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香澄の涙

 恵子は受話器を置いた。そして鼻歌を歌いながら冷凍庫の前にやってくると、引き出しを開けた。中には多種多様の冷凍食品が用意されている。

 その中から冷凍餃子を取り出すと、引き出しを閉じた。説明書を読みながら皿を出し、中身を出して並べる。次に電子レンジに入れ、また説明書を見た。

 五分にセットしてスタートボタンを押し、電子レンジの内部が光って、皿が回り始める。恵子はこれでどうして温まるのか不思議であった。

 かすかに聞こえて来たピアノの調べは『主よ、人の望みの喜びよ』だ。

「ほら、練習しておいて良かったでしょ」

 直ぐに判った。天井を見上げて恵子は呟き、笑った。まだ小さかった香澄が一オクターブ指が届くようになってから、練習した曲だからだ。

 恵子は心のボリュームを最大にして、香澄のピアノを聞く。それはいつもとは違う感じの、安らかな感謝に満ちた祈りにも感じられた。恵子はドイツの教会を思い出す。素晴らしい。日々の練習の成果が、さらなる自由を得たに違いない。曲の最後に合わせて、右手の人差し指で三角形を描き『ララララー』と締めくくり、小さく拍手した。そして電子レンジを覗き込んだ瞬間だった。

『し・ん・じ・さ・ん! 起・き・て!』

 恵子は心のボリュームを最大にしていたので、飛び上がって驚いた。今まで聞いたことのない香澄の叫び声だ。咄嗟に、台所を飛び出した。

『イ・ィ・ィ・ヤ・ァ・ア・ァ・ア・ァ・ア・ア・ア!』

 金切り声が恵子の全身を突き抜ける。こんな経験は初めてだ。香澄の声なのかも自信がない。どんな顔をして、そんな奇声をあげているのか。想像もできない。いや、そんな想像をする余裕もない。それでもそれは、女として見栄も外聞もなく、ただ、絶望だけが、感じられる。

 恵子は恐怖した。スリッパを飛ばしながら階段を駆け上がり、腕を振って廊下を走ると、ノックもせず、香澄の部屋のドアを開ける。

 見慣れた部屋は、地獄に変わっていた。そこには奇声をあげ、左手で真治を揺らしつつ、自分の髪も振り乱しながら、右手で真治の顔を平手打ちし続ける香澄の姿があった。間に合わなかった。もう、壊れている。それでも恵子は叫んだ。何も考えられない。

「香・澄! 何・や・っ・て・る・の!」

 平手打ちを止めない。狂ってしまった。よく見ると、真治の腕が動いている。しかし、香澄は自分で揺らしているからだと思うのか、気が付かない。

「香・澄!」

 恵子は香澄に半ば飛び掛かり、右手を掴んだ。凄い力だと思ったが、恵子も必死だ。香澄は左手が疲れたのか、それとも、顔を真っ赤にした真治と目が合ったのか、動きが止まる。恵子も右手の力が抜けたのを感じたので、香澄の右手を離した。

 香澄は真治に抱き着いた。そして『良かった』と一言だけ発し、あとはまた声にならない声で、泣くばかりだ。

 恵子は真治の顔を見たが、真治も驚くばかりで固まっている。恵子は何だか力が抜けた。香澄の背中から近付き、両手で香澄の両肩を抱きしめる。

「大丈夫よ。真治さん起きてるじゃない」

 そう言って揺すると、香澄は真治から離れた。香澄は自分の顔を真治が見ていると気が付くと、くるりと向きを変え、恵子の方に抱き着いた。

「ごめんなさいね」

「いえいえ」

 恵子が真治に言うと、真治もやっと答えた。恵子は香澄の頭を撫でながら大丈夫大丈夫と声をかけると、香澄が深呼吸しているのが判った。

「大丈夫。真治さんが死んじゃったかと思って、びっくりしただけ」

 香澄が答える。最後の方はちょっと笑っているようにも聞こえた。恵子は香澄の顔を覗き込んだ。泣いた後に無理に笑う顔だった。女心に酷い顔と思った。

「あなた、そんな顔していると、真治さんに嫌われますよ?」

「おかぁあさーん」

 香澄はいつものように文句を言ったが、再び恵子の胸に顔を埋めてしまう。恵子は困った顔をするしかない。

「すいません。私がうつ伏せで寝ていたもんですから」

 真治がそう言うと、右手で頭を掻いた。良く見るとおでこの所に跡がある。恵子は溜息をついた。

「もう。真治さんお疲れって貴方が言っていたのに、貴方が驚かせてどうするの。ねぇ」

「すいません。泣かせてしまいまして」

 真治が謝った。恵子は右手を振りながら答える。真治は大丈夫そうだ。

「いえいえ。すいませんね。この子、すぐ勘違いするし、あわてんぼうなんで。ほら、香澄、真治さん謝ってらっしゃるじゃない。あなたは?」

 そう言って香澄の両肩を持って胸から引き離し、香澄の顔を覗き込む。香澄の顔は、照れ臭い状態まで回復している。恵子は香澄の肩を押して真治の方を向くように仕向けると、香澄は自力で姿勢を変えた。

「驚かしてごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げる。そして、もう少し自分の顔を隠そうと恵子に抱き着こうとしたが、恵子はもう立ち上がっていた。香澄は、恨めしそうに恵子の顔を見上げる。

「ああ、もう。抱き着くなら、向こうでしょ」

 恵子は香澄を見ながら右手の平で空を指す。香澄はその方向見た。そこにはポカンとした顔の真治がいて、右手の人差し指を『俺?』と自分に向けている。香澄はもう一度恵子の方に振り返ると、目を合わせた恵子が苦虫を潰すような顔で『早く行け』と言わんや、腰の辺りで左手の先を下に向けて、パタパタと振っている。

 香澄が真治の胸に、勢い良く飛び込んだ。真治の顔が今まで見せていた大人の表情から、見たことのない子供の無邪気な笑顔と、驚きの表情に変わったのを見て、恵子は部屋を出た。扉は馬鹿らしいので、開けっ放しだ。

 後ろから『おかぁさん』という真治の声が聞こえたが、クスッと笑って無視する。まったく。冗談じゃない。その後に『電話お借りします』という声がして、それには『はいどうぞ』と答えた。

 恵子は階段を降りる時に振り返った。香澄の部屋からは『香澄さん、ちょっと、ちょっと』という真治の声と『もうちょっと良いじゃない』という香澄の声が聞こえて来る。

 子犬がじゃれるには大きなドスンドスンという音と、ちゃぶ台にどこか当たったのか『いてー』という真治の声と、反省する様子のない明るい『ごめんなさい』の香澄の声がする。あぁ、もう大丈夫だろう。

 恵子は溜息をつき、両手の平を肩まであげて階段を降り始める。そしてスリッパを回収しながら思う。さっき自分は、何を思いながら階段を登ったのだろうか。香澄の心配はした。真っ先にだ。扉を開けるのが恐ろしかった。

 日本に帰って来た頃、学校から虚ろな目で帰って来た。一緒にピアノを弾こうと話しかけても、無理にでも笑って階段を登って行き、二階のピアノを一人で弾いた。そうすることで母親に頼ることもなく、自分の力で立ち上がることができた。感心した。とても、強い子だと思っていた。

 そんな香澄がぶっ壊れた。思い出しても恐ろしい。自分は一体、香澄の何を判っていたのだろう。ドアをどうやって開けたのかも覚えていない。圭太の顔が浮かんで、それも怖かった。何故か真治の心配はせず、怒りと嫉妬の感情だけがあった。冷静になると、そんな自分が、なんて恐ろしく冷たい人間なのかと絶望し、会ったこともない真治の母親に、無性に申し訳なく思った。

『お嬢さんお預かりします』

 子供の癖に、いつもそう言って目だけ緊張させながら出かける、真治の姿を思い出す。遅れませながら真治にも、申し訳なかった感情が芽生える。そうだ、今、自分は真治を預かっているのだ。自分って何なんだろう。悲しい。

 真治を失った香澄を自分が守れるのかを考えたが、呼吸が速くなり、ぞっとするだけで、答えなんて出ない。階段の踊り場で、もう一度見上げた。

「無理」

 恵子は呟いた。何が無理なのか、そこまでは悔しくて、言えなかった。


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