に浮かせたまま、師匠はしたり顔で伸次を見る。

「じゃぁ、あと一曲は、いつ弾けたんですか?」

「いや、最後の『ありがとう』は最後まで弾けなかった。ふっ」

 何を思い出したのか、ちょっと吹き出すように笑って、師匠は前を見る。

「えー、あ、ホントだ『最後のナンバー二十四は、十のメロディーが重なり合う幻の曲で、二人でも絶対に弾けない曲である。今だ多重録音以外で演奏されたことはない』なんですってぇ?」

 師匠はオルゴールを持ったまま、上を見た。

「それな。俺は思ったんだけど『少年少女』の後に『達』って入ってるからさ、『大きくなって子供が生まれたら、その子供達と一緒に弾きなさい』てことかなって、思ったんだけどさ」

「なぁるぅほぉどぉ」

 伸次が珍しく同意する。

「でもなぁ、そんなに沢山子供できなくてな。親子三人で六つが限界だった。まぁ、後は孫に期待しようってなっ」

 笑顔で伸次の方を見る。

「三世代ですかぁ。だから『ありがとう』なんですかねぇ」

「うん。かも、しれないって、思っている」

 師匠は頷いて、またオルゴールに目をやった。

「へー。で、行けたんですか?」

「いやぁ、それはダメだった。婆さん、孫が三歳の時、天国に逝っちゃって」

 師匠が寂しそうに言う。きっと師匠がピアノを弾かなくなったのも、それが理由なのだろう。いや、もう弾く意味が、無くなったのかもしれない。

「そうですか。それは、残念でしたね」

 伸次は慰めるように言った。師匠はゆっくり頷いてから顔を上げ、窓の外を見る。雨は峠を過ぎたのか、窓を叩く雨粒は、幾分静かになっていた。

「棺桶に、カスミトシンジーノ入れてやったから、天国で、一緒に弾くさっ」

「まぁ、師匠が天国に行けたら、って話ですけどね」

「この野郎っ! 人が良い話をしてるってのにっ!」

 デリカシーのない言葉を聞いて、師匠は頭に血が昇る。修理したばかりのオルゴールを握りしめて、振り上げた。しかし、顔は笑っているではないか。

「冗談ですってばぁ」

 両手を前に出し、伸次も笑っている。こんなやり取りは、日常茶飯事だ。

「あ? あらら?」

 師匠の顔から笑顔が消える。オルゴールを机上に戻し、そっと蓋を開けた。さっきのように、音楽が始まらない。伸次は心配になって声をかける。

「ど、どうしたんですか? オルゴール壊れました? 振り回すからですよー」

「いや、鳴らないのはゼンマイが切れただけだ。オルゴールさ、直ったんだけど、なーんか、まだカラカラ音がするって、思ってたんだよなぁ」

 師匠は振った勢いで、底板が、少し外れているのに気が付いた。

「何だ? あれ、これ隠し部屋があるな!」

「へー」

「何か、鍵が出て来た。カラカラ言ってたのこれだな。何で二本なんだ?」

 伸次は発注書をもう一度見る。要望欄に、それらしき記述を見つけた。

「んと『晩年オルゴールが壊れても直そうとはせず、ただカラカラと鳴るのを聞いて笑っていた。これだけは、絶対に誰にも触らせなかった』だそうです。ぼけちゃったんですかね?」

「いやー、何だろうね。そう言えば、修理に持って来た時、金庫開けた時の映像があるって、ちらっと見せてもらったっけな。それ見てみるか。頼むわ」

 伸次が検索を始めたのを見て、師匠はオルゴールを見る。隙間から、小さく折り畳まれた紙が出て来た。慌てて眼鏡をかけて、そっと破かないように広げ始める。大分昔に、折り畳まれたようだ。

「これですかね。ありましたよ!」

 伸次がタブレットを師匠の方に向けたが、見向きもしない。

「最近は便利な世の中だのう。デカい画面に出してくれ」

「いやいや、五十年前からできますよ。判りました。少々お待ちを」

 伸次が向こうを見たのをちらっと確認して、師匠は古い紙を読み始める。

 伸次は画面を見ていた。それは、金庫を開けている所だった。

『では、いよいよノデラーの遺品が入っていると言われている、金庫を開けまーす。どうぞー』

 館長が白い手袋で金庫の扉を開ける。

『おー。何だか、ノートが一杯ありますね。何が出てきますかね?』

 覗き込んだ司会者が言う。館長が最初に取り出したのは、不揃いの色々なノートだった。それを横に置いた机に、一つづつ並べて行く。そうして館長は、金庫の方に戻って行く。

『これは何でしょうね?』

 司会者は机の方に来て、最初に置かれた青い大学ノートを見る。裏側だったのでひっくり返すと、表に『トランペット』と書かれていて、落書きのようなトランペットの絵が描かれていた。これはノデラーの遺品とは関係なさそうだ。司会者は顔をしかめて、机の上に戻す。

 次は、少し分厚いノートであった。司会者はマイクを持ったまま開こうとしたが、開かない。じっと見つめている。

『これは、鍵がかかっていますね。これも開けられますか?』

 鍵という言葉に引っかかって、師匠が画面の方をパッと見る。青ざめて眼鏡を外して凝視した。

「それは開けちゃだめだ!」

 師匠が大きな声を出したので、師匠に背を向けて画面を見ていた伸次が、びっくりして振り返る。

「いや、これ録画ですから! びっくりさせないで下さいよ!」

 言われた師匠が『あっ』という顔をして笑ったので、伸次も笑って、画面に向き直った。

 司会者はマイクとノートを鍵師に向ける。金庫を開けた鍵師は、それを一目見ると、にっこり笑って言う。

『開けられますけど、これは交換日記だと思うので、無理やり開けない方が良いでしょう』

『えー、でも何が書いてあるか、読みたいですよね?』

 司会者は館長に聞く。館長は、金庫からノートの束を持ってきて机に並べた。どうやら鍵がかかっているのは、その一冊だけのようだ。

『まぁ、資料沢山ありますので、また後日でも良いかと』

 司会者はちょっと残念そうな顔をして、ノートを机に戻す。

『そうですか。次は、楽譜みたいですね?』

 それは表紙のない、音楽ノートだった。司会者が、それをまたマイクを持ったままひょいと持ち上げると、ノートの間から、古い楽譜がバラバラと落ち始める。どうやら、ただノートに挟まれていただけのようだ。

 司会者は『あっ』と叫んでマイクを持った方の手で、落ちて行く楽譜を押さえようとしたが、変に力が加えられてしまったのか、手に持った音楽ノートの方が、バラバラと崩れて散り始めた。遠くなったマイクでも『あー』という叫び声がはっきりと聞き取れる程で、画面の外から、沢山のスタッフの姿が入り込んで来る。現場は大混乱になった。その時だ!

「ノデラーの正体が判った! 何でカスミトシンジーノなのかも判った!」

 師匠が急に叫び声をあげて、立ち上がった。驚いた伸次が振り返る。

「どうしたんですか? あれ、それ、何ですか? 見せて下さいよ!」

 師匠が、折り目の付いた古い紙を読んでいるのに気が付いた。言われた師匠はまた驚いて、その紙を、折り目に沿って畳み始める。眉毛がピクピク動く。

「駄目だ。お前には見せられない。何かムカつくから、お前には見せられない」

 ちょっと悔しそうに笑っている。伸次が近づいて来る間も笑いながら、折り畳むのを止めない。あっという間に、元の大きさになってしまった。

「何ですかそれ? 良いじゃないですかぁ。俺だって手伝ったじゃないですかぁ」

 伸次も笑いながら紙を指さして言う。しかし、笑顔で首を横に振る師匠と言い争ってまで、読みたいものでも、なかったようだ。

「お前修理は、何もやってないだろ? あ、ほら、雨上がったぞ! 早く帰れ!」

 師匠が窓の外を指さす。窓を打つメロディーは消え去り、雲の間から晴れ間が見えて来た。

「えー、雨、止んじゃったんですか? せっかく、傘持ってきたのにぃ」

 伸次は窓から離れ、隅に置いてあった黒い傘を、ひょいと取り出す。

「なんだ? お前、雨宿り、してたんじゃないのか?」

 伸次の行動が、矛盾しているように思えて、師匠は笑った。

「さっきのは降りすぎですよ。でも、こんな止んじゃったら、香澄ちゃん、誘えないじゃないですかぁ」

「知るか!」

 師匠は笑って叫んだ。

「あはは。お先でーす」

 伸次は傘を手の平に直立させて、バランスを取りつつ作業場を出て行く。階段を『タッタタン』と降りて行く音が聞こえて来た。師匠は、孫をあんな奴に取られるのかと思って、ちょっと拗ねた。まぁ、悪い奴じゃない。

 不意に師匠は、婆さんが息子夫婦に頼まれた孫の名前を『香澄』にしようと提案したのを思い出した。なんだ、もしかして、判っていなかったのは、俺だけなのかと思い、一人笑った。

 大きく息を吸って、椅子に座る。そして、折り畳まれた古い交換日記の一枚を眺め、笑顔で隠し部屋に戻す。机上の二本の鍵を一本づつ両方の手に持った。一見同じ型の鍵に見えて、それは左右非対称の鍵だった。そっと近付けて背合わせにすると、ぴったりと一つになり、ハートのマークが現れる。師匠は微笑んで頷き、これも隠し部屋に戻した。そして、底板を上から被せる。

 古い宝石箱は薄汚れて空っぽであるが、師匠にはこの箱に、沢山のアクセサリーが入っている姿が容易に想像できた。それを嬉しそうに見つめ、今日はどれにしようか、迷っている姿も想像できた。そして、長きに渡って大切にされ、何度も開け閉めされたことは、自分がくたびれた蝶番を直したので判っている。

 きっと、オルゴールも、何度も演奏されたことだろう。そう思って、師匠は蓋を閉じると、箱の裏にあるハンドルでゼンマイを巻く。箱も随分傷んでいる。ただ、内装も外装も、直すことは依頼されなかった。師匠は、その通りだと思って頷いた。

 思い付いて、師匠はオルゴールを振ってみた。カラカラと二本の鍵が、箱の中で踊っている。その時師匠は、突然波の音が聞こえ、愛しい人と走った江ノ島の浜辺を、思い出した。驚いてもう一度振ると、今度は、初めて連弾した時のことがよみがえり、幼き日の愛しい人が、触れ合った指を見て恥じらいながらも、とびきりの笑顔となってゆく瞬間が、鮮明に浮かび上がる。

 指が暖かい。久し振りだ。息遣いも聞こえる。自分の顔が、真っ赤になったのを自覚して、師匠は大きく息を吸う。天井を見た。何故か、涙が止まらない。

 涙を拭きながら、師匠はオルゴールを机上に置き、そっと蓋を開ける。自分で直した仕かけが順調に動き始め『愛のオルゴール』が、再び鳴り始めた。それはとても澄んだ音で、ゆっくりと部屋全体に、広がり始める。

 しかし師匠は、前奏の二小節目の所で蓋を閉じた。作業場に、静寂が戻る。

「これ、直さなくても、良かったんじゃないかなぁ」

 椅子の背もたれに大きく寄りかかり、両腕を使って伸びをする。暫く伸びた後、ゆっくりとその両手を頭に降ろし、そのまま、窓から夕焼けを眺めた。

 真治は下唇を噛んで、笑った。


(了)

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