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二人の想い

 公園の木陰にあるベンチに、真治と香澄が座っている。この公園から工事現場が良く見える。ただ、今日は日曜日で工事はお休みだ。長く掘られた地面に基礎工事がされている。置きっぱなしの大量の資材。四角い基礎は体育館か。

「あそこが校門で、校舎があって、やっぱりあれが体育館かな」

「そうね」

 香澄がぽつりと呟く。真治から誕生日を教えて貰った後、重い話を聞かされた。家族だと思っていた人達が、誰一人本当の家族ではなかったこと。しかも真衣は許婚だったこと。でも、真衣と誕生日が近いから、薄々妹ではないと思っていたこと。そんな風に思っていたことを、育ての親にはバレていたこと。

 真治が『何だか一人になってしまった気がする』と言うと、香澄は悲しそうな顔をした。香澄は真治の目を見て『自分は何処にも行かない』と言ったのだが、真治は少し微笑んだだけだった。

 そして、新しくできる中学校を見に来たのだ。香澄が通っていた小学校の隣にできるので、今通っている中学より断然近くなる。新しい中学の話を、香澄は知らなかった。工事現場を見て、現実を突き付けられる。

「開校したらどうするの?」

「判んない」

 香澄は真治を見て答えた。ちょっと不貞腐れている。あと一年以上、楽しい毎日を過ごせると思っていたのに、半年になってしまったのだ。しかし、在校生は、どちらの学校に通い続けても、特例で良い事になっているそうだ。みんな友達がどうするのか、様子見といった所だろう。

 しかし香澄にとって中学は、真衣と真治がいれば良かったのだ。真治は今の中学に通うのは確定している。香澄は真治と同じ学校を選んでも、真治と一緒に通えるのは一年だけだ。その後は、もうどうでも良い。溜息しか出ない。

「別々の学校になっても、家に来てくれる?」

「もちろんだよ」

 真治の返事を聞いて、香澄は真治の肩に寄り添う。半分救われた。そして溜息をつく。その溜息を聞いて、真治がポツリと言う。

「完成するの、一年延期にならないかなぁ」

「そうなったら良いね」

 香澄も同意する。すると真治が両手を前に出し、厳かに祈り始めた。

「祈りましょう。人身事故とかー不祥事とかー自然災害とかー」

 怪しい神父風だ。香澄も真っすぐに座り直すと両手を前に出し、真治の口調を真似て続く。

「そういうんじゃなくてー穏便に工事が遅れてー」

 香澄は真治の優しさを知っていた。

「予定は未定で工事が遅れてー」

 真治は工事現場で良く聞くセリフを入れた。

「やむを得ない事由によりー」

 香澄は最後を大きく伸す。次の祈りの言葉は、真治と声を合わせる。

「開校が一年遅れますようにー。南無妙法蓮華経」

「開校が一年遅れますようにー。アーメン」

 二人は揃って不謹慎な祈りを工事現場に込め、そして揃って溜息をついた。

「神父じゃなかったんですか?」

 香澄はちょっと笑った。真治も笑っていた。

「いや、家は仏教徒だから。新興宗教だけど」

「え?」

 香澄は目を見張る。日蓮宗って、七百年以上経っていましたよね? 真治の感覚が良く判らない。しかし、それはそれで良しとした。流そう。

「高校生になっても、家に来てくれる?」

「もちろんだよ」

「大学生になっても?」

「大学に入れるか判らないけど、もちろんだよ」

「それは私もだけど」

 言葉を交わす程明るくなり、二人は笑った。先のことは判らない。判らないことだらけだ。真治はふと聞いて見た。

「こっちの学校になったら、部活どうするの?」

「多分、辞めると思う」

 香澄は答えると真治に寄り添った。この多分は百%だ。真治はそう思った。

「そうなんだ」

 真治は理由を聞かなかった。判っている。ピアノに専念するのだろう。

「なんか、つまんないし」

「クラリネット?」

 その理由には、思わず聞いてしまった。香澄の返事はない。真治は香澄の返事を待っていたので、風の音だけが聞こえている。

 香澄は返事に答えず、逆に真治に質問する。

「私がこっちの学校になっても、真治さんは続けるんでしょ?」

 香澄は真治に寄りかかるのを止め、真っすぐ座り直すと前を見たままの真治の顔を覗き込んだ。真治がトランペットを吹いていれば、逢いに来る理由になるはずだ。そう思っていた。

「俺も、辞めようかなぁ」

 工事現場を観察するのに前のめりだった姿勢を後ろに反らせ、ベンチの背もたれに寄りかかった。両膝に乗せていた両肘を、腕を伸ばして上半身だけ伸びをすると、左右に真っすぐ降ろしてベンチの背もたれの上に置く。

「え? 辞めちゃうの? トランペット好きなんでしょ?」

 今度は真治が答えない。いつもなら香澄の目を見る真治だが、真っすぐ前を見たままだった。

「どうせコンクール出られないし、九月の文化祭で引退だからなぁ」

 どうやら来年のコンクールも、家庭の事情で出られないらしい。

「トランペットは?」「真衣に譲ろうと思う」

 真治の返事は早かった。もう決定事項のようだ。香澄は絶望する。トランペットがなければ、トランペットは吹けない。当たり前だ。

「そう、な、ん、だ」

 部外者である香澄には、そう言うしかない。さみしくて下を向いた。

「真衣の方が実の父親だし、やっぱり相応しいと思うんだ」

 香澄は顔を上げて真治を見た。それは判っている。香澄にも、真治のトランペットは、中学生が使うようなものではないことは判っている。それに相応しい持ち主であるために、日々努力していたのも知っている。そして今は、西ドイツで聞き馴染んだ音色になって、香澄のために演奏してくれるのだ。それが聞けなくなる。のか。

 香澄は黙って前を向き、椅子の背もたれに寄りかかった。下を向いて深くため息をつく。顔を上げてもう一度真治を見た。真治は前を向いたままだ。

「私は、真治さんのトランペット、聴き、た、ぃ」

 最後はかすれ行く語尾となって、風に吹かれて飛んで行く。そんな声だから聞こえなかったのか、真治からの返事はなかった。ただ、ベンチの背もたれを掴んでいた真治の右手が、すぐ前にある香澄の右肩を捉えると、今度は真治から香澄の方に寄りかかる。そのまましばらく風の音と、やけに落ち着いた呼吸音だけが、二人を包んでいた。

「ありがとう、ね」

 大分遅れて真治の返事があった。香澄は頭を強く真治の胸に押し付ける。やっぱりダメなんだ。お願いしても、ダメなんだ。願いが叶わないのって、こんなに辛いんだ。香澄はそう思った。同時に香澄の右肩のかかる圧力が強くなる。

 悲しみの中にあって、それでも頬に暖かな温もりを感じていた香澄だった。このまま永久に固まっていたい。だめなら、もう少し涙が乾くまでそうしていたい。辛い時に助けになる筈が、一緒に泣くことしか、できそうにない。

 しかし不意に、誰かに顎を掴まれて香澄の頬から温もりが奪われる。我慢していた涙が瞳から溢れ、それは頬を伝わらずに、ゆっくりと目尻から耳の方に落ちて行く。

 香澄は涙が溜まりぼんやりとした眺めの中、誰なのか確認すると、やはり真治だった。目を合わせると、ゆっくりと目を閉じる。涙が今度は目全体から溢れ、頬と耳の方へ流れて行くのが判る。それと同時に、ぽたぽたと落ちて来る小さな温もりも感じられた。

 香澄は思う。真治はトランペットを吹きたいと思っている。求めているのは、私の唇じゃない。それでも香澄は、何も抵抗できないまま、自分の意識まで奪われてゆくのを、何故か心地よく感じていた。


「外でするのが趣味なんですか?」

「そういう訳じゃないよ」

 涙を拭きながら笑う香澄の問いに、真治も笑いながら答える。今更周りをキョロキョロしたが、誰もいない。静かな公園だ。

「じゃぁ、どうして家ではダメなんですか?」

 もう涙が乾いた香澄が、悪戯っぽく言う。香澄の部屋でも消音室でも、二人きりの時間はあったはずだ。しかし、真治はそんな時、香澄に手を出さない。

「抑えられなくなったら、まずいでしょ?」

 真治が悪戯っぽく言うものだから、香澄も笑って、真治をポンと叩く。

「エッチ」

 エッチとは『変態』の頭文字を取り暗号として表記したものである。そう言われても真治は香澄に手をあげない。あげるはずもない。真治は笑いながら、香澄に同意する。

「エッチですか。そうねぇ。この際、香澄さんには言っておくけど、ちょっとね、好き過ぎて、もう、理性がぶっ飛びそうで、怖いんですよぉ」

 そう言って真治は、寂しそうに香澄を見る。香澄はおかしくて笑うしかない。

「真治さんは、大丈夫ですよぉ」

 香澄はパチンと真治を叩く。香澄の理性は、もう飛んだことがある。

「わっかりませんよぉ? 自分でもね、これ、頭おかしいんじゃないかなって、思う時あるし。いっつもね、不思議に思って、あー良いやっ」

 真治は途中で恥ずかしくなったのか、言葉を打ち切った。

「何ですか? 良くないですよ。この際、言っちゃいましょう!」

 香澄は笑顔で真治の腕を掴んで揺すり、言わせようとする。しばらく真治は香澄と目を合わせたまま、何かを考えながら圧力に耐えていたのだが、はにかみながら言葉を続けた。

「えーっとね、んーとね。まぁ、答えてくれなくても、良いんだけど」

「うんうん」

 香澄が満足そうな笑顔になり、真治の腕を振るのを止めた。真治は香澄を見て、ゆっくりと話し始める。

「何で、こんなに好かれているのか、嬉しいんだけど、良く判らない」

 真治はそう言って香澄を見る。意外なことに、香澄は真顔になって黙ってしまった。真治は言葉を続ける。

「良く判らないから、何の拍子に嫌われるかと思うと、凄く怖い」

 香澄からの返事はない。真治はちょっと照れて笑ったが、また真顔になった。

「傍に来てくれる人は、大切にしたい。守りたい。ずっと傍にいて欲しい」

 香澄は黙って下を向いてしまった。

「裏切られたくないし、裏切らないって判って欲しい」

 真治は言いたいことを言い終わったのか、香澄を見て黙る。香澄は下を向いたままで、返事はなかった。

 ゆっくりと香澄は顔をあげる。真治は何か理由を答えてくれるのかと思った。

「結婚してくれるんですか?」

 香澄は笑っている。真治も笑って、それに答えた。

「そんな先のことは判らないよ」

 香澄が期待した答えとは違う。笑うのを止めた。

「駄目なんですか?」

 香澄の質問はもっともである。何年もかけて想い続けた人から、そんな答えを聞いては心中穏やかではない。

「だって、死んじゃうかもしれないじゃん?」

 そんな香澄の心中を全く察する様子もなく、真治は笑ったまま答える。真治にとって、死は身近なものだった。自分自身も死にかけたことがあったし、大好きだった祖母も亡くなった。父もそうだ。自分を守ってくれる人は、みんな死んでしまうのだ。次は誰だ。言えない。しかし、香澄は口を尖がらせる。

「誰がですか? 不治の病とかですか?」

「いや、そうじゃなくてさぁ」

 真治は笑顔のままだ。死について考えたことがある。天国も地獄も、人が考えた虚構だ。毎日トロッコを走らせ、ポイントの切り替え器を握り、どっちを殺すべきか、思考し続けたこともある。トロッコの先には、自分も含め、全ての人間が等しく実験台になっていた。

「世の中、何が起こるか判らないでしょう? 交通事故に遭うかもしれないし、事件に巻き込まれるかもしれないし、変な人に襲われるかもしれないし」

 真治は香澄を見る。香澄は黙って聞いていたが、納得はしていないようだ。一息ついて真治が話を続ける。

「戦争が起きたってさ、みんな自分は大丈夫だって思っていたか、行く所がなくて仕方なかったのか判らないけど、爆弾が落ちて来るその時まで、夢も希望も持って生きていたんだと思うんですよ」

「戦争は、もう起きないですよ」

 香澄が言う。真治は頷く。空襲で焼け死んだ人達の中には、きっと香澄のように、とってもピアノが上手な人もいたに違いない。毎日毎日努力をして、明日を信じていたに違いない。将来の約束をしていた人もいただろう。

「だと良いんだけど。戦争が起きる前も、みんなそう思っていたと思うよ? 歴史から学ぶと」

 香澄は黙ってしまった。

「外国に行って紛争や事件に巻き込まれるかもしれないし。国の代表であるオリンピック選手だって、オリンピックに行って殺されちゃってるし」

「そんなことあったんですか?」

 香澄が驚いて声をあげた。真治は頷く。

「安全なんて気を付け過ぎる位で丁度良いんだよ。香澄さんがそんなのに巻き込まれたら、嫌だし」

 口を尖がらせて真治が香澄を見る。香澄は、自分は大丈夫だと信じた。

「真治さんだって、巻き込まれる可能性はあるじゃないですかー」

 その意見は至極真っ当である。真治は大きく頷く。

「そうなったら、ちゃんと別の人、探すんだよ?」

 香澄を見た真治の顔は、優しくも悲し気な顔だった。香澄は驚いた。

「やだ」

 香澄の短い返事があった。しかし、真治の表情は変わらない。淡々と話す。

「それは嬉しいけど。でもさ、私がもし明日死んだらさ、そりゃー泣いて悲しんでくれるだろうけど、それは青春の一ページってことで、思い出にしてもらってさ。中学、高校、大学で十年でしょ? 二十歳も過ぎてお年頃になったら、好きな人もできて、結婚もするでしょ?」

 そんな問いが真治のやさしさであることは判る。しかし、そもそも真治の話は『明日死んだら』の先は聞いていなかった。一人になるのはもう嫌だ。再び訪れた孤独と虚無が絶望となり、両方の目から涙が流れ出す。

「しまないで」

 多分『死なないで』と言いたかったんだろう。真治は答えない。

 その時真治は、楽しかった時代から苦悩の時代へと遷ろう日々の中で、両親が交わした言葉の数々を思い出していた。それは、誰にも真似できぬ理想の夫婦が心に刻んだものだ。それがどうだろう。今は、ものすごく無常に感じる。

「お袋、再婚するんだって。あんなに仲良しだったのに!」

 真治が香澄の目を見る。突然の言葉だった。それでも香澄には、全ての意味が理解できた。何に対し疑問を持ち、故に恐れ、それを求めないことも。だから、真治の両目から涙が溢れているのも。それを隠さないのも。

 それでも、そんな真治は見たくもないし、考えたくもない! 嫌だ!

「真治さんはしまないで!」

「それはお約束できません」

「じゃぁ、もうそんな話は、しないで!」

 香澄のお願いにも、真治の答えは明確で早かった。そして、それに即座に反応した香澄の悲痛な叫び声が、公園中に響き渡る。

 香澄にとって、真治は特別なのだ。やっと動く真治と付き合えた。長かったのだ。凄く。だから、真治が何故、そんなことを言うのか理解できない。嬉しかったのに。楽しかったのに。まだ、何もしていないのに。これからなんだよ?

「お願い」

 香澄は震えながら真治を掴み、小声で願うのがやっと。真治を失うことなんて、想像するだけでも恐ろしい。

 真治は頷いた。血の気をなくした香澄を見て、頷くしかなかった。

 結局、香澄が、俺を好きな理由は、判らない。それで良い。良いんだ。人の気持ちなんて、判らないものだ。香澄だって、俺のことを判ってはいないのだ。判っていたら、俺のために、こんな奇麗な涙を、流す筈はないんだ。

 真治は香澄に、どうしても、言えなかったことがある。それは、父から託された『大黒柱』になれなかったことだ。トランペットで毎日、父に詫び続けた。

 早く大人になりたかった。しかし現実は、誰も認めてくれず、信じてもくれなかった。だから、店をなくし、家をなくし、家族も散った。苗字が同じ父の墓守でもない。思い出すらも、最初から全部、何にも、なかったことにされた。くっそっ。大切なものを全部失って、また全部与えられた。こんな世界に安住して大人になるのだ。なってしまうのだ。俺はそういう奴だってことを、愛しい人に、言えぬ。言ったら、終わる。それなのに、俺のために泣く姿を眺め、安心する俺は、一体。何なんだ俺は! これで、死ぬことさえ許されぬとは!

 二人は無言で歩き、門扉の前で手を離し、別れた。その時真治が「また明日ね」とだけ、静かに言い残したのを耳にして、香澄は安堵して振り返る。

 真治は、考えた後に出した結論を、絶対に変えない人だから。


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