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真治の過去

 香澄は本校舎を一階まで降りて来た。渡り廊下を通って職員室の前に立つ。誰だって職員室が得意な者はいないだろう。香澄はやっぱり真治に、先生から呼ばれていることを伝えに行こうかなと思った。

「どうぞ。開いてますよ」

 中から村田の声がして香澄はびっくりした。これはもう、入るしかない。

「失礼します」

「おう。こいしーか。珍しいな」

 村田はドアの曇りガラスに人影が見えたので、呼び出した真治かと思っていた。ドアを開けたのが香澄だったので、そう言えば真治が来るときは『ダン』という音で判るのだと思い出した。

 失礼しますと言って失礼なことをする者はいない。いや、真治がいたわと思った。それでも、なかなか失礼なことをして来ない香澄に対して、なんて失礼な奴だなと思う自分に対し、村田は自分で『あれ?』と思った。

「どうした?」

「えっと、クラの先輩から、先生が、小野寺先輩を、呼んで、いるって、伝えて、くれと、頼まれた、の、です、が」

「ですが?」

 村田はゆっくりと喋る香澄に聞いた。

「ちょっと、何か、変だった、ので、言え、なくて」

 泣き出しそうな香澄の様子を見て、村田は職員室の窓を開けた。真治のトランペットが聞こえて来る。村田は三秒程そのまま耳を澄ませていた。

「ニニ・ロッソがいないじゃん。今日は誰だ?」

 そう言うと窓を開けっぱなしにして、振り返り、机の間をすり抜ける。既に泣き出した香澄の横を無言で走り抜けると、職員室のドアを『ダン』と開け、渡り廊下を『ダン』『ダン』と踏み越えて階段を走って行った。

 香澄は村田の顔が涙で歪んでいるのを抜きにしても、今までに見たことのない怖い顔をしているのを見て、しゃがみ込んだ。雑誌を読んで休憩中だった他の女性教員が、急にトランペットの音がしたので顔を上げる。

 村田が窓も入り口のドアも開けっ放しにして、吹奏楽部員も放置して教室を飛び出したことに驚いたが、席を立つと窓を閉め、カーテンも閉めて、香澄の肩を抱きかかえて、椅子に座らせた。『どうしたの?』の問いにも答えず、香澄は震えて、ただ泣くばかりだ。女性教員は、村田の帰りを待つことにして、自席に戻った。


 屋上まで階段を一気に登って来た村田は、もう屋上を走って行く体力は残っていなかった。それでもまだトランペットの音が聞こえていたので、深呼吸しながらゆっくりと歩いた。

 歩き始めてから、駆け付けるより、落ち着いて歩いて行った方が良いと思えて、一人頷く。真治はまだ村田に気が付いていない。

「おーい、少年A」

 村田はそう呼んだ。『小野寺』でも『真治』でもなく。ただの少年Aとして呼びかける。真治もそんなことを言って来るのは村田だけだと判っていたので、トランペットを吹くのを止め、声のする方に振り返った。

「時間ですか?」

「いや、まだだけど、お前さー」

「はい」

 村田は真治の声の調子と、顔色と、目の動きを窺う。真治、お前どうした?

「飛ぶの? ここから飛ぶと死ぬけど、飛ぶの?」

 真治は頭の上に『?』マークを表示させる。

「私は夢も希望もあるので、飛びませんが?」

「あー、じゃぁ良いや」

 真治は頭の上に再び『?』マークを表示させた。黙っている真治の様子を見て、村田は質問を変える。

「じゃぁ、英語どうすんの?」

「頑張ります」

「それじゃ困るんだよ。もうちょっと頑張ってくれよ」

「え?」

「え、じゃないよ。いつも言ってるだろ。廊下は走るな、英語をもうちょっと頑張れ、その硬い頭を何とかしろ。え?」

 村田と真治の両方の頭の上に『?』マークが表示され、会話が停止した。訳が判らず、村田は右手の人差し指で、ボタンを押す仕草をする。

「きゅるるるるるるるるるるるるるる」

「いや、それは巻き戻し過ぎです」

 村田がボタンを離す。それと同時に再生が始まる。

「じゃぁ、英語どうすんの?」

「凄い。ぴったりだな。頑張ります」

「おっ。良し良し。次はもっと頑張れよ」

 村田は頷いた。今回真治の英語は四十点だった。いつもの倍だ。低いけど。

「はい。それだけですか?」

 言われた村田は、腕組みして考える。何で走って来たんだっけ。

「そうだ。今日は誰だったんだ?」

「サッチモです」

 真治が平然と答えた。村田は思わず頷く。

「あぁ、なるほど。そうだな。そんな感じしたわ」

 真治は訳が判らなくて頭を捻った。村田も質問はそれじゃないと考えて、頭を捻る。そして、思い出す。真治への苦情と言えばコレだ。

「そうだお前、まーた、こいしー泣かせたぞ。もー、今度は何だようー」

 村田は真治を指さす。真治は目を大きくする。

「えー、何もしてませんよー」

 両手で村田にすがろうとするも、暑いので止めた。村田は真治の様子を見て思う。おかしい。そんな筈はない。いやしかし、コイツ今度は、ホントーに、なーんにもしていなんだろうなと思った。真治を指さして言う。

「じゃぁ、何もしてないから泣いたんじゃねーのか?」

 村田は手を顎に添えた。サッチモになっていた意味を考え、じっと観察する。

「いやいや、それで泣かれても」

 真治は頭を掻いて困っていたが、村田には理由が判った。まったく。

「相変わらず馬鹿だな。お前、そうじゃなくてさ、心配しているのに、何もさせて貰えなくて、泣いたんじゃないのか?」

 言われた真治は、なるほどーと思い、状況が飲み込めた。

「あー、すいませーん。ちょーとカミングアウト食らってまして、頭クーラクラだった時ですね。うーん。判った判った」

 それを聞いて、村田も状況が飲み込めた。小学校でのことを思い出す。

「あれか! 『実の子じゃ、ないんじゃないかなー』疑惑の、あれか?」

「あー、そうですそうです。正解でーす」

 真治が笑顔で頷く。流石村田である。判っている。村田も笑顔になった。

「で、結局、どこの橋の下だったんだ? 琉山橋か?」

 村田が右手の人差し指を橋の方向に向ける。ここから橋は全然見えないが。

「いや、それがですね、意外にもですねぇ」

「ん? なんだ? 芽吸橋とか、流域が違ったとかか?」

 村田は今度は芽吸橋の方を指さす。もちろん、橋は見えない。

「あー、関伯の水門が閉まっていて、流れが変わっていた。いやいや、そうじゃなくてですね。一旦橋から離れて下さい」

「なーんだ。橋の下で拾われたんじゃなかったのかー」

 村田は両手を腰に当て、口を尖がらせる。

「ええ、そうなんですよ。何と、今の両親が、本当の両親らしいです!」

 村田はちょっと考える。あれ? 確か真治の父は亡くなったはずだ。しかし、直ぐに思い出した。

「ああ、こーの間、家庭訪問した時の方の、ご両親?」

「そうですそうです!」

 真治が人差し指を振りながら笑顔で頷く。村田はある意味ホッとした。

「なんだー。良かったじゃないかー。おん前『親父が浮気したんだ!』とか言って『トランペットを橋から捨てる!』なーんて、言ってたもんなー」

 身振り手振り付き、かつ、声真似までして、当時の真治を再現してから、片目を瞑ると、笑いながら村田は真治を指さす。鼻水ビシャーは再現できない。

「言ってましたねー」

 思い出して真治も笑い、鼻を擦ってから、凄く恥ずかしそうに頭を掻いた。

「だからなー、何度も言っているように『レッド・ニコルズが橋から捨てたのは、トランペットじゃなくて、コルネットだからな!』って。なぁ?」

 村田は、また当時の困った顔に、身振り手振りをしながら説得を再現し、人差し指を真治に向ける。今となっては笑い話だ。

「それも、言われましたねー」

 真治も膝を曲げて体を反らせ、拳銃の形にした右手を村田に指し、片目を瞑って言った。間違いを指摘されて恥ずかしかった当時の苦い記憶もよみがえる。

「まぁ、良かったじゃないか」

 村田はホッとした。そんな村田の表情を見て、真治も頷く。

「そうですね。全然普通でした。ふつーに真衣は実の妹じゃなくて、元許婚で、お袋もふつーに再婚するそうです」

 真治が笑いながら言った。村田は首をかしげ、目を丸くして顎を前に出す。

 村田は初めて務めた小学校で、当時四年生のコイツの家へ、家庭訪問をした時の光景を思い出した。レコードが満載の部屋に案内され、何だコレと思いながら掘り炬燵に入った。目の前の一辺に仲良くピッタリ並んで入る小野寺夫妻と、その隣の辺に、これまた仲良くピッタリ並んで入る兄妹。何で妹まで、なんつー仲良し家族と思った。そこでトマトの箱に山積みされた高根みかんを、競争するように食べながらの、実に不思議な五者面談だった。

 その幸せそうな光景を一枚の絵画になぞらえ、人物に『再婚』『黒リボン』『元許婚』『ウルフ』と表記する。タイトルは『全然普通』だ。

「お? お? お、おう。ふ、普通じゃないか。全然普通だよー」

 村田は目を丸くし、状況を飲み込むのに多少時間がかったが、理解した。

「ですよね。いやー、俺も全・然・普・通って思っていたんですよー」

 真治も両手の平を肩まで上げ、首を横に振り、苦笑いしながら同意を求めた。村田は何度も頷く。そして声が高くなった。

「いやー、全・然・普・通だよ。よくある話だよ。いやー良かったなぁ。本当の親が見つかってー」

 村田も真治の真似をして答える。真治の様子を見て、もう一度ホッとした。で、思い出す。だから、真治への苦情と言えばコレだ。

「あとお前、こいしー何とかしろよ。『旦那』なんだろ?」

 真治は頭の上に『?』マークを表示させる。

「まだですよ? 男は十八、女は十六、倍にしても足りてませんよ?」

「今はもう、倍にしたら足りるだろー。まったく、相変わらず計算できねー奴だなー。お前はー。微分方程式できたって、そういうの計算できないと、ダーメだからなー」

 冷静に村田から突っ込まれた。

「あ、そうでした」

 真治はうっかり小学生に戻っていた。屋上の風が一気に年月を進ませる。

「早く行け! 午後練始まるぞ!」

「判りましたー」

 真治はトランペットをケースに入れると、赤い糸を辿りながら風のように走り出し、屋上を去って行った。

 その後ろ姿を見送って、村田は冷や汗を拭う。そして、考えを改める。真治は『失う』ということが、どういうことなのかを知っている。飛ぶ訳ないじゃないかと。自分がそんなんでどうするんだと叱咤した。

 村田は自分の顔を、両手で思いっきりパチンとやって、毅然と歩き始める。


「痛ってー。あ、やべっ。鼻血ぃ」


引用

ジャック・ローズ、メルヴィル・シェイヴルソン 映画『5つの銅貨』

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