香澄の過去
屋上で一人練習する真治の姿があった。縦に置いたトランペットケースにメトロノームを置き、テンポ六十で八拍づつ『ドレミファソラシド・ドシラソファミレド』を吹き続ける。
基礎練習の時、演奏する姿勢はニニ・ロッソだが、音は揺らさない。一つ一つの音がさつまいもの形になったらダメ。四角い音を目指す。四角と言ってもこんにゃくみたいにぐにゃぐにゃと揺れてはダメ。レンガのような四角い音を目指す。
息継ぎをする時も、限りなくゼロ秒に近い速度で息を吸う。元々息継ぎの数は少なかったが、離れて聞いていると、息継ぎもせず吹き続けているように聞こえるだろう。
神経を唇と耳に集中させ、ロングトーンの基礎練習をしていると、六往復目の途中でメトロノームのねじが切れる。すると、おもむろにメトロノームのねじを巻き直し、もう一度繰り返す。毎日二セット。いつもの風景である。
それが終わった真治は、今日はメトロノームのねじを三度巻き、再びテンポ六十のまま八分音符で『ドドレドミドファドソドラドシド上ドド・上ドから逆にドまで』を始めた。
これをロングトーンの後にやると、唇がお疲れになる。疲れた唇は細かく振動を始めてしまい、力が入らなくなる。まずトランペットの教本上最高音のドが出なくなり、徐々にシ、ラ、ソが出なくなる。やがて、まったく音が出なくなる。
真治の唇は耐久力がなかった。それを気にしていた真治は、唇を酷使する練習をしている訳だが、なかなかどうして成果は出ないものだ。
屋上にいる他の部員達は、コンクールで演奏する曲を練習している。クラリネットの一、二年生もさっきまで練習していたが、休憩になったようだ。
真治も唇がフガフガになって、小休止をしていた所だった。音楽室からは、選ばれし三十五名のコンクール練習が聞こえて来る。休む様子はない。
「暑いねぇ」
「そうですねぇ」
真治の所に香澄が来ていた。今日も笑顔で一杯だ。
「なかなか持久力がつかないなぁ」
真治は変顔になるまで大きく唇をさすっている。ブルブルするのだ。
「クラリネットも、ずっと吹いてると口がガバガバになりますよ?」
香澄も口の横をさすっているが『お上品に』である。
「そうなんだね」
真治は頷いて香澄を見る。
「何か吹いて下さい!」
「えー、音出ないよぉ」
真治は眉を潜めた。今はニニ・ソッソにはなれない時間帯だ。しかし香澄は笑顔のまま真治に言う。判っている。練習に付き合うって、そういうことだ。
「辛い時でも、辛い時なりに工夫して、辛いのを乗り越えて下さい」
「そうは言ってもねぇ。出ないものは出ないのよねぇ」
真治はまだ唇をさすっている。真治にしてみれば、練習は終わったのだ。
「もう駄目だと思ったその先に、自分の可能性があるんですよ?」
香澄は休日にピアノをずっと弾いていた。腕がちぎれそうになっても、指が動かなくなっても弾き続けた。それを知っている真治にとって、香澄の言葉は重かった。練習後の解放感から一転、大きな壁が現れる。
そう言いながら、香澄は謎のコンクリートに座る。そこに座ったということは、真治の強制演奏会が始まるということだ。真治は自分の唇をマッサージしたり、口をゴニョゴニョしながら、こんな状態で何が演奏できるか考える。
真治の頭の中には、いつも音楽がある。浮かんでは消えるメロディーの中で、記憶として定着するのは一握りだ。それらはジャンルや人別に分類され、楽譜にされるのを待つ。真治はそれらの中から、数少ない『楽譜』になったメロディーを取り出した。真治はトランペットを構えると、そのメロディーを吹く。その曲は、ドレミファソラシドだけで演奏できる、短い曲だった。
香澄が曲に合わせて足をブラブラさせ、真治の演奏に合わせて歌っている。最後の『ホイッ』で真治がトランペットを横に振ると、それに合わせるように、香澄まで調子を取って首と右手を同じ方に振る。
「その曲結構好きー」
演奏が終わった真治に香澄が声をかけた。真治はトランペットを降ろしながら、トランペットから離した右手を大きく振って、指先を左肩まで円を描くように持って行き、笑顔で香澄を見る。
「ありがとうございます」
真治の礼を見て、香澄も笑顔になりパチパチと拍手をする。拍手をもらった真治は、急に真顔になった。
「何でこの曲、知ってるの?」
真治の質問に、香澄が頭を傾ける。質問の意味が判らない。あれ、有名でしょ?
「え? どっかで聞いたんじゃないかしら?」
香澄は笑顔のまま、どこで聞いたのか思い出そうとしたが、テレビでもラジオでもなく、何も思い当たらない。そして、不意に思い出したのは、そう、初めて日本に帰って来た小学生の自分が、ピアノで演奏した光景だった。
そしてそのピアノ演奏は、表紙の破れた音楽ノートの、とあるページに鉛筆で書かれた音符達だった。香澄はその音符達に『ピエロ』という曲名を与えた所まで思い出す。顔から血の気が引き、そして耳が赤くなり始めている。絶対に真治には、明かしたくない秘密だったのに。
「俺の音楽ノート、残ってるの?」
バレた! 香澄は目を丸くして驚き、謎のコンクリートから飛び降りる。
「せ、先生が、村田先生が呼んでるよ!」
香澄が今思い付いたように言う。真治の問いに、答えるつもりはない。そう言われちゃあしょうがない真治は、トランペットを急いでケースに収納する。
「ねぇ、残ってるの?」
その間も、香澄は目を丸くしたまま、今度は顔がどんどん赤くなってきている。口をパクパクさせて、真治から目を逸らす。バレたバレたバレた!
「後で教えてね!」
走り始めた真治が振り返って言う。香澄は、冷たく追い払うように手を振る。
「早く、行った方が良いよ!」
遠ざかる真治に答えとは違う助言を与えた香澄は、内心『しまった』と思っていた。真治に放ったはずの言葉が、回転しながら『早く、言った方が良いよ!』に変化し、避けることもできず、自分の胸に突き刺さった。
心の奥底に、完全に封じたはずの黒い想いが、激しく噴出し、香澄を包む。
表紙の破れた音楽ノートは、確かに香澄が持っていた。それは机の一番下の引き出しの宝物コーナーの下の下の一番下に保存され、ここ二年程拝んではいなかった。
それは香澄が母親の恵子に連れられて、四月から通う小学校をスキップしながら訪れた日のことだ。終業式が終わった小学校は既にがらんとしていた。
家の建築が遅れたため、始業式からしばらくは仮住まいの方になることを伝えようと、恵子が職員室に入った。香澄は一人で職員室の前で待つ約束をする。しかし、直ぐに遠くから聞こえて来たピアノの音に気が付き、その音のする方に走り出した。
初めて訪れた小学校は、随分とがらんとしていると思いながら、廊下から教室を一つ一つ見て回った。その間も、ピアノの演奏は続いている。それが『愛のオルゴール』だと判った。
しかしそれは、香澄が知っているのとは違い、ハ長調だった。そして、いつまでも終わらずに続いている。香澄には判らないことだらけで、演奏者に色々と聞いてみたくなった。
遂に音楽室でピアノを弾く後ろ姿を見つけた。意外なことに男の子だった。一心不乱に弾くその姿から浮かび上がる音色は、オルゴールのようにカチカチと、心地良いリズムを刻んでいる。
香澄は嬉しくなった。幸先良く、同年代のピアノを弾く友達が見つかったと思った。男の子が見ていたのは、どうやら手書きのノートのようだ。香澄は益々興味が沸いた。
まだ終わらない『愛のオルゴール』を聞きながら、そっと後ろから近付き、男の子に元気良く声をかけた。
「ねえ、どうして終わらないの? 続き教えてあげるよ!」
そして、返事を待たずに肩から抱き着き、演奏している左手に触れる。
男の子は物凄く驚くと、左手を引っ込める勢いで椅子の右に転げ落ちた。香澄の顔を見ると、失礼にもまた驚いた顔をする。なんとか立ち上がると、何も言わず、顔を真っ赤にしたままノートを残して、音楽室を飛び出して行った。
香澄は残されたノートを見た。そこにはハ長調で書かれた『愛のオルゴール』の楽譜があって、途中までしか書かれていなかった。
パラパラと他のページを捲ると、小曲が沢山あって、一番先頭のページは音楽の授業のような記載があって、表紙はちぎれていた。どうして大切なノートの表紙を破いてしまったのだろうと、それも不思議に思って、聞いてみたいことがまた一つ増えた。そして、持ち主の名前も確認できず、また質問が増えた。判らないことだらけだ。
香澄はノートを見ながら職員室に向かって歩いていた。職員室に着いた時ノートを一通り見終わっていた香澄は、先生に預けるより、自分で返そうと思った。職員室から恵子が何やら書類が入った紙袋を持って出て来たので、それを預かると恵子の目を盗み、そっと紛れ込ませて持ち帰った。
ノートを自分のものにするつもりはなかった。学校に通うようになったらあの子を探して、ちゃんと謝って、返す時に色々質問して、友達になれれば良いと思っていた。
しかし、そんな香澄の願いは何一つ叶わなかった。いくら探しても、名前も学年も判らぬ男の子は小学校におらず、クラスを周って特徴を話しても、違う子が出てきたり、絡まれたり、囲まれたして、怖い思いをしただけだった。ノートの表紙が破れていた理由も、自分のノートが破かれたことで、理解した。
香澄は毎日学校から帰ると、できたばかりの消音室で一人ノートを開き、五本の線に踊るおたまじゃくしをピアノで音に変えていた。それは全部聞いたことのない曲だったが、荒んだ香澄には癒しになった。悲しい曲、明るい曲、色々あったが、みな優しいメロディーの曲だった。不思議と、何故か励まされているような気がしていた。
香澄はやがて、辛いことが増える度、メロディーだけの曲に伴奏を付けたり、和音を足したりして演奏するようになった。そうすることをノートの持ち主も望んでいると信じ、自分自身の救いにもなった。
時々歌詞だけのページがあった。その歌詞に描かれた日本の情景を思い浮かべてドキドキしたり、意味の解らない単語を調べては頷いた。そして、浮かび上がる夢のような知らない出来事について、こんなことがあったら良いなと、想いを馳せた。いつの間にか、これは『自分とのことだ』と信じた。
数曲、歌詞と音符がそろっているページもあって、なんとか歌詞と曲を融合させようと努力した結果も判った。同じ意味の違う言葉を選び、書いては消しを繰り返したのだろう。何度も消しゴムで擦った跡があったからだ。完成した楽譜しか見たことのなかった香澄にとって、それは初めて見た『音楽家が残した苦悩の跡』であり、数多の曲達がそうして生まれて来たのだと、思い至らせるのに十分なものだった。そしてそれは、自分と同年代の小さな音楽家が刻んだものだと、改めて思った。そこには生きた証があった。それに比べ、自分はピアノを弾くだけの、なんてつまらない人間なんだろうと思い、憧れた。
そしてある土曜日、窓の外に謎の男の子を見つけた。あれだけ探していなかったのに、なんと、自室の窓から見える所に現れた。嬉しかった。それに、落ち着いた表情で、記憶に残る表情とは全然違っていた。思い描いてきたノートの持ち主。正に相応しい。そう思えたのだ。
実は別人なのではないかとも思ったが、右手にピアノの絵が入った手提げをぶら下げ、手は女の子のような長い指。やっぱりあの子だと確信した。それでも声をかけたら、また驚かれるのでは、と思うと、声をかけられなかった。
考えて何とか『自分が女だからだ』というのを理由にして黙って眺めた。しかしそれは、単なる願望に過ぎなかった。目の前で、右手に持ったピアノの手提げを左手に持ち替ると、右手は、親友の真衣と手をつないで歩き始めた。そして二人共、見たこともない笑顔で、楽しそうに眼下を通り過ぎて行ったのだ。
いつか見た満開の『桃花の記憶』がよみがえった。そしてそれが、何度も描き続けた夢と共に、一凛と残さず、散った。もう、何も残ってはいなかった。窓の下に崩れ落ち、壁を背にして座り込んだ。目を見開き、ぽかんと口を開けたまま天井を見つめ、孤独と虚無を感じた。声も出せず、暗くなってゆく部屋で一人、ただひたすらに涙が溢れていた。その日はもう、何の記憶もない。
あの日から、カーテンはずっと閉めたままだ。
それでもなお、ノートしか頼るものがなかった。それが日常になっていた。真衣はその後も親友であり続けたが、ピアノと謎の男の子について、何も語ろうとはしなかった。だから香澄も、ノートについて何も言わなかった。何もかも認めたくない。やがて香澄は、悪いと思いながらもそのノートを、自分のものにしてしまっていた。母国という名の異国の地で見つけた、宝物だった。
ノートと随分語り合った。最初は和音のコードを書き込むに留めるも、やがて間違いを朱書きしたり、曲名を考えて付けたり、遂には曲の評価を書き込んだりしていた。それは香澄にとって、素晴らしく楽しい時間であり、恋だった。
香澄の精神が落ち着いた頃、ノートは感謝と共に机の奥深くに隠されていた。何故なら既に全ての楽曲が、練習してきたピアノの名曲達と同列の扱いで、香澄の頭の中に、記憶されたからだった。音楽家の意思を引き継いだ自負もあっただろう。その後は、届かぬ想いと共に、ノートの存在を忘れようと努力した。
それが中学の部活見学で、宿題を忘れた真衣に付き合い、何となく遅れて参加した吹奏楽部に、謎の男の子を見つけた。再び驚きと、喜びに満ち溢れた。今度は手を伸ばせば届く所にいて、話もできる距離だった。名前も直ぐに判った。驚かれて逃げ出す様子もなく、普通に話し、そして普通に笑っていた。それだけではない。何と、普通にトランペットも貸してくれて、普通に教えてもくれると言うのだ。普通に、夢のようだった。香澄は、勇気を振り絞った。
それでも香澄の声は、届かなかった。声をかけようとも掻き消され、声をかけて貰えそうになると、違う人から声をかけられた。目をちらりと合わせて照れるのがやっと。トランペットの順番待ちをしたが、待たせても貰えなくなり、そのお陰で、目も合わせて貰えなくなった。そして、いつの間にかクラリネットになり、夢は潰えた。音楽室では、もう遠くから眺めるだけになった。
再び勇気を出し、音楽室の入り口で挨拶の後に何度も話そうとしたが、いつも後ろから押し出されて、思い描いたような進展は、何にもなかった。
気が付いたら六月になっていて、憂鬱な雨の日が続いていた。香澄はピアノの演奏を邪魔したことだけ覚えていた。まず謝りたかった。
しかし、今更謝って嫌悪されたならば、この心に沸き上がる言い知れぬ感謝の思いと、憧れと、尊敬を伝えることも許されず、永遠の別れという恐怖がやって来るような思いに襲われた。だから勇気を振り絞って目の前に立つも、ただ恥ずかしく、気まずく、運の無さを都合の良い言訳にして、謝罪の言葉を遠ざけていたのだ。
香澄は真治にノートを見せて謝ろうと思った。今できなかったばかりだが、次はきっとできるはずだ。もう真治は屋上にはいなかったが、その後ろ姿を追って、香澄は走り始めた。




