村田からの依頼
真治は先輩達が合奏をしている音楽室にやってきた。村田の姿は見えないが、当然指揮をしているはずだ。香澄に言われた真治は、最初職員室に向かうつもりでいたが、屋上から降りる階段から、村田の指揮をする後ろ姿が見えた。合奏中なので当然と思い出し、音楽室へ向かったのだ。
先輩達はドヴォルザークの交響曲第八番を演奏中である。村田は『イギリス』先輩達は『ドボハチ』と呼称するその曲は、なかなか良い。吹奏楽部に入部してから初めて聞いたのだが、先輩達と一緒に演奏したいと思う位だ。
コンクールでは第一楽章だけ演奏するので、楽譜もそこまでしかないが、テープを購入して第四楽章まで良く聞いている。
曲はやがて佳境を迎え、ジャンジャンジャンジャンジャンと演奏が終わった。真治は入り口のドアをそっと開け中に入った。村田の指導はまだ続いている。
入り口から村田の様子は見えないが、指揮をしている時の村田は、普段のおちゃらけた様子はなく、真剣そのものである。声だけでも、まだ真剣モードであると判る。音楽室は緩やかなひな壇になっていて、入り口から二手に分かれた内の右階段を登ると、村田の様子が見えて来た。
「じゃぁ、そんな感じで。一、二年と交代してー」
「起立!」
「礼!」
「ありがとうございました!」
先輩達が一礼して休憩に入る。楽器を持って外へ向かう先輩達の間をすり抜け、村田の方へ向かっていると、村田が真治を見つけた。
「おぅ、小野寺、こっちこっちー」
手招きで真治を呼んだ。真治は会釈して村田の方へ向かった。音楽室の一番前はちょっとしたステージになっていて、いや、学校だから教壇と言うべきか。一番奥には、黒板消しでも消えない五線が描かれた黒板があるし。
しかしそこが、なんとなく教壇と呼べないには訳がある。それは、ドでかいグランドピアノが置いてあるからだ。村田はグランドピアノの曲線の所に椅子を置き、そこで指揮をとる。譜面台を置くスペースもない位で、ステージ下から指揮者用の譜面台が『え、嘘でしょ?』という位に、限界まで背伸びして、スコアを広げているのだ。
真治がステージ下まで行くと、村田が早口で話を始める。
「俺さ、ちょっと今日、この後、用事があるんだよね」
「はい」
真治には話が見えなかった。行ってらっしゃいだ。
「悪いんだけどさ、一、二年の指揮、頼むわ」
「はい。判りました」
部活をやっている者なら判るだろう。顧問の言うことは絶対である。真治の返事を聞いて村田は頷くと、今使った『イギリス』のスコアを纏め、封筒に入れて立ち上がった。そして、後ろのピアノの上に置いてある一、二年が演奏するスコアを取り、譜面台に置いて笑った。マジか。本当に用事があるようだ。
音楽室には既に入れ替わりの一、二年が入室し、準備を始めている。もう少ししたら、屋上にいる部員も呼び出されて全員揃うだろう。
「指揮は小野寺に任せるから、よろしくね!」
「はい!」「はい「はい!」い!」「はい!」い!」「はい!」
「はい!」い!」はい!」はい!」!」「はい!」い!」
「ちゃんと言うこと聞いてね!」
「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」
「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」
壇上から準備を始めた一、二年に村田が声をかけた。大勢の部員が返事をしている。ほらね。顧問の言うことは絶対なのだ。
「じゃ、そういうことだから、よろしくね」
「はい!」
真治は指揮を引き受けた。曲目はバッハの『主よ、人の望みの喜びよ』である。仏教徒の真治には、吹奏楽部に入るまで知らない曲であった。吹奏楽の演奏を聞いて良いと思った真治は、原曲のオルガン演奏と、オーケストラ演奏のテープを買って聞いてはいた。
夜の自室でラジカセにテープを入れ、左耳にイヤホンを付けて勉強をしながら聞いていた。息抜きに、指揮の真似事なんかもしていたが、生演奏の指揮はこれが初めてである。まさか村田に見られていた訳ではあるまいて。
真治はスコアを初めて見て愕然とした。一つの楽器が一段に記載され、一ページに五、六小節しか記載されておらず、ひたすらページをめくり続ける必要がある。まぁ、そうだよねと納得するしかない。
英語で書かれた楽器の名称を上から辿り、あぁ、これがオーボエか、とか、トランペットがこんな所にとか、楽器の場所を覚える必要もあった。
それより、各楽器毎の楽譜は、その楽器の音階毎に転調されて記載されている。だからトランペットの楽譜で『レ』の音は、指揮者用のスコアでは『ド』の場所に記載されている。だから馴染みのある『ドレミファソラシド』は使用しないのだ。
トランペットの『レ』はドイツ音階で『C』であるが、トランペットの楽譜を見慣れた真治には、『ド』の場所に記載された音を『C』と呼ばなければならない。
『こりゃ、ヤヴァイ。ヴェートヴェンのヴェの方の、ヤヴァーイ』
一人思いながら、三倍速で演奏を思い浮かべながら、スコアを最後まで捲る。一、二年の準備が終わり、視線を感じて真治は立ち上がった。
「きりーつ」
コンサートマスターが号令をかけると、全員が立ち上がった。七十名の部員達が、音楽室にぎっちり入っている。
「れいー」
「よろしくお願いします」
「よろしくおねがいしまーす」「よろしくおねがいしまーす」
真治は覚悟を決めた。




