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それから

 香澄と真治の交換日記、最初の一冊は六か月で終わった。その後も二人は順調に交換日記の冊数を増やして行った。授業が始まると、また週末だけゆっくり会うサイクルになったが、出会ったあの日から、ずっと恋人同士であったかのようだった。


 香澄のクラリネットも変わった。まず、物理的に変わった。

 村田の後輩でクラリネット奏者の佐伯が、村田に頼まれて指導に訪れた時のことだ。そこに、一人だけビンテージクラリネットを吹く少女を見つけた。名前を聞くと『小石川』というので、父親の名前が『圭太』かと問うと、さも当然のようにその少女は頷いた。

 部員の誰もが『きっとお高いんでしょ』と思っていたそのクラリネットは、『ヴーリッツァー』のハンドメイドだった。そう説明した佐伯は、うん百万円の楽器を学校に置きっぱなしにするなんて、と、驚き、家に持ち帰るように香澄に言ったのだ。佐伯は昔使っていた学校のと同じクラリネットを寄贈し、香澄はそれを使うことになった。

 すると、クラリネットの中で、香澄の立ち位置が変わり始めた。指使いが素人に戻ってしまった香澄に、仲間達が我先に教え始めたのだ。そして、休憩時間になると一緒にアンサンブルをしたりした。屋上で真治の所に来ていたのは、毎回異なる曲が即興で始まる合奏には、流石に入れなかったからだった。

 香澄はそのアンサンブルの輪の中で、多くの友を得た。それは香澄が一番望んだことだった。『ヘイ! ヘイ! ヘイ!』も、香澄の踊りが本場仕込みのオリジナルであることは明白だった。パート練習中の教室を舞台に見立て、香澄の指示で机や椅子を並べると、教室のオルガンで『天国と地獄』をかき鳴らしながら、クラリネット全員で足を高く掲げ、フレンチカンカンを踊った。

 そして、村田に見つかる。全員で正座をしている間、香澄があの真衣とやり合うことのできる、親友であったことを思い出した訳だが、それでもみんな笑顔だった。香澄は本当にお茶目で、明るい奴だったのだ。


 真治も屋上で一人トランペットを吹くことはなくなっていた。コンクールも終わり、学校行事の演奏には参加するからだ。ソロのフレーズを任されたり、先輩を押しのけてファーストを担当する曲もあった。


 呪われたこともあった。しかし、それは香澄と真治の二人には有難い呪いだった。新設される中学校の工事現場から、埋蔵文化財が出土し、人骨なんかも出た。調査のため、開校は一年延期となった。二人はお手製の紙垂を作ると、隣の公園へ向かった。ベンチで正座し、紙垂を振りながら、遠いご先祖様に感謝の祈りを捧げた。


 香澄と真治は進級し、同じ学校の先輩後輩として最後の一年が始まった。新入生としてもう一人『小野寺』を名乗る女子がフルートで入部したが、真治は彼女を『血のつながった方の妹』と紹介したので、嵐は起きなかった。ただ、彼女は真治のことを、ずっと『馬鹿兄貴』と呼んでいたので、無理もない。




 真治が中学生活の音楽活動で最も心に残っているのは、実は部活での出来事ではない。進級して新しい委員会活動が始まると、真治はまた『歌声委員』になった。

 男子で音楽活動をしているのは、五百人いる同級生でたった六人である。いずれも吹奏楽部員だ。それが十クラスに散っているのだから、クラスで男女一名づつを選ぶと、全員『歌声委員』に指名されて音楽室に戻って来る。

 委員は色々あるが『歌声委員』は新しい今月の歌を覚えて来て、指揮をしたりピアノ伴奏をしたりするのだ。進んで手をあげる者はおらず、男子全員から指名されて決定である。真治は『みんなカラオケは好きなのに』と思うのだが、それとこれとは違うようだ。

 こうして集まった『歌声委員』の初回会合は、毎月の全校朝礼で歌う曲の選定である。教壇には黒板の五線を無視して曲名が縦書きに記載され、その下に『正』の字がある。

 真治は頬杖を付いて今年の曲が決まって行くのを眺めていた。あまり興味もない様子だ。何しろ自分が提案した曲の下には『一』しかなく、淡々と集計が行われているからだ。委員一人一票で無記名投票された用紙を開票しているのは、合唱部を全国大会に連れて行った音楽教科主任の白鳥である。

 白鳥は素晴らしいソプラノ歌手であり、そして体も巨体であった。その白鳥が一枚づつ開票して読み上げ、合唱部部長の佐山が黒板に正の字を書いた。

「さて、これで全部ですね」

 白鳥が全ての紙を読み終わって言った。真治が提案した曲は、結局『一』のままだった。真治はへの字の口をして興味を失った。

「得票が多かった曲で決まりという訳ではありませんが、希望が多かった曲は入れましょうね」

 そう言って、人気の曲に当選の丸印を付けて行く。四月は新入生も来るし、練習もできないので『校歌』固定である。休みが多い三月と八月も無しだ。だから毎月の歌として選定されるのは、五月から七月、九月から二月までの九曲だ。白鳥は九つの丸印を付けると、チョークを置いて、手をパンパンと叩いた。

「さて、これで決まりと言いたい所ですが、問題はコレですね」

 そう言いながら白鳥は教壇の上を端まで歩いて行き、真治が投じた曲の所をバンと叩いた。

「ハレルヤコーラスを入れたのは誰ですか?」

 そう言って白鳥は右手をあげ、無記名投票なのに挙手を求めた。音楽室の中が少し騒めいた。

「私です」

 真治は手をあげた。白鳥は投票者が合唱部ではなく、吹奏楽部員だったのに驚いたのか、それとも変わり者のあいつかと思ったのかは判らない。

「理由を聞いても良いかしら?」

 笑顔で真治に聞いた。真治は立ち上がった。まさか理由を聞かれるなんて思っていなかった真治は、考えを纏めようとしていた。

「理由は幾つかあるんですが」

「全部お聞きします。どうぞ」

 白鳥は笑顔だった。少なくとも最上級生である真治が提案した理由を知りたかったようだ。

「えーっとですね。この歌の教本を毎年貰うのですが」

 そう言って真治は合唱に使われる教本を持ち上げて示した。白鳥は頷いた。

「最終ページに毎年載っているんですが、一度も歌われたことがありません」

「なるほど」

 白鳥は頷いた。真治は白鳥に質問した。

「この曲って、中学生には難しいのでしょうか?」

「そんなことはありません。中学生用の教本なのですから、中学生でも大丈夫です」

 白鳥は質問に答えた。しかし、その答えに真治は納得しなかった。

「長くて朝礼の時にはダメな感じなんでしょうか?」

「そんなことはありません。確かにページ数は多いですが、朝礼で歌えない長さではありませんよ」

 白鳥は真治に答えた。それでも真治は納得できなかった。

「だとしたら、これまで授業でも、朝礼でも、一度も歌われてこなかったのが不思議です。うちの学校は、合唱部は全国大会に出るし、吹奏楽部だって百人超えです。クラスにはピアノを弾ける女子が何人もいて、中学生には難しくないと言う。それで何故に歌えないのか謎です」

 白鳥は黙ってしまった。真治は言葉を続けた。

「兄に聞きましたが、高校や大学では合唱はしないそうです。となると、中学で歌うのが、殆どの人にとって、人生で最後の合唱になる訳です。そう思うと、歌謡曲とかコンクール用に作られた曲も良いのですが、誰もが知っている『合唱曲の名曲』を歌っても良いのではと思うのです。楽譜をコピーとかしなくても、ココに載っているのですから」

 白鳥は頷いた。真治の言葉はまだ止まらなかった。

「来年は新しい中学ができて、人数が半分とは行かないまでも、きっと今よりも少なくなってしまうでしょう。そうすると、千五百人の大合唱は、今年が最後です。私は、千五百人のハレルヤコーラスを、聞いてみたいです」

「歌いましょう! ハレルヤコーラス! 私も聞きたいです」

 返事が早い。白鳥は目を輝かせて言い切った。真治はもう一つお願いをした。

「せめて日本語歌詞でも良いので」

「いえ、原語の方で! カナ振ってありますから大丈夫です!」

 真治は喜んで着席した。白鳥はもっとうきうきとしていた。内定していた二曲を削除し『ハレルヤコーラス』の上に二重丸を付けた。誰も反対する者はいなかった。それで決定した。

 それから翌週の歌声委員会では、五月の歌を一回だけ練習した。毎年恒例の『翼をください』だ。そして、四月の終わりから五月にかけての歌声委員会では、六月と七月の歌になった『ハレルヤコーラス』の練習が始まった。男子の練習には吹奏楽部顧問の村田が張り付いて、ピアノを弾いてくれた。

 三週間目。歌声委員会で初めての合奏が行われた。村田によるピアノの伴奏が始まり、白鳥の指揮で合唱が行われた。合唱部に男子生徒はいなかったので、男子の混声合唱付きの楽曲は、白鳥にとって、久しぶりのことであった。

「素晴らしい! 素晴らしい!」

 歌い終わって余韻が残る中、白鳥が拍手をしていた。歌い終わった後も、心地よい余韻が音楽室を包んでいた。しかし、歌声委員の本当の闘いはここからである。歌声委員は自分達のクラスへ散って行った。

 二週間遅れて各クラスでのパート練習が始まった。こちらは歌声委員が耳コピーした結果を歌って伝えて行く。自分が歌を教えなければならないにも関わらず、ピアノ伴奏も覚えないといけない歌声委員は苦労したであろう。

 そして二週間の間、中学ではクラス毎の朝会、夕会で『合唱』というものが聞かれなくなった。全部の時間を費やしてパート練習をしていたからだ。毎日歌える小節を増やして行き、やっと最後のページまで辿り着いたクラスから、合唱が始まっていた。

 真治のクラスも最後まで辿り着き、夕会で初合唱が行われた。真治は初めてハレルヤコーラスの指揮をしたが、それは素晴らしいものだった。白鳥の気持ちが判った。それより何より、『合唱の名曲』を歌えたことが嬉しかったし、クラスメイトも楽しそうに歌っているのがもっと嬉しかった。

 音楽の授業も全てハレルヤコーラスの練習に注ぎ込んでいたが、誰も文句を言わず、全員暗譜するまで歌えるようになって、喜んでいた。そうして、六月最初の朝礼の日がやってきた。

 その日、体育館は全ての窓が閉じられ、カーテンも閉じられた。防音のためだ。校長の話も終わり、いよいよ『今月の歌・ハレルヤコーラス』が司会者から紹介されると、いつもは歌声委員が指揮をするのであるが、現れたのは白鳥と村田であった。村田はピアノに向かい、白鳥はいつも通り指揮棒を持たないスタイルでステージ中央に立った。そして大きく息を吸って両手をあげた。

 白鳥の右手がピアノから良く見えるように動き始めると、気合の入った、まるで一人オーケストラのようなピアノ伴奏が始まった。指揮をする白鳥もそうだが、村田も実に楽しんでいるようだ。白鳥が歌い始めの所で両手による指揮に変え、勢いよく振り下ろした。

 体育館には千五百名の男女がクラス毎に一列づつ並んでいた。立ち位置まで混声であったが、それを気にする者はいなかった。すざましいハレルヤの大合唱が炸裂し、白鳥の顔つきがたちまち歓喜に満ちた顔に変わったのが判った。とにかく大きな体で大きく指揮をする白鳥を見ながら、全員が練習した通り、暗譜したハレルヤコーラスを歌った。どこから沸き上がるのか、男女のメロディーが渦のように絡み合い、屋根を吹き飛ばしてもおかしくない渦となって、体育館全体を揺らしていた。カーテンの向こうにある窓ガラスが、ビリビリしていたに違いない。

 最後のハレルヤを歌い切った時、白鳥はほぼ万歳をしているかのようだった。体育館を揺らした千五百人の歌声は、しばらく行き場を失って渦巻いた。その余韻が消えた時、白鳥が『素晴らしい! ありがとう!』と何度も言いながら、一人拍手をしていた。生徒で拍手をする者はいない。実に静かだった。演奏会ではないからだ。まるでまだ余韻に浸っているようだった。真治も幸せな疲労感に包まれていた。きっと笑顔に違いなかった。それほど素晴らしい出来事だったのだ。

 しかしその瞬間は長い前振りであって、真治の一番記憶に残っていることではない。それは、時間的にもうちょっと後のことだ。

 朝礼が終わって教室へ戻るのに、教員が体育館の重たい鉄の扉を開けた。光が差して、新鮮な空気が入って来た。生徒達は名残惜しそうに体育館を後にして行く。真治のクラスも男子から退場して行く。回れ右して真治も後に続いた。

 だいぶ蒸している体育館を出ると、新鮮な空気と明るい光を浴びて陽気になったのか、前を歩く男子二人が肩を組み、組んでいない方の手を頭上で躍らせながら『キングオブキングス! アンド・ロードオブロード!』と、ハレルヤコーラスを歌い始めた。周りの男子がそれを見て笑っているが、歌を止める様子はない。やがて朝礼の為にしかれた木のスノコの上を『ダン』『ダン』と調子を取りつつ踏みつけ、下駄箱から校舎の中に入るまで男子パートのワンフレーズを歌って、笑いながら廊下を走って行った。

 その二人は音楽の授業の時に、まともに歌ったことがない。真治はその時初めて、音楽の素晴らしさを感じ、ハレルヤと思った。人は音楽で変わるのだ。




 三年になった真治はトランペットを真衣に譲ろうとしたが、最初は真衣に拒否された。仕方なく二人は何度も話し合って、交換することで決着したのだが、それでも真衣はなかなか交換に応じなかった。

 真衣は自分が吹いていたトランペットを、本当は誰が買ってくれたのかを知っていた。何故なら、買ったばかりのトランペットを真治に見せびらかす前に、真治がどんなトランペットなのかを知っていて、真治が使っている掃除用品を真衣のトランペットには絶対使ってはいけないと、きつく、きつく注意をしたからだ。

 それでも、最後は真治の『お祝いとしてあげる』の言葉を受け、交換に応じる決心をした。真衣だって、真治のトランペットを聞きたかったからだ。

 夏休みの練習が始まった日、音楽室の隅っこでこそこそ交換しようとした真治を、真衣はトランペットの仲間達の前に引きずり出した。そこで即席のトランペット交換式を挙行したのだ。

 仰々しくトランペットを交換する二人。訳も判らず足を止め、見守る仲間達。音楽室は全ての部員が見守る中、静かになった。

 真治から受け取ったトランペットを構えた真衣は、みんなの前でにっこり笑って言ったのだ。

『お父さんの遺品を託してくれてありがとう。お兄ちゃん!』

 そこで驚きの声が挙がった。そして思いっきり息を吸うと、兄譲りの爆音を出すと見せかけて、そっと吹いて皆を笑わせた。次に足元にあるマイトランペットをケースから出すと、変に色っぽく真治に差し出した。

『これ、やっすい奴だけど。私の初めて、あ・げ・る』

 また皆が笑っている中、そう言って真治にマイトランペットを渡した。音楽室に『ヒューヒュー』とか『犯罪者』とか、そういう声が飛び交った。受け取った真治が両手でマイトランペットを構え、それを見つめながら神妙な顔つきになった所で、真衣は両足を広げ、肘を曲げた両手を震わせながら、天井を向いた。そして、鳴りやまぬやじの中、大声で言い放った。

『私の為に買ってくれて、ありがとう! 楽しかったよ!』

 笑っていたみんなが一斉に真治を見て『おー』とか『優しい』とか言うと、真治は『馬鹿それを言うな』という顔をした。照れ臭くなって大きく息を吸うと、本家とばかりに爆音を響かせた。直前に真衣が上にあげた両手を耳にあて『耳を塞げ!』と叫んだので、鼓膜を破かれた者はいなかった。

 真治は三十秒間だけ、音楽室の真ん中で、今まで積み上げた技術の全てをマイトランペットに注ぎ込み、アドリブを吹いた。

『安いのでも、結構良い音するじゃん』

『魂だよ』

 真治は真衣に短く答えてにっこり笑い、マイトランペットを持って音楽室を出た。トランペット交換式を終えた真衣は席に着いた。これから選ばれし三十五名のコンクール練習が始まるからだ。

 村田は耳も塞がず二人の様子を暖かく見守っていたが、区切りのついた所で立ち上がると、笑顔から真剣な顔に変わった。今年の夏が始まったのだ。


 三年生で唯一コンクールメンバーから外れた真治は、もう屋上にはいない。一、二年生の指導と、村田が不在の時に指揮をした。マイトランペットは、時々吹いた。各パートを廻り、『こんな感じ』を表現する為だ。しかし一、二年生は、真治が指導を終えて見えなくなると口々に『無理』『真似できない』と言って溜息を付いた。



 香澄の家にもお邪魔した。基礎練習と、香澄にトランペットで歌を聴かせる為でもあるが、受験勉強の為でもあった。そして香澄の部屋で、香澄が昨日書いた交換日記を読み、その日の分の交換日記を書かされた。

 調べてから答えるような難しい質問をされても、それには答えられない真治は、苦し紛れに猫の絵を書いて、トランペットを吹かせたり、飛んだり跳ねたりさせたのだが、香澄がそれを気に入って毎回書かされた。

 桃の花が満開になった日。久し振りにカーテンを開け、窓も開けた。香澄は風を感じた。あの時と違い香澄と真治は、同じ窓から桃木を眺めていた。初めての『桃花の記憶』は遠い昔の『にほひ淡し』となり、二人の思い出だ。やがて再びカーテンが閉じられると、二人はそれを、鮮やかな『桃花の記憶』で上書きした。南からの東風が桃木を揺らした後、カーテンも揺らしていた。窓辺の二人はそれに気が付きもせず、お互いすらも眺めてはいなかった。

 香澄は真治の許可を得て、一人でピアノを弾く時はトランペットを隣に飾り、毎晩トランペットを抱いて寝た。ウォークイン・クローゼットには、世にも珍しいトランペット用の寝間着があったのであるが、入り口には当然、レーザービームがセットされていた。香澄は夢の世界でだけ、何度も真治と結ばれた。

 六月も終わり頃になると、香澄は姉になった。目を細くして、赤子の面倒をみる香澄と真治を眺めていると、恵子は自分が、お婆さんになったと錯覚した。


 音楽ノートに作曲も始めた。真治がメロディーを歌ったり、人差し指でピアノをつついて出した音を、五線紙に泳がせて行く。ページの一番上の段だけを使い、そこにトリガーとなる旋律を書いた。それを香澄がゆっくりと弾きながら、真治が次のメロディーを弾くと、それを香澄が弾いて覚え、二人でおたまじゃくしを生み出して行った。

 調子に乗った二人はスコアの如く、一ページ十段に別々のメロディーを重ねて行った。それはたった四ページ一六小節の曲であったが、全員が別々のメロディーを奏でるはずの曲となった。真治は正に七転八倒してメロディーを叩きだしたのだ。

 香澄はそれを十枚の楽譜にして部活の練習に持って行き、休憩時間になるとクラリネットの仲間達に一枚づつ渡し、演奏を試みた。真治が指揮をして曲が始まると、それはとても酷いものだった。全員で笑った。やはり無理は良くなかった。試しに半分の五人で演奏すると、それは美しいメロディーになった。みんなで手を叩き合って喜んだ。香澄と真治は互いの右手をパチンとやって、喜んだ。

 そこにトイレから帰って来た村田が現れ、不思議なメロディーを聞いて、ふらりと教室に入って来た。香澄は十枚の楽譜を見せ、五枚までは上手く行ったと伝えると、村田は面白がってそれを覗き込み、手に持っていた赤ペンでちょいちょいと修正して返した。クラリネットの一同は、それを受け取ると、もう一度演奏してみた。

 複雑に絡み合う旋律は、奏者も目を丸くし、それはそれは不思議な、もう奇跡と言っても良いメロディーになって、教室に響いた。演奏が終わると一同は真治に向かって惜しみない拍手を送った。真治は村田に深々と頭を下げ『ありがとうございます』と言った。村田も最初は『いや、大したことないよ。でも凄いな』と褒めていたのだが、真治が『いやいや、凄くないですよ。ほぼ徹夜で、二週間もかかりましたから』と告げると『勉強しろ!』と笑いながら怒り出し、真治にヘッドロックを決めた後、楽譜を没収して行った。

 それから真治は、卒業まで作曲禁止になった。



 卒業式の一週間前、最後の全校朝礼で離任する教員の名前が発表された。その中に合唱部顧問白鳥の名前があった。合唱部の部員達は泣いていた。花束を渡すために現れたのは、来年度から音楽教科主任になる村田だった。ステージ中央に立つ白鳥に花束を渡すと、拍手の中、生徒の方に向くと右手をステージ袖にあるピアノに向かって振り始めた。

 全校生徒はその前奏に聞き覚えがあった。にっこり笑って指揮をする村田が歌い出しで強く両手を振り下ろすと『ハレルヤ!』の大合唱が始まった。村田はしばらく指揮をしていたが、目で白鳥に合図を送り、手に持った花束を半ば奪い取るように預かると、意図を理解した白鳥は、涙も拭けぬまま指揮を引き継いだ。そして最後まで演奏が終わり、両の手をほぼ万歳に近い状態で広げて歌い終わると、全校生徒から惜しみない拍手が送られた。再び花束を持たされて白鳥がお礼を言ったかもしれないが、鳴り止まぬより大きな拍手によって全て掻き消された。

 全校生徒の退場が始まったが、合唱部だけが退場する人の波を掻き分け、白鳥の周りに集まって泣いていた。多分、野球部だったら監督の胴上げをする所なのかもしれないが、傍目にも無理と判った。



 その日は吹奏楽部でもお別れ会があった。二月も中旬から三年生は既に登校しておらず、今日が卒業式前最後の登校だったのだ。三年生全員がいなくなり、残る一、二年生も半分が新しい学校に通うことが決まっていた。

 真治も香澄も、そして真衣もこの学校を去る。今日でこの音楽室ともお別れである。部員全員で合奏が行われ、笑って解団となった。

 後片付けが終わった音楽室では、教壇にあるピアノの周りにピアニストが集まって、交代でピアノを弾いていた。日はまだ高いし、まだ音楽室にいたかったのもあるだろう。

 そんな部員達に、村田は『早く帰れよ』と笑って言い残し、真治を連れて音楽室を出た。没収した十枚の楽譜を返す為だ。真治はすっかり忘れていたようで、村田の後に続いた。

 真治と一緒に帰るつもりでいた香澄は、そのまま机の上に座って、遠巻きにピアノを眺めながら、真治が戻って来るのを待っていた。真衣は演者の左側に陣取って次に弾く人を指名して仕切っており、何人かの後、机の上に座って拍手をする香澄に気が付いた。

 真衣が香澄に来るように言ったが、香澄は遠慮して手を振ると机から飛び降りて逃げ出そうとした。しかし、クラリネットの仲間達に捕まって、ピアノの前まで連れてこられ、椅子に座らされた。

 香澄は高校の特待生を目指してコンクール用の曲を練習していたので、それを披露した。香澄のピアノを聞いた部員達は驚いた。特に驚いたのは、香澄と同じクラスの歌声委員であろう。ピアノが弾ける吹奏楽部員ということで指名されたのに、明らかに常軌を逸した腕前の持ち主が目の前に現れたからだ。

 その辺は真衣が香澄の気の小ささをアピールし、ことなきを得た。香澄はほっとしていた。そこに音楽室の建て付けの悪い扉を開けようとする音がして、真衣は香澄をピアノの下に潜るように言って、急かせた。香澄は訳も判らずピアノの下に隠れた。

 扉を開けて入って来たのは、楽譜を返してもらい、香澄と一緒に下校しようと音楽室に帰って来た真治だった。真衣が真治を指さしてピアノを弾くように言うと、ピアノの周りにいた部員達が驚いた。まぁ、指揮もしていたし、ピアノ位弾くんだろうと思う部員達が半分。残りの半分は『へー意外』だった。

 しかし、真治は例によって『好きな人の為にしか弾かない』と言ってのけ、右手を振って断ると、香澄を探した。一同『オー』と言ったが、ピアノの下にいる香澄のことは、誰も内緒にしていた。

 食い下がる真衣が、今度は自分を指さして『ライク! ライク!』と真治を挑発した。真治の顔が曇った。確かに『好き』は『ライク』でも表せる。納得した真治は、やっぱりどこか抜けている。溜息をすると渋い顔をしてピアノに向かった。

 苦虫をかみ殺したような顔をした真治だったが、それでもピアノに正対すると顔つきが変わった。一同シンとなって固唾を呑んだ。目を開けた真治が静かに演奏を始めた。それは左手のドミソミドソミソから始まる曲だった。

 右手の旋律が始まろうとした時だった。真衣が真治に抱き着き『それはダメだよ』と言いながら左手で真治の左手に触れ、演奏を止めさせた。驚いた真治は椅子の右から転げ落ち、ステージ上でワンバウンドした後、さらにその下まで転げ落ちた。ピアノの周りから一斉に笑い声が起きた。

 顔を真っ赤にした真治は、起き上がると、並べた机にぶつかりながら走り出し、迂回して階段を使うことなく真っすぐ進むと、普段はトロンボーンが陣取っている最高段から出口に向かって飛び降り、勢いよく開けたドアを閉めることもなく、そのまま音楽室を飛び出して行った。


 ピアノの下にいた香澄は『愛のオルゴール』が始まったと思ったら、真治が椅子から落ちて来て目が合った。そして更に下まで落ちて行く真治に手を差し出したが、届かない。いつものことだった。頭に衝撃が走る。それでも痛みを堪えて転がり続け、自分もステージから転げ落ちると、真治と同じように音楽室を真っ直ぐに突っ切って、そのまま飛び出して行った。

 部員が言っている言葉は、何も聞こえなかった。ただ真治を探した。しかし、真治はもう、どこにもいなかった。教室にも、屋上にも、図書室にも。真治と過ごした場所は、全部探した。最後に下駄箱へ行くと、いつもあったはずの、黒い傘が、なくなっている。

 香澄は、眼前に真治を見つけた。右手に傘を持ち、緊張しつつも優しい笑顔で振り返った。やっと見つけた!

 香澄は嬉しくなり、髪が水平になる程の勢いで飛び出した。真治と一緒に買った髪留めが壊れて弾け飛ぶ。それでも腕を振り、髪をなびかせながら、上履きのまま『ダン』『ダン』『ダン』とスノコを蹴って、愛しい真治と傘に向かって、走った。

 だが、そこに真治はおらず、傘もなかった。

 そのまま校舎を飛び出した香澄は、春の穏やかな光を浴びながら、滝のような雨に、打たれていた。



 卒業式で香澄は、約束していた真治の第二ボタンを、貰えなかった。そして、翌日に降った季節外れの大雪の日、香澄は転んで骨折し、ピアノコンクールを辞退した。


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