真治のリクエスト
ちゃぶ台に戻りもう一度麦茶を飲んで、真治と香澄は一息付いていた。そこに今度は、香澄が思い出したように言う。
「指揮、凄かったです。先生みたいで」
「いやー、全然だよ。言いたいことの三割も言えてないよ」
「えー、ということは、演奏が、まだまだって、ことですか?」
「うん。全然だめだね。指揮者の場所って、当たり前だけど凄く良く聞こえるんだよ。一人一人の演奏がね。で、ですね『あ、こいつ話聞いてねぇ』とか『今、音外した』とか全部聞こえるし、判るんですよー」
「そうなんですか!」
「残念ながら、その度に合奏を止めて『今間違えましたよね』って個人攻撃してもさ、どうにもならないじゃん?」
「そうですね。私だったら泣きます」
「だよねー。いや、泣かないでよ。あー、でもさー、そういう間違いとか、ダメな所って、審査委員には丸判りな訳よ。きっとさー」
「あー、なるほど」
「だからさー、とりあえず譜面通り吹けるようになって欲しいと切実に思う。あと音合わせて下さい。あれはまじでやばい。背中ぞくぞくってしちゃう」
「そうだ。チューニングの時、私だけ『香澄さん』って下の名前でしたよー」
「あれ、そうだった?」
「え、気が付いていなかったんですか? 本当ですか?」
「全然。間違ってないんだから、良いじゃん」
「ダメですよ。みんなの名前覚えているのは凄いなって思いましたけど、真衣ちゃんの時は『小野寺さん』って呼んじゃって! もー、その場で、誰も何も言いませんでしたけど、一瞬『誰だ?』って、空気になっていましたよ!」
「あー、それは覚えてる。流石に『真衣』って呼び捨てはいかん。かといって『真衣さん』はネーヨ、と思って苗字にしたら、普段『進藤』って意識もしてないからさ『小野寺さん』が出て来てしまいましたー」
「もー。おかげであの後、真衣ちゃんが『正妻』で、私が『お妾』とか言われているんですからね? 判ります? この気持ち!」
「女の世界は、怖いなー」
「もー、気を付けて下さいよー。普段の発言は慎重なのにー」
「でもその後で、クラのパート練習に首突っ込んで、ちゃんと説明したじゃん」
真治は合奏ではらちが明かないと踏んで、三回演奏して中止した。そして残りの時間を楽器毎のパート練習にして、そのパートを巡回し、細かい注意事項を説明したのだ。クラの時は、先ず香澄を隣に呼んで『俺の女』宣言をした。
「誤解は一発で解けましたけど、他に方法なかったんですか? もー」
「俺なんか変わり者で通ってるんだし、嫉妬されることもないでしょ?」
「そうですね。顔も怖いですし、声もデカいですし、厳しいことビシバシ言いますし、挙句の果てに、人が恥ずかしがることを平気で言っちゃいますからね!」
「ほら。大丈夫じゃん。もう明日から、クラのメンバーと仲良くやりなー」
そう言うと、真治は『あぁぁ』っと発し、座布団にうつ伏せに寝込んでしまった。今日はよっぽど疲れたようだ。
香澄は苦笑いするしかない。そして考える。もし、クラのメンバーと一緒に帰ったり、練習の延長をしたりしたら、真治はどうするのだろうか。
一緒に帰っているから、夕方もココにいるのだろう。一人あがり込んで、トランペットを吹きながら香澄を待つ姿は、とても想像できない。図々しいくせに、そういう所は遠慮するのだ。それでも図々しい性格と言うのだろうか。母に『一人でも家に上げてくれ』と頼めば、母は絶対そうしてくれるのに。
まして、日曜日にクラのメンバーと遊びに行ったとしたら、真治は何をして過ごしているのだろうか。ふと思って香澄は真治に聞いた。
「日曜日に、クラのメンバーと遊びに行っても、良いの?」
「おお、行ってらっしゃい」
うつ伏せのまま真治が答える。顎が自由に動かないのか、ちゃぶ台の向こうで少しもごもごしているが、聞き取れない訳ではない。しかし、意外な返事だ。
「寂しくないんですか? そしたら真治さんは、何して過ごすの?」
「仕事」
真治から短い返事が返って来た。香澄は驚いた。何だこの人は。
「仕事って? アルバイトしているんですか?」
中学生はアルバイト禁止であーる。
「あぁ、アルバイトじゃなくて、家の手伝い。お金はもらってないよー」
ならセーフであーる。しかし、香澄の質問は止まらない。
「家の手伝いって、何してるんですか?」
「色々」
「色々って?」
「んー、朝から晩まで、一言では言えない色々ー」
疲れているのか、隠しごとをしているのか、話したくないのか、香澄と会話するのが嫌なのか。はぐらかした。
「朝って、何時からですか?」
香澄は具体的に聞くことにした。不思議な人だ。
「学校がない時は四時」
「随分早いんですね。夜は?」
朝を聞いたら夜も聞くだろう。
「日によるけど九時くらい」
真治はうつ伏せのまま回答している。何だって?
「えー、じゃぁ今まで日曜日は、どうやって来ていたんですか?」
香澄の質問は真っ当である。
「中抜けしまーすって言って、抜けて来る」
「そうなんですか。何か悪いことしましたね」
「いや、悪くはないよ。むしろ有難い」
そう言ってくれて、香澄は安心した。自分が楽しむために、真治に迷惑をかけていたとしたら、それはもう楽しめない。
「お休みってないんですか?」
「土曜日」
「あー」
香澄は思い出した。土曜日のお昼休みが『一番和む』と言っていたことを。土曜日が仕事のない完全OFFで、好きなことだけできる日だったのだ。
「じゃぁ、今日もこの後『家の手伝い』なんですか?」
「うん」
「え、大丈夫なんですか?」
香澄はちゃぶ台越しに真治を覗き込んだ。随分お疲れのご様子。
「うん」
「本当ですか?」
「まぁ、ほら、子供だし、失敗しても責任は問われないし。怒られるけどね」
うつ伏せのまま真治は答え続けている。真治でも怒られること、あるんだ。
「そうなんですね」
「別に炭鉱堀とか、そういう肉体労働ばっかりしている訳じゃないしー」
「体壊さないで下さいね」
香澄は覗き込むのを止めて座布団に座り直した。真治が見えなくなった。
「壊れないよ。手伝いだから」
「なら良いんですけど」
「女の子でもさ、お家の料理手伝ったり、お風呂掃除したりするでしょ? それの男の子版だから。たいしたことはしてないよ」
香澄を心配させまいとしているように聞こえた。だから、前のめりになった。
「どんなことしているんですか?」
「んー、色々」
真治からまた『色々』が帰って来た。香澄は質問を変えた。
「例えば何ですか?」
「例えば?」
「そう、例えば」
これで何か話してくれるだろう。そう思った。
「んーとね、お店の前の掃除。草むしり」
「その次は?」
来たっ。間髪入れず聞いてみよう。何か、助けになれるかもしれない。
「社用車の掃除と、消耗品の点検と、走行距離の記録」
「その次は?」
香澄が質問すると、真治はうつ伏せのまま答える。車のことは良く判らない。
「電話の取次ぎとファックスの用紙交換、レジの起動とレシート、釣銭の補充」
「その次は?」
真治は淡々と答える。香澄も淡々と聞くが、何だか内心焦って来た。
「品出しと店内のモップがけ、天井と冷蔵庫と冷凍庫の蛍光灯切れ確認と交換」
「その次は?」
香澄はそう言ったが、申し訳ないと思いつつ、最初の方のいくつかは忘れてしまっていた。色々って言い方、凄いな。
「ラッピング用紙の補充、文房具の補充、特売コーナーの設置」
「その次は?」
「音声案内の内容変更、館内設備の点検、消防施設点検」
「その次は?」
「シャッター開けて、開店」
香澄は驚いて口調を変えた。
「え、今の仕事って何時から何時までのですか?」
「朝六時から九時」
「朝四時から六時は何をしているんですか?」
香澄は具体的に聞いた。何も想像ができない。
「色々」
「最初の仕事は?」
もっと具体的に聞いた。この人朝四時から何やってるのと思った。
「市場に行って仕入れの手伝い、仕入れた荷物の積み込み」
「その次は?」
「朝ごはん食べて、ルート配達」
「その次は?」
「んーとね、お店前の掃除。草むしり」
「あー、つながりましたね」
「ですねー」
めでたしめでたしである。香澄は質問するのを止めた。色々あり過ぎる。
「結構大変じゃないですかー」
ちゃぶ台に両手の肘を乗せ、気の毒そうに香澄が言う。
「そーでもないよ」
うつ伏せのままのんびりと答える真治。何も助けられそうにない。無念だ。
「私にはできませんよ」「香澄さんには、やらせませんよ!」
真治の返事は早かった。香澄は怒られたのかと思って、驚いた。
「え? どういうことですか?」
文句ではない。でも、強めの口調になっていた。助けになりたいだけなのに。
「んー。香澄さんといる時はね、安らぎたい」
甘えるような、優しい声だった。願いにも聞こえる。真治が一体、どんな顔をして言ったのか、香澄には判らなかったが、冗談で言っているようには、聞こえなかった。香澄は嬉しくもなったが、考えて、直ぐにそれを打ち消す。
真治は香澄の質問に全部答えてくれたが、それは真治にとって貴重な香澄との時間を、無駄にするものだったに違いない。真治が本当に大切にしているもの。それはピアノでもトランペットでもなく、香澄なのだ。香澄は、真治の『家の手伝い』についてもう聞くまいと思った。自分の役割は違うと理解した。
「ねえ、今日は夕飯食べて行かない?」「良いの?」
真治の返事が早い。背筋だけで顔を上げ、香澄の方を向いた。さっきのけだるい感じはなく、目はキラキラとしていて、子供のようだ。いや、子供だけど。声の調子から、とても嬉しそうである。香澄はほっとして、嬉しくなった。
「大丈夫よ。じゃぁ、お母さんに言ってくるね」
そう言って、香澄は立ち上がろうとする。
「何時?」
うつ伏せに戻った真治が聞いた。背筋の姿勢は、きつかったのだろう。
「四時半よ」
香澄は答えた。そうだ。真治は家に電話をするのだ。
「もうちょっといてよー」
それは、真治からの珍しいリクエストだった。嬉しかった。だから、香澄は真治が、またどんな顔をしてそんなことを言ったのか、見てみたかった。きっと、見せてはくれないだろうけど。
「大丈夫。消音室から電話するだけだから」
笑いながら香澄は答えたが、真治からの返事はない。ダメと言わないのだから、良いのだろう。いつもそうだ。
「一曲弾いてよ」
香澄が消音室のドアを開けた所で、後ろから声がする。珍しく、また真治からのリクエストだ。香澄はうつ伏せのままの真治に聞く。
「何が良いの?」
「帰って来たヨッパライ」
「何それ、知らないわ。ごめんねっ」
香澄は笑った。そんな変な名前の曲があるとは。やっぱり真治は、自分の知らないことを知っている。またレコード屋さんに行って、買ってこないと。
「じゃぁ、『主よ、人の望みの喜びよ』で」
「了解でーす」
香澄は笑いながら答える。やっぱり判らない。『じゃぁ』って何。似ているの? それに、さっきまで自分で指揮して、あんなに何度も聞いていたのに。
「教会のパイプオルガン風で」
真治からまたまたリクエスト。なるほど。吹奏楽版ではなく、原曲の方ですね。香澄はそう思った。面白い。真治にとって、プレイヤーが変われば、それは別の曲扱いなのだろう。カバー曲ってことなのかしら。
「了解です!」
願いを全部叶えよう。香澄は明るく返事をすると、真治がうつ伏せのままなので、消音室のドアを開け放しにする。そして内線電話をかけた。
「もしもし、お母さん?」
(はいはい。お母さんじゃなかったら、怖いですよー)
「そうね。いや、あのね、真治さんも夕食、食べてもらって良いでしょ?」
(あら、珍しいわね。良いですよ。今日は、進藤さんにホイコーロー頂いたから、冷凍餃子解凍して、中華定食にしましょうか?)
「わーい。ありがとう。よろしくねー」
(六時になったら、降りてらっしゃーい)
「はーい」
(あなた、消音室のドア開けてるでしょ)
「え、判るの?」
(判るわよー。響き方が違うからー。ちゃんと閉めなさいよー)
「あら、そうなのねー。いや、今日ね、真治さんが部活でね、指揮をしたの」
(あらー、それは大変だったのねー)
「うん。ビシビシ厳しくてね。でもね、凄くカッコ良かったー。それでね、お疲れで動かないから、ドア開けて、リクエストを演奏してあげるの」
(あらそう。じゃぁ、判っていると思うけど、そっと、弾いてあげてね)
「大丈夫よー」
(あなた、夢中になると、どんどん音、大きくなるからー)
「大丈夫だってー。リクエスト弾かないといけないから、じゃあね」
(大丈夫だったこと、ないじゃなーい。六時ねー。あらあら、切れたわ)
香澄は受話器を置いていた。椅子に座り、ピアノの蓋を開けると、指慣らしもせず、楽譜を見ることもなく、ピアノを弾く準備が整う。横目に真治を見ると、まだうつ伏せのままだ。微笑んで、このまま弾くことにする。
香澄は深呼吸をして、ゆっくりと『主よ、人の望みの喜びよ』を弾き始めた。今日の真治が指揮している姿を思い出しながら、荘厳な教会のパイプオルガンを思い浮かべる。ペダルを少し長めに踏んだら、オルガンに近くなるかも。
ベヒシュタインの音色は柔らかで、手首をそっと使うと、いつもとは違う音色で歌い始める。香澄は感心した。きっと真治には、何もかもお見通しだったのだ。このピアノだったら、こんな風に演奏することもできるはずなのだと。
香澄は真治と過ごす時間を楽しんだ。ノートを読む真治は何も語らなかったが、ページを捲る度に表情を変え、会話を返してくれていた。嬉しい。気持ちが通じたみたいだ。誰も入れたがらない心の領域に、暖かく迎え入れてくれた気がする。だからあの楽譜の秘密を、教えてくれたに違いない。嬉しい。今日真治と約束した『楽譜に残す』作業は、きっと一生、二人で行う共同作業になるだろう。いや、してみせる。編曲して、一遍の曲にしても良し。
トリガーを弾く度に、隣で真治の顔が喜びに満ちる。弾き終わって再生して、また喜んでくれる。楽しみだ。楽しみしかない。もう、何曲あるかなんて、数えてもいない。それに、これからも増え続けるだろう。言うならば真治は、世界でただ一つの『真治』という楽器だ。私だけのものにしたい。いや、ダメだ。
あぁ、そうだ。子供用の教本にしよう。題名は『バイエル』みたいに人名を冠した教本。その名も『真治のピアノ教本』だ。いや、きっと真治は『香澄』も入れろと言うだろう。うん。言う。『真治と香澄のピアノ教本』これだ。
今まで『叶わぬ夢』だと思っていたことが、現実になるんだ。凄いことだ。夢が叶うって、こういう気持ちなんだ。あぁ、次の夢を探せるんだ。真治と一緒に探そう。楽しそうだなぁ。これが幸せなのかなぁ。もう、絶対に真治を離すものか。この先、どんなことがあっても。この人と自分は、共にあるのだ。
香澄は目を瞑っていた。ただ『ありがとう』としか表現できぬ喜びを、神に感謝の祈りを捧げながら、ゆったりと奏で続けた。真治、ただ一人のために。




