トリガーを弾く
「そう言えば、俺の作曲ノート」
香澄の家に帰って来た二人は、ちゃぶ台で冷えた麦茶を飲んでいる。そこで真治が思い出したものだから、香澄は一度引っ込んだ汗が、また出て来た。
「し、知らなーい」
真治が言った言葉を受け、天井に向けた目をぱちくりさせながら、香澄は答えた。屋上の決意は、実に簡単に吹き飛んだ。そんなものだ。で、耳が赤い。
真治は両手をちゃぶ台の上に組んで乗せた。
「香澄さん。怒らないから。ただ見たいだけだから」
香澄は真治を見て、急に救われた気持ちになる。
「本当? 本当に、怒らない? 絶対だからね?」
香澄は何度も真治に念を押す。右手の人差し指を真治に何度もぶんぶん振って念を押した。そして立ち上がり、机の前まで行くと、真治の方を向く。
「本当だからね?」
もはや隠すのは不可能である。祈る気持ちだ。
「怒らないよ」
真治の口調はいつもと変わらない。香澄はいよいよ決心した。
「じゃぁ、こっち見ないで」
ちょっと笑ってお願いする。机の引き出しを開ける手順を、真治に見られる訳にはいかない。
「危ないなぁ」
そんな所にもレーザービームを仕かけているのかと思った真治は、首だけ曲げてソッポを向き、解除を待つ。そんなこと言われたって、香澄だって同じ気持ちだ。机上の『新音楽辞典』を取り出すと、カバーの中から辞書を取り出した。そしてその奥から机の鍵を取り出すと、一番下の引き出しを解錠する。
引き出しを開けるとガサゴソと色々なものを押しのけ、一番下から表紙のない音楽ノートを取り出した。香澄は笑顔になったが、真治の方を向いて、少し顔を赤面させた。机の引き出しを閉める手順を行って、音楽ノートを両手に持つと真治に声をかける。
「もう良いよ」
「はいはい。あ、それだよ。懐かしいなぁ」
香澄が音楽ノートを真治の方に向けていたので、真治は直ぐに思い出したようだ。香澄は音楽ノートをちゃぶ台の上に置こうとしたが、さっき濡らしたのがちゃんと乾いているのかを入念に確認した。それから音楽ノートを置いた。
「絶対だからね?」
ノートの上に両手を置いたままである。もしここで『怒る』と言ったら、音楽ノートを持ったままどこまでも走って行くに違いない。
「怒らないって」
何度目か数えていないが、真治が言うと香澄はそっと手を離した。真治はちゃぶ台の上に乗せたまま、そっとノートを捲る。
それは真治が辛かった時期に、気持ちをぶちまけたものだった。そして思い描いた恐ろしいメロディーを書き示すより、緩やかで穏やかなメロディーを書いた方が、気持ちが落ち着くことに気が付いた。それからは語りかけるように、やさしい気持ちで書いた。ゆっくり捲る度に、あの頃の気持ちがよみがえる。
「この曲は、ちょっと怖いと思った」
「この曲もね、暗いなーって思った」
「この辺からね、優しいなって思って、あ、それは、結構好きな曲」
「この曲も好き。この辺から優しい感じだよねー」
「この曲が一番好き。これでしょ? 屋上で吹いたの」
ノートを捲りながら、香澄の解説が続いている。ノートの全ての曲に『三角』『丸』『二重丸』の評価が付けられていて、所々に水滴で濡れたように紙がぶかぶかになって字が霞んでいる箇所や、うっかり切れてしまった所をテープで補修したり、濁る音になるであろう和音の誤りを、正しい音に朱書きされている。屋上で吹いた曲には大きな『花丸』が付いていた。
何があったのかは、知らない。しかしこのノートが、真治の手を離れた後も、とても大切にされていたことは、良く判った。痛い程。真治はノートを見ながら、ページを捲る度、ちらちらと香澄を見ていた。香澄の表情は、ページを捲る度にころころと変わる。それは、あの頃の自分の表情を、鏡で見ているようだ。
余白にびっしりと書かれたコメント。いや、言霊だ。それは、当時の自分に語りかけている。時間を遡って引き込まれ、心に響く。誰にも明かしたことがない深層を理解し、香澄はずっと返事のない会話をし続けてくれていたのだ。名前も知らないあの頃から、嘘偽りのない、素直な気持ちを。真治には判った。
もし、当時、友達になれていたならば。そう思って、ふと顔をあげた。
「ねえ、聴いてくれる?」
「ん? はい」
香澄がそう言ったので、真治は香澄の話を待った。照れ臭そうにしている。
「そうじゃなくて、こっち来て」
香澄が笑って立ち上がると、ノートと真治を持って立ち上がった。いや、真治は持ち上がらないから、引きずってか。消音室のドアを開け、二人で中に入った。真治はされるがまま消音室に入ったものの、ドアを閉めずにいた。
「閉めてよ。恥ずかしいでしょ?」
香澄が真治の音楽ノートをピアノの譜面台に乗せている。真治はそう言うことかと思ってドアを閉めた。香澄はドアが閉まる音がすると、真治が作った曲に伴奏を付けて弾き始める。右手が真治の作った旋律。左手は香澄が作った伴奏だ。とても自分で作ったとは思えない出来栄えだ。これが本職の編曲か。
「凄いね。凄いねー」
真治の声が聞こえると、香澄は手元も見ずに真治の方を見て笑顔になった。やっぱり自分が、このノートを一番理解していると感じる。そして楽譜にはない色々な感情表現を付けて弾く。真治の笑顔が嬉しい。
真治は自分の曲が立派に編曲されて、まるで市販の曲のようになったのに驚いた。そして純粋に香澄のことを尊敬した。
「どう?」
「凄いねー。凄いねー、いやー凄いね」
「さっきから、『凄いね』しか言ってませんよ?」
香澄が興奮する真治をたしなめた。真治もそれに気が付いて笑った。
「イメージと合ってる?」
香澄がもう一度聞いた。言われた真治は、急に考え込む。真剣に悩んでいる。
「違う感じ?」
中々返事をしない真治に、香澄がもう一度聞く。真治と目が合う。香澄は急かさずに待った。真治が『うーん』と言った後に、ゆっくりと答える。
「その編曲が悪いという訳ではないんだけど、むしろ凄いと思う。でも、俺、和音の教育を受けていないから、コードを置いて行く、そういう感じじゃ、ないんだよねぇ。とっても洗練されて奇麗だなとは、思うんだけど」
「どういうこと?」
香澄が首を横にした。判る。その気持ちは判る。でも、真治は、自分の頭の中で鳴り響いている『本当の曲』を説明したかった。相手が香澄だから。
「この旋律はトリガーなんだよね」
「トリガー?」
「そう。この旋律を見ると、頭の中で演奏されている曲が思い出されるんだけど、それがね、何と言うか、こんな感じ?」
そう言うと真治は人差し指でピアノをつっつき始める。香澄は不思議な顔をしてその様子を眺めていた。音楽用語に『トリガー』なんてない。真治からそんな単語が飛び出し、楽譜に書かれている曲とは違うメロディーが流れる。
「判るかなー? ちょっと間違えちゃったけど」
真治が困った顔で香澄を見た。香澄はポカンとしている。ちょっと間違えた所は直ぐに補正されていた。問題ない。頭の中で今のメロディーが音符になり、五線紙の上に落ちて行く。そして小節毎の縦線が入り、一枚の楽譜となる。そしてそれが、目の前にあるノートのメロディーと? え? ん? あっ!
「メロディーが、重なっている、って、こと?」
「そうそう!」
真治がそう言うと、香澄の瞳が輝く。香澄の記憶から真治のメロディーが解き放され、それが一段づつに切り離される。そこに、たった今完成した楽譜が一段毎に切り離され、二段目として配置されて行く。そこに、自分の編曲した形跡は何もない。コード記号も何もだ。それでも、自分の編曲を否定されたにも関わらず、香澄は何だか上機嫌だ。
「え、じゃぁ、じゃぁ、私がトリガーを弾くから、もう一度弾いてくれる?」
「あー、良いけど、ゆっくり弾いてくれる?」
「良いよー」
そう言って香澄はトリガーを弾き始める。すると真治は、タイミングを見計らっているが入れずに、困った顔をして香澄にお願いした。
「ごめん、繰り返してもらって良い?」
香澄は笑顔で何度も頷くと、右手でトリガーを繰り返しながら、左側にいる真治の顔と、真治の指先を交互に見る。楽しい。楽しくてしょうがない。真治と目が合うと、真治は照れてタイミングを外してしまうようだ。かわいい! 香澄は真治の方を見るのを止め、自分の右手を見ながら、横目に真治の指先を見ていた。早く。早く! これが、作曲の瞬間なんだ! 早くぅ!
真治がタイミングを見計らって、さっき弾いたメロディーを繰り返す。今度は上手く行ったようだ。香澄は右手はもう見なくても弾ける。真治が人差し指で弾いたメロディーを左手でシミュレートして暗譜した。記憶した楽譜通りだ。香澄は笑顔で頷きながら、重なり合うメロディーを心地よく聞いていた。
「こんななんですよー。いやー初めてだわー」
真治が少々興奮して言った。香澄は真治が楽しそうにしているのを見るのが好きだ。嬉しい。両手を鍵盤に乗せると、真治の方を見る。
「インテンポで弾くね!」
「え? できるの?」
驚く真治を見て、香澄は『当然』という表情をすると、ピアノの方を向いて、真治が必死に記したメロディーを、昔から知っている曲のように弾いて見せた。
「凄い! 凄い! 天・才・だ!」
真治がやや大げさに騒いでいる。香澄はそれ程でもないのにと思っていた。すると、真治が香澄に言う。
「でね、次のメロディーがね」
人差し指でピアノを弾こうとする真治に香澄は驚いた。
「え、次?」
「そう。次」
真治はにこにこして答えている。香澄は念のため聞いた。
「え? いくつあるの?」
「んーとね、あと二個くらい?」
驚く香澄を放置して、真治は『あ、こっちか』と言うと、香澄の後ろを通り越して、高音の方に移動した。そして『もう一度弾いてくれ』と言わんばかりの笑顔を香澄に送った。香澄はそれに気が付いて、二つ重ねたメロディーをゆっくり弾き始める。真治はそこに三つ目のメロディーを重ねたが、もう香澄はそのメロディーを弾くことができなかった。だって、指が届かないのだから。
結局それは香澄が集中力で暗譜し、ざっと余っているページにメロディーを書き込んだ。そして四つ目も書き込んだ。頭が熱くなり、必死だった。
「こんな感じなんですよー」
ちょっと疲れた香澄を横目に、頭の中のメロディーを説明し終わった真治はご機嫌だ。香澄は鉛筆を置き、頭の中で四つのメロディーを重ねる。無理!
「凄いよ、天・才・だよ!」
香澄はピアノから向きを変え、真治を見た。もう泣きたい。でも、もう一つ確認が。指が震える。真治さん、一応聞きますよ? 怖いけど、聞くよ?
香澄は、楽譜を指さして、恐る恐る真治に聞いた。
「これ、ぜっんんんぶっ、トリガーなの?」
「そうだよ?」
香澄の指先の震えが止まり、香澄の顔から笑顔が消えた。口が四角く開いて小さく息を吸う。やっちゃった。天才のノートに消せない落書きを。後年まで残るであろう記念すべきノートに、私は何てことを。モーツァルトの初版手書き原稿とも言える楽譜に、素人の詰まらない愚痴やら、生意気にも評価やら何やら。濁る音だからと、勝手に朱書きまで。うっわぁあぁあぁあぁ。
それでも香澄は、目を見開いて輝かせた。真治の両方の腕を捕まえる。
「ねえ、私と一緒に、楽譜にしない? ねぇ、良いでしょ? ねっ。ねっ」
「え、良いの? それは嬉しいなぁ」
思いがけず両手を握られて真治は驚いたが、香澄の提案は素直に嬉しかった。香澄が凄く喜んでいるのを見て、何があったのか不思議ではあったのだが。
「やっったぁあぁっ! おぉおぉおぉ! 絶対だからね! 絶対だからねっ!」
真治の返事を聞いて、香澄は椅子から飛び上がって喜んだ。真治の両手を取り上下に振りながらずっと『絶対だからねっ!』を何度も繰り返した。
真治は今まで見たことのない喜び方の香澄を見て嬉しかったが、それでも、何故にそんなに香澄が喜んでいるのかが、やっぱり判らない。左手を香澄に握られたのが恥ずかしく、揺れる手に合わせて頭と体をくねくねと揺らし、おどけてみせたのだが、香澄はそんなのお構いなしに、ただ叫び続けていた。




