最後の『一枚』
十一月七日(月)
もうすぐこの日記も終わりですね。あんなに分厚かったのにもう終わってしまうとは。手元にある時は今までの出来事を読んで、楽しんでいますが、真治さんの方にある時は、何もできなくて、とても寂しいです。
十一月八日(火)
そうですね。始めた当初は正直恥ずかしかったし、どこまで続くのかと思っていましたが、何だか今では習慣になっていて、香澄さんの返事が待ち遠しいです。電話とも手紙とも違い、一枚の紙を二人で分け合って書いているのが何だか素敵に思えます。
十一月九日(水)
あとちょっとで終わってしまうので、寂しいです。もっと書きたいな。
十一月十日(木)
そうですね。次も同じのにします?
十一月十一日(金)
お小遣いが厳しいので、普通のでも良いかなと思います。
十一月十二日(土)そうなると鍵がかからないけど、良いのですか?
十一月十二日(土)良いです。
十一月十二日(土)えー、ちょっと恥ずかしいですよ。
十一月十二日(土)家に届けてくれれば大丈夫です。
十一月十二日(土)えー、判りました。
十一月十二日(土)できれば家で書いてから帰って下さい。
十一月十二日(土)全然交換日記になってないと思います。
十一月十二日(土)ずっと手元に置いておきたいので。
十一月十二日(土)私の寂しさはどうすれば良いのでしょうか。
十一月十二日(土)「二人の関係を壊したくないのでお答えできません」
十一月十二日(土)良く判りました。何とかします。
十一月十二日(土)ありがとうございます。約束しました。嬉しいな。
十一月十二日(土)えー、ところで、行がもったいないと思います
十一月十二日(土)普通に会話しましょうか?
十一月十二日(土)そうですね。そうしましょう。
十一月十二日(土)最後の行を書くのは真治さん!
十一月十三日(日)この交換日記で、香澄さんと気持ちの交換ができて、本当に楽しかったです。ありがとうございます。
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さて、最後の一枚に入りました。思い切って私の想いを綴りましょう。
まず、先日の作曲ノートを見せてくれたとき、色々質問してくれたのに、全然答えられなくてごめんなさい。香澄さんの評価、とても嬉しかったのと、それ以上に恥ずかしかったので、固まっていました。
昔話になってしまうのですが、私と真衣がまだ家族だった時の家は、香澄さんが今住んでいる所でした。そこで音楽漬けの生活を送っていた私は、ある日突然、三千枚のレコードと、数百本のカセットテープと、ステレオと、全ての楽譜と、そして図書館のような音楽書籍を失いました。それだけでなく、父も、残された家族も、住み慣れた家も失いました。弾き放題だった大好きなピアノも失い、残されたのは、吹いたこともないトランペットと、絶望だけでした。
あの時、私の音楽人生は、確かに終わったのです。
庭の桃木は真衣の誕生を祝って植えたもので、アルバムに家族全員で桃木を囲んで撮った写真があります。手元にはないので、お見せできませんが。
家を取り壊すとき、私は桃木も切られてしまうのではと思い、工事の人に残してくれるようにお願いしに行きました。それは真衣の木だから、という想いもありましたが、同じ小野寺だった家族が、生きている中で、私以外全員、違う苗字になってしまったのがショックで、最後に残った桃木まで無くなってしまったら、もう何も残らないと思っていたのです。でも、声をかけられませんでした。『残してくれ』の一言が言えませんでした。
そんな時、ある人が私に声をかけてくれました。トランペットケースを持って、桃木をずっと見ていたので、心配してくれたのかもしれません。そこで、その人に理由を説明したら、桃木を残してくれる約束をしてくれたのです。凄く嬉しかったのを覚えています。神だと思いました。
しかし、その人はちょっと腐り気味の私に気が付いたのか、自分も音楽家であると前置きした上で、厳しい言葉も頂きました。
『音楽家なら、辛いことも悲しいことも、音楽に向き合い越えて行け。幸せをより大きくするか、悲しいことをより悲しくするか、それは自分の気持ち次第だ。その気持ちを楽譜にして残せ。きっと自分の財産になるだろう』
そしてその人は、一枚の写真を見せてくれました。そこに写っていたのは、青いドレス姿のとても可愛らしい女の子でした。私には神の子であり、とても神々しく見えました。そして図々しくも、一目で好きになってしまったのです。
そこからもう一度、私の音楽は始まりました。音楽はレコードではなく、心の中にありました。その人に言われた通り、自分の心と向き合いました。そして作曲をして、辛かった日々を乗り越えました。香澄さんの評価通り、最初に作ったのは世間への恨み辛みを書いたものですが、直ぐにそれは、他愛のない出来事に思えました。世の中には、もっと辛いことがあると判ったからです。
それから私は、心のままに初恋の神の子の為に曲を作りました。一緒になれることを夢見て、詩も書きました。誰も見ないと思っていたので、今から思うと、とても恥ずかしいことも書きました。それを香澄さんが読んでいて、楽しみにしていたなんて、本当に知りませんでした。もし、あの頃の自分に出会ったなら、もうちょっとオブラートに包めと、言っておきます。
桃が花開いた日、聞いたこともない、美しく優しいメロディーが聴こえて来て、夢中で写譜していました。そして見上げた時、正にそこに、一凛のバラが咲いていたのです。今でもはっきりと覚えています。バラは一番好きな花です。忘れるはずがありません。後日曲名を知り、納得しました。
最後の終業式の日、真衣に今日でお別れだと告げる為に音楽室で待っていました。しかし真衣は来ず、来たのは神の子でした。私は一枚の写真で恋に落ちるような人間です。名も知らぬ神の子に捧げようと練習していた曲を演奏中に、神の子が降臨し、私に触れたのです。あの時は、驚いて逃げてしまいごめんなさい。それから後に、神の子の名前が『香澄』であると知りました。
何度も声をかけようと思いましたが、どうしても私にはできませんでした。香澄さんの方から何度も私に話しかけようとしてくれていたのに、それでも答えることができず、本当にごめんなさい。
同じ傘で帰った日、香澄さんの下駄箱はあそこじゃなかったですよね。待っていてくれてありがとう。何て言って同じ傘で帰ることになったのか、緊張していたので何も覚えていませんが、全部そこから始まった気がします。
今まで私は香澄さんに『好きだ』とはお伝えしてきましたが『愛している』とは言えませんでした。愛には賞味期限があるとか、小難しいことを色々考えていて、この先を考えると、とても怖かったんです。でもそれは結局の所、全部言訳であると気が付きました。香澄さんの真っすぐな気持ちのお陰です。
私を想って流してくれた涙は生涯忘れません。何度も泣かせてしまいごめんなさい。そして、ありがとうございます。
日記を施錠する前に、必ずこのページは切り取って下さい。将来結婚して、この日記を私が解錠し、確かに切り取られていましたなら、鍵を預け、死ぬまで毎日愛の言葉を伝えましょう。たまには曲も作りましょう。
それと、歴代のデート服は保存しておいて下さい。デートの続きは結婚してからにしましょうね。約束が守られなかった時は、そうですね。その時は、香澄さんが私にしてくれた色々なことを本にしましょうね。
いつまでも香澄さんだけに、変わらぬ愛を誓って。 小野寺真治
香澄は日記を閉じると立ち上がった。そしていつものように施錠せず、机上に放置したまま自室を飛び出す。階段を駆け降りて、台所にいる恵子の所に駆け付けた。恵子は香澄の足音で何を伝えに来たのか判る。
「お母さん! お父さん! 今! どこにいるの!」
男絡みだとは思っていたが、声のトーンが違って、それは新しいタイプの質問だった。振り返って香澄を見る。
「ドイツよ? ちょっと、どうしたの! 顔、真っ赤じゃない! 熱あるの?」
恵子の心配は両手を振って跳ね退ける。もっと切実なようだ。
「確認したいことがあるの! 電話番号教えて!」
香澄は恵子の質問を無視して別の質問を返す。エアメールではなく、国際電話ですか。恵子は時計を見る。そして文字盤を指さして、時差を計算した。
「ドイツは今お昼過ぎだから、家にはいないわよ?」
「あ、そうかぁ」
香澄の目がちょっと冷静になり、右手でポンする。今度はその手を腰に当てて聞いてきた。
「お父さんって、私の写真、持っているの?」
今更な質問に、恵子は笑って答える。
「持っているわよ? もう大分前から」
「どんな写真?」
香澄は食いつくように聞いた。恵子はそれが圭太に確認したい内容だったのかと理解した。不思議に思いながら答える。
「花火の時の、浴衣姿よ?」
「そーのーまえっ!」
恵子はそんなことを知っている訳がないと思った。国際電話の出番か?
「その前? んー。あぁ、あれじゃないかしら?」
恵子は浴衣姿の写真ができ上がった時、写真を入れ替えていたのを思い出した。そして、圭太がその写真をどこに置いていたか。
「ベッドサイドに、飾っていたような? 違ったかしら?」
香澄は台所を飛び出した。きっと見つからなかったら、また飛んで来るに違いない。恵子はその後ろ姿を笑いながら見送った。
「かわいい写真でしたよー」
香澄はドイツにいた時は、本当に明るい子だった。写真に写る時は、いっつもふざけて変顔をして、圭太も恵子も困ったものだ。フィルムを無駄にしつつも、何とか娘のかわいい姿を撮ろうとする圭太の姿を思い出し、恵子は笑ってしまった。
圭太が持っていた写真は、イングランドへ出かけた時に、香澄に『緑のドレス』を着せて撮ったものだ。当時の香澄は、その意味を理解していなかっただろうが、寒かったのか、つまらなかったのか、ちょっと斜に構え、女として奇跡の一枚を残したのであった。
「呪いは解けたのかしら?」
思い出して恵子は再び笑った。圭太は言っていた。
『グリーンスリーブスにあやかって、虫が付かない写真を撮って来た。どやー』
『どやー』じゃない。この馬鹿たれが。圭太が『緑色の服』の寓意を知らないはずもなく、恵子は自分の娘になんてことと怒ったが『男が振られるなら良いのさ』と言っていた。そして嬉しそうにしていた。恵子は呆れたものだ。
本当に効果はてきめんで、香澄に本気で惚れる男はいなかった。逆にちゃらちゃらした男は、香澄が速攻で袖にした。だから、確かにそれを見て、恋に落ちる間抜けはいないだろう。と、思ったし、いやもう、万が一にも真治がそれを見ていたらと思うと、今更にゾッとする。早目に交換して正解だ。
しかし、それが今度は、浴衣という『蒸し風呂着衣』に交換したのだ。どういう願いが込められているのか。まったく。まあ、多分、考え過ぎだろう。
普段は入らない親の寝室で家探しをするのは気が引ける。と思っていたら大間違いだ。今の香澄はそんなことは気にしていられない。泥棒の仕業と思われたって構わないつもりだ。しかし、電気を付けると、目的のそれは直ぐに見つかった。父親が使っているベッドサイドに、小さな額に入れられて飾られていたからだ。香澄は走り寄って、それを手に取った。
そこに写っているのは確かに自分であると香澄は思ったが、全く記憶にない写真であった。しかし意味は判った。よりによってこんな写真を、そこら中に見せびらかすなんて。父を叱り付ける手紙を構想したが、引き裂いて捨てた。
真治がこの写真を見ても、まったくの無害であると判ったからだ。『グリーンスリーブス』が叶わぬ恋の歌であることは、もう絶対に言えない。それに真治は、色盲なのか『緑』を『青』と言う。『緑色の服』が屋外で致す『ふしだらな奴』という寓意も知らないだろう。まぁ、それは良しとして、それより何より、変顔ではなくてホッとした。むしろこの写真を見て、真治が一目惚れしたと言うならば、満更でもないなと思い、安心した。
香澄はちょこんとベッドに座り、写真と同じ格好、同じ顔をして存在しないカメラを見た。そして、レンズの先にあるカメラマンを想像し、ちょっと挑発した。きっとカメラを放り投げ、自分を襲いに来るに違いない。
一人奇声をあげた。ベットに勢い良く寝っ転がり、何度かバウンドした後、天井を見た。目を瞑り体の力を抜いたが、何が起きるはずもない。下唇を噛んで笑いながら起きると、写真を倒して戻し、大人の部屋を出た。
香澄は自室に戻って来た。扉を閉め机に座ると、書き損じの紙を下敷き代わりにして日記の『切り取り線』の下に充てると、カッターでゆっくりカットした。そして、日記を閉じると施錠し、胸に抱えてしばし温める。
今でも鮮明に思い出す、初めて日記を買いに行ったあの日のことを。前の週に真衣に言われて買った日傘は、やはり必須であった。あの日傘がなければ、腕を組んで歩くなんて、とてもできなかった。真治の言う通りハイヒールを履き替えたのもそうだ。真衣の家を往復しただけで足が痛くなった。履き替えていなかったら、あんなに楽しく歩けなかっただろう。
そもそも時間を約束しただけで、集合場所も決めておらず、連絡先も、家の住所さえ教えていないのに、真治は約束の時間通りに自宅へ来てくれた。前の日からただ嬉しいだけで、全く気が付いていなかった。あのままピアノを弾き続けて、きっと気が付かず泣いていただろう。何で気が付かなかったんだろう。
そんな私と真治は沢山約束をしてくれた。夫婦茶碗は割れても泣かなければ買って良い。普段の食事は春の字が付く箸に、箸置き。あのぐるぐる猫、お揃いで二個、買って置けば良かった。お正月は輪島塗の箸に、地味な箸置き。大人になったら、しゃぶしゃぶに連れて行ってくれる。味付けはごまだれ。あぁ、服は本当に同じでも喜んでくれた。嬉しかったなぁ。手もつないでくれたし。
最後に楽器屋さんへ行ったのも、全部私のためだ。次の練習曲を聞いて、買わせようとして、説明して、疑問に思わせて、お母さんに質問させた。あの日から、お母さんは私を『さん付け』で呼んでくれるようになった。ピアニストとして認めてくれた気がする。嬉しい。凄く嬉しい。だから一生懸命練習して、楽譜を買いに行けた。あぁ、約束してからの一週間、ずっとドキドキしてた。
そうだ。バラ三が弾けるなら『子犬のワルツ』だって弾けるだろうと踏んだに違いない。そうでなければ、きっと、唯一私の演奏を聴いた『荒野のバラ』をリクエストした筈だ。抜け目がないのは真治らしい。今度弾いてあげよっと。
帰りの電車で、真治の人生は絶対向こう側の電車みたいなんだろうなぁ、と思っていた。今でもそうだ。真治にはいっつも手が届かない。真面目な問いに、あんな馬鹿みたいな答えをしたから、真治はしばらく固まっていた。驚いた。怖かった。全部崩れ落ちるかと思った。でも真治は、笑ってこちら側の電車に帰って来てくれた。ありがとう。あの時は、本当に、生きた心地がしなかった。
文化祭の帰り、バラのトンネルで遂に髪をバサっとした。真治の前で初めてだ。振り返るのと同時に左手一本で後ろ手にされ、なすすべなく唇を奪われた。花火の夜、髪に触れられただけで全身に電流が走り、驚いたのに、あの日は右手で上から下まで、何度も何度も髪を撫でられ続けた。その間、ずっと電流が全身を巡り、痺れた。あえぎ声も、全部飲み込まれて、完全に落ちた。それでも、崩れ落ちることすら許して貰えず、膝を重ねて立っているのがやっと。
立ち竦む私に『戸締り用心、火の用心』と言い残して真治は帰った。バラのトンネルで、初めて真治を見送った。母もいない一人の夜、ずっと起きていた。
そうだ、この日記もトリガーなのだ。これを見れば、楽しかった日々を詳細に思い出せる。あぁ、書かなかった日のことも、はっきりと思い出せる。英語の問題で真治の困った顔、面白かったなぁ。ごめんね。期末試験なのに、何で体操服持って来ていたんだろう。あれは本当に笑った。あんなに笑ったことも、駄々を捏ねたことも。そして、嬉しかったことも。私も、愛しているよ。真治。
目を開けて微笑むと、日記を引き出しの奥の奥の奥にしまって施錠した。
大きく息を吐いた。机に残された交換日記の最後の一枚を取り上げ、何度も読んだ。椅子から立ち上がり、クルクルと回り踊りながらヒラヒラさせた。そして、そのページの端と端を持ち、左足で勢いを付け、一気に破こうとして躊躇い、またその場で立ち竦んで読んだ。
照れてまた踊り、破こうとして止めて、また読んで、を繰り返した。何回目かの読みになった時、香澄は気が付いた。『切り取れ』とは書いてあるが、それを『破棄せよ』『焼却せよ』『破断せよ』『溶解せよ』のいずれも記載されていないではないか。
真治のミスなのか、それともやさしさなのかを考える程、香澄は冷静ではなかった。目を垂らし唇を尖らせて悪戯っぽい笑顔になると、首を振って鼻歌を歌いながら、最後の一ページを小さく折り畳んだ。
香澄には判った。あのとき真治は、なぜ何も言ってくれなかったのか。その後もずっと考えていて、不安だった。しかし、判った。言えなかったのだ。
真治が言う『好き』はあくまでも『好み』を伝えているだけ。ずっとそう感じていた。それが、形のない『愛』を形にしてくれた。もう二度とないかもしれない。それも判る。だって真治は、とても気が小さい人だから。私もだけど。
香澄は、段々と笑顔から真剣な表情に変えながら、隠す場所をキョロキョロ探し始めた。やがて頷くと、パッと満面の笑顔になった。ここしかないという、相応しい場所を見つけたのだ。
紙が湿らないようにそっとキスをして、今はまだ空箱のそれに、隠した。




