指揮者
香澄は真治を追いかけて音楽室まで来たが、あと三メートルばかりの所まで迫って、それ以上近づけなかった。また手の届かない所に行ってしまった。とても話しかけられない。
真治はトランペットの席にはおらず、指揮者席にいた。いくら図々しくても、これから合奏するのに、指揮者席に陣取る部外者はいない。それでも香澄は隣の倉橋に小声で聞いた。
「今日、先生は?」
「なんか用事があって、帰ったみたい」
「へー」
「『旦那』にお願いしたみたいよ?」
「ちょっと」
香澄と倉橋は顔を見合わせて笑ったが、音楽室の緊張感は高まりつつあった。譜面台の高さを合わせて楽譜をセットし、リードの締め具合と調子を確認する。
香澄も準備ができたので、真治の方を見た。真治は鋭い目つきでスコアをペラペラとめくりながら、静かになるのを待っているように見えた。凄く風格がある。音楽室が静かになると、真治が顔を上げ、立ち上がった。
「きりーつ」
クラリネット・ファーストの二年金子が号令をかける。そのかけ声に合わせて、セットした譜面台を倒さないようにそっと全員が起立する。
「れいー」
「よろしくおねがいしまーす」「よろしくおねがいしまーす」
全員がお辞儀をしてから着席する。着席するともう一度身の回りを整理する。とにかく音楽室には、キャパシティーオーバー気味の楽団員が詰め込まれているのだ。それでも直ぐに物音が消え、静かになった。緊張感が高まる。
「それじゃ、頭からお願いします」
真治が指揮者用の譜面台から指揮棒を右手に持った。香澄は真治が指揮をしているのを見たことがある。学校では毎週の全校朝礼の時『今月の歌』を全生徒で歌ってから退場するのであるが、各クラスの『歌声委員』が交代で指揮をするのだ。だから大人数の前で指揮ができることは知っている。真治が指揮棒を振り上げ、調子を取って上下に振り始めた。
演奏している『主よ、人の望みの喜びよ』は八分の九拍子である。八分音符が九個で一小節になるので、聞いている感じは四分の三拍子と似ている。だからと言って三角に指揮を取ると、だれも演奏ができない。
指揮者が三角に振った場合の一辺は八分音符を表すので、四分の三拍子のつもりで指揮棒を振ると、奏者はゆーっくりと演奏してしまうのだ。
だから大体の指揮者は、ゆっくりと上下に振る。この場合は、上下往復一回が八分音符三つ分の三連符状態となり、奏者は指揮棒が下がり切り、リズム良く加速して跳ね上げる瞬間を拍の頭と捉え、演奏して行くのだ。
順調に演奏が続けられていたのだが、真治は途中で指揮棒を左右に振り、演奏を中断させた。音楽室が静かになる。練習中に口を開くのは、指揮者だけだ。
「すいません。音が合ってませんでしたね」
そう言って苦笑いした。全員が、音合わせを忘れていたことに気が付く。
「A下さい」
指揮棒でオーボエを指した。するとオーボエの沢木が立ち上がり『ブォー』と二枚のリードが重なって紡ぎ出す、特徴的な音を音楽室に響かせた。
すると部員はその音を聞きながら、各自音合わせをして行く。オーボエの音に合わせるのは、オーボエが音合わせに必要な調整がほぼできないからだ。あと、オーボエの特徴のある音は聴きやすいというのもあるだろう。
二十秒程経った所で、真治が指揮棒を置いた。両手をあげて左右に振る。
「全然合ってませんね」
チューニングを止めさせた。まだ全員一斉に合わせるのは、無理なのか。
「楽器別に行きましょう。フルートから」
フルートの方を向いた。香澄からは元々横顔しか見えていなかったので、真治の顔が見えなくなった。残念とか思っている場合ではないのだが。
オーボエが再び『A』を出すと、フルート全員が音合わせを始めた。フルートの各員が音を出しては調整して行く。二十秒程してその操作をする人がいなくなった。
しかし、真治はまだチューニングを止めなかった。もうしばらくして止めた。
「今ので合ってると、思っている人?」
右手をあげ、同意を求めた。一年生を中心として、ちらりほらりと手があがった。二年生は、気まずい顔をしている。
「パート毎に行きましょうか。ファースト」
またオーボエが音を出し、フルートのファーストが音を合わせた。二年生が中心である。五秒程で打ち切った。
「はい。おっけー。セカンド」
音楽室の全員が聞き耳を立てる。聞き分ける訓練も兼ねているのだ。人数が少ないと自分の音が聞きやすいのか、再び調整を始める者もいた。
「はい。おっけー。サード」
三度チューニングが始まる。一年生中心であるが、これが合っていない。フルートの音が安定しないというのもあるだろうが、チューニングされていない時のうねりが感じられる。五秒程で打ち切られた。
「武井さん五ミリ抜いて、溝内さん二ミリ、木村さん髪の毛一本分」
「はい」「はい」「はい」
言われた一年生が先輩の指示に従う。ごにょごにょと指示された通りに調整が行われ、それが終わると楽器を構える。
「はい。もう一度」
再びオーボエの音がしたが、調整後の結果は良好だった。
「はい。次、サックス全員」
サックスは全員で七名なので同時のようだ。
「向井さん三ミリ抜いて、山田さんニミリ。楽器温まってます? まだ? じゃぁ一ミリで様子見て下さい。はいもう一度」
今度は大丈夫だ。ストップの合図を出して、クラリネットの方を向いた。
「パート練習の時合わせてます?」
「はい」
クラリネットの金子が返事した。真治は頷いた。
「オーボエ、頑張って四十二をキープして」
「はい」
四十二とは四百四十二ヘルツの下二桁を指している。
「長くてごめんね。頑張って。じゃぁクラ全員で」
クラリネットが一斉にチューニングを始める。するとファーストから順に一人づつチューニングを止めて行く。どうやら真治と目を合わせて『OK』サインが出た人から止めているようだ。早々にファーストが全員楽器を降ろした。
残りのセカンド、香澄を含むサードのチューニングが続く。香澄は真治に視線を送ったが、目が合わなかった。ちょっとがっかりした所で打ち切られた。
「三神さん三ミリ抜いて、大和さん二ミリ入れて、相沢さん三ミリ抜いて、香澄さんニミリ、倉橋さん三ミリ、黒井さん二ミリ」
指示を受けた奏者がわしゃわしゃと調整を行い、再びチューニングをした。
「はい。オッケー、次ホルン」
ホルンもチューニングし辛い楽器だ。チューニングする場所が微妙な場所であり、演奏中に音程が変えられない。より厳密なチューニングが必要となる。
「はい。オッケー。あと金管全員」
楽器が冷えないように息を吹き込むのを止め、金管全員が楽器を構える。
最後にトランペット、トロンボーン、チューバが音合わせをしてチューニンが終わった。
「沢木さん、ありがとうございまーす」
オーボエが着席した。真治の声が音楽室に響く。
「皆さん、隣近所の音を聞いて合わせて下さいね。では頭からお願いします」
真治が再び椅子から立ち上がり、指揮棒を振り上げ、静止した。全員が真治に注目し、指揮棒が振り降ろされるのを待った。
真治は耳に全神経を集中させていた。さっきはうっかり音合わせをせずに演奏を初めてしまったばっかりに、頭がガンガンして吐きそうになった。
チューニングをしている最中も音のうねりが止まらない。オーボエの『A』だってずっと一定じゃない。早い所音合わせを終らせないと、と思い、細かい指示を出してチューニングを済ませた。さあ、ここからが本番だ。やるぞっ!
身構えた真治は右手を振り下ろした。最初の振り下ろしの瞬間、殆ど音がしない。チューバが「ブー」とベース音を出しているだけで静かだ。だって頭二拍が休符だから。真治は先頭に一拍出ているアウフタクトの曲が好きだったが、これは一拍目がないのだ。
振り下ろした指揮棒を上げる瞬間からメロディーがスタートする。真治もメロディーを口ずさんでいるが、それは演奏と合っていない。
誰が悪い訳ではない。タイムラグというやつだ。真治が『ココッ』と振り下ろしたのを見て演奏をすると、それが一拍の四分の一位遅れて指揮者の耳に届く。だから指揮者が歌っているメロディーとは、どうしてもずれが生じてしまうのだ。そういうものとあきらめるしかない。
真治も全校生徒の前で指揮をしたとき、そうだったのを覚えている。一クラスの合唱ではそのタイムラグは感じられない。
メロディーは続いている。と、ここでトランペットの旋律が入る。真治は何だか盛り上がりに欠けていることに気が付いた。しかし、それは全て自分の責任であると理解した。だって自分が大きく振らなかったから。
『楽譜にも書いてあるし、いつも練習してるんだから頼むよ』というのは通じない。奏者は指揮通りに歌うのだ。真治は右手を振りながら、左手の平を自分の後ろに向けてパタパタさせ『もっと出せ』の合図をすると、全身を大きく使って指揮棒を振った。するとトランペットの音が大きくなる。真治は頷いた。
フルートが旋律を重ねる時はもっと滑らかにして欲しい。トランペットが旋律を重ねる時は、イモ音は止めて欲しい。クラリネットは旋律の終わりの所では、気持ち溜めて欲しい。音が上がる所はだんだん大きく、下がる所は少し静かにしていって欲しい。
色々想いは浮かぶが、演奏中はメモする余裕がない。途中からページをめくるのを諦めた。あっという間に最後まで来て、最後はスローダウンし、小さく三角形に指揮棒を振り演奏は終わった。
真治が指揮棒を降ろすと、安堵の空気に変わる。しかし、真治にはここからが指揮者の出番である。この楽団の演奏をなんとかしなければならない。
「えーっとですね」
そう言って途中になっている楽譜を最初のページに戻す。何を言おうとしていたんだっけ。
人は言葉で情報を伝達するが、上手く伝わるのは三割位だと言われている。だから学校の授業で先生が十言ったら、三しか伝わっていない。
音楽だって同じで、むしろもっと低い。演奏家の思いが百パーセント伝わるなら、どんなに良いだろう。仮にみんなの気持ちが最高に乗っているとしたら、真治に伝わったのは一割もないだろう。いかん。これは指揮者の責任なのだ。
「トランペットの入りはイモ型の音は止めてもらって、レンガのような四角い音にして下さい。クラリネットは音が上がって行く時は大きくして、下がる時は静かに。で、タラリラララ・ラリラ・ラリラリ、タラリララの同じメロディーが始まる前に、一度明確に区切って、新しく始める気持ちでお願いします」
真治はページを捲ってさっき頭の中にメモした内容を吐き出そうとしていた。十思っても、言えるのは三くらいであるのは真治も同じだった。
「コントラバスの弓の向きは揃えて下さいね。あと、休符の時、楽器を持つ姿勢を揃えて下さい」
真治はまたページをめくる。楽譜の『ココ』と指さしても、そこに『何小節目』というシリアル番号が振られている訳ではないので、自分でメロディーを歌って伝えなければならない。
「メロディーを重ねる時は、自信を持って重ねて行きましょう」
そう言うと真治はスコアを閉じて立ち上がった。見ていてもしょうがない。指揮者が率先して、気持ちを演奏家にぶつけないといけないのだ。話はそれからだ。俺はメトロノームじゃない。大丈夫。メロディーは知っているじゃないか。理想形も知っているじゃないか。理屈じゃない。気持ちで表せ。
「もう一度頭から行きましょう」
そう言うと、肩の力を抜く仕草をして、にっこりと笑う。そして、集中して指揮棒を振り上げ、静止する。全員の視線が集まる。みんな良い目じゃないか。
真治は、今度は演奏者の目を見て指揮を始める。気持ちを大きく持って、強弱をはっきりさせ、次のメロディーを奏でる楽器の方を向き『次は貴方達ですよー』と呼びかける。ちょっと溜めて欲しい所は指揮棒を溜める。『タララ』と歌いながら指揮棒を振る。すると、演奏は順調に回り始める。真治は思う。
『まだちょっとチューニングが甘い。でも、歌おう。この喜びを、歌おう!』
心に余裕が出ていた。




