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赤い糸

 今日は曇っていた。だから屋上で昼食を済ませた香澄と真衣は、揃って音楽室に入った。今日は何となく緊張感が緩んでいるのが判る。お盆も近いし、みんな実家に帰るのだろう。夏休みの練習に出席する部員も少なくなっていた。

 音楽室の入り口で香澄と真衣は手を振って別れる。各々の行先が違うからだ。真衣は仲間が棚から出してくれていた自分のトランペットを見つけると、その席に着席した。

 真衣のトランペットは金色に輝く真新しいトランペットであったが、決して高いものではない。一応説明しておくと、『バック』のトランペットは最低でも六ケタのお値段で、小中学生には高値の花だ。大体が『ヤマハ』の三万から八万弱位の初心者用で十分だ。

 リコーダーの千五百円に比べれば高いが、クラリネットの二十万に比べればお安い。まぁ、そもそも上を見たらキリがない。高ければ良い音が出るとは限らない。それがトランペットだ。

 香澄は真衣のトランペットの音を聞きながら、クラリネットの棚に向かう。そこで自分のクラリネットを取り出し、いつもの壁際の席に落ち着いた。

 一応香澄の名誉の為に言っておくと、真衣が仲間から大切にされていて、香澄がそうでもない、という訳ではない。トランペットは高い棚に収納されていて、男子が全員分のトランペットを降ろすのに対し、クラリネットは低い棚に収納されていて、自分の分だけを出す習慣となっていたからだ。

 それにどの道、香澄のクラリネットを手にする者はいないだろう。奏法が違う上に、素人目に見てもお高そうなクラリネットに、何かあったら大変だ。

 香澄が席まで行くと、クラリネットの上級生が香澄に気が付いた。

「こいしー、午後練の出席取ったら『旦那』の所に行くんでしょ?」

「はい」

「認めたよ。まぁ良いや、あのさ、村センが呼んでたから、言っといて」

「判りました」

「よろしくー。あぁ、クラ、今日はこれで全員だからー」

「判りました」

 お盆の時期は、流石に家の用事が優先だ。ご先祖様に恨まれたら、それはもう部活所ではない。だから、午前だけの人、午後だけの人がいる。しかし、コンクールも近いので練習は続く。

 香澄はクラリネットのケースから手帳を取り出すと、今いるクラリネットのメンバーを確認し、手帳に記載する。その足で音楽室を出ようとすると、フルートの山本から声をかけられた。

「澄ちゃん、これもよろしくー」

 香澄が受け取ったのは、フルートの出席者名が書かれたメモだ。夏休みも最初の頃は山本も、真治の所へ直接報告に行っていたが、真治を一部の部員が『旦那』と呼ぶようになってからは、メモを香澄に渡すようにしていた。

 香澄は音楽室を出発。美術室の前を通り右に曲がると、そこは真治がニニ・ロッソになっている階段ホールだ。音が凄く良く響くのだ。扉を開けて廊下に出ると、夏の暑い空気が顔に当たる。壁のない変わった造りの新館の廊下を進み、渡り廊下を行くと本館になる。

 右に曲がって直ぐの階段を登ると屋上だ。階段を登ってもトランペットの音がしない。それでも香澄は真治がどこにいるのか判っていた。

 香澄が屋上に行くと、何人かの吹奏楽部員がまだ昼食後のまどろみを楽しんでいた。その集団に香澄が会釈をすると、一瞬話を止めた。向こうを向いていた部員まで振り向き、香澄を見て会釈をする。

 部員達はさっき『元妻』の真衣と『新妻』の香澄が仲良く屋上を去って行くのを見て『あの二人、よく友達でいられるよね』と、不思議がって、色々好き勝手に言って笑っていたのだが、そこへ『新妻』が戻って来た、という訳だ。

 普段なら日の丸が揺れる旗竿を越えて、もっと奥の方に、真治は一人でノートを見ていた。それはさっき三人でお弁当を食べた時に、ホチキス留めした紙袋を真衣から渡されたものに違いないだろう。

『お母さんから』

『何?』

『ノートじゃないの? 重さからして』

 真衣と真治の会話を香澄は思い出した。真治が先に行ってとお願いしたのを思い出して、立ち止まる。戻ってくるのがちょっと早かったと後悔した。

 真治がノートを閉じると表紙が見えて、それはいつもの『トランペット交換日記』であった。真治はそのままうつ向いて小さくなっているように見える。意外だ。いつも感じる不思議な自信に満ちたオーラは無く、かと言って近寄り難い程の神経質さもなく、機嫌良くスキップしながら踊るでもない。もちろん、眼光鋭く見つめるでもない。どうしたのだろう。

 香澄はどこかで、確かに一瞬だけ同じ雰囲気を感じたような気がしていたが、それがいつどこでだったか判らない。今の真治を一言で言い表すとしたら、それは『絶望』に思える。しかし、香澄はそんな筈はないと打ち消す。

 真治がちょっと離れた所に立っている香澄の姿に気が付いた。香澄はそれを見て『良いですか』という感じで体を右に傾ける。真治が頷くのを見て、香澄は真治に駆け寄って行く。

 真治は真っ青な顔をしていたが、口調だけはいつもの調子だった。

「どうしたの?」

「フルートとクラの午後練出席者です」

「ああ」

 真治は縦にして座っていたトランペットケースから立ち上がり、横にして蓋を開ける。手に持っていたトランペット交換日記をケースに入れ、代わりに出席簿と書かれたノートを取り出し、蓋をした。そして今度はそれを机代わりにすると、胸のポケットからボールペンを取り出す。

「どうぞ」

 真治がノートを見ながら言うと、生返事と習慣で動く。焦点の定まらない目の横で、香澄はいつものように出席者の名前を読み上げた。そして、真治が『えーっと』と言いながら名前を探すのを手伝う。

「ありがとう」

 全員の名前をノートに記録すると、真治はボールペンを胸のポケットにしまった。真治の顔はやはり青い。さっきまで普通に会話を楽しみ、香澄の作った卵焼きを食べていたのに、だ。

「大丈夫ですか?」

 それは、いつもだったら自分が言われている言葉であったことに、香澄は気が付く。嫌な予感がする。遂に真治は壊れてしまったのか。理由は不明だ。

「うん」

 力ない返事。駄目だ。真治の様子がおかしい。どうしたら良いだろう。

「卵焼きに当たりました?」

 何聞いているんだ。いや、一応、普通の病気かもしれない。真治だって、お腹壊したり、風邪をひくことも、ないな。えー、いつも元気だったのに。

「いや、大丈夫」

 そうでしょう。だとしたら、何? 真治はそのまま前を見ている。香澄はいつもと違う真治に、何もできない自分が、急に残念な存在に思えて来た。

「何でも相談して下さいね。私、口硬いですから」

 悩んだ末の言葉だった。それでまた『大丈夫』と言われたら、もう次の言葉はない。香澄は真治を見つめて祈った。

「大丈夫」

 一番聞きたくなかった言葉を聞いて、香澄は下を向いた。自分に対して無力を感じる。そのままゆっくり回れ右を始めた自分に驚き、忘れていた孤独と虚無が沸き上がって渦巻く中、何度も自分に『止まれ』と叫んだ。

「じゃない」

「え?」

 香澄が我に返り振り向くと、真治がやはり、青い顔をして立っている。

「大丈夫じゃない」

 香澄を何とか呼び止めた真治が、通しで言い直す。香澄の気持ちは赤い糸の一本分だけつながっているようだ。しかし香澄は、やはり次にかける言葉が見つからない。そのまま数秒間の沈黙があって、風が吹いた時だった。

「今度相談させて」

 香澄と目を合わせないまま真治が言ったのを聞いて、香澄は小さく『はい』と答え、もう一度回れ右をする。悲しい。歩き始めた自分に、どうして離れて行くのか、理由を問い続ける。


 真治が何に悩んでいるのか考えろ。自分の悩みは人に見せないし、相談もしない。直ぐに答えを出す。そして、その答えを変えない。じゃぁ何に悩んでいる。簡単だ。他人のことだ。真治は赤の他人の不幸は気の毒には思うが、あまり関心がない。むしろそれを教訓として、親しい人がそうならない様にする。

 じゃぁ、誰だ。誰の悩みだ。それは親しい者だ。家族か。そうだ家族だ。真衣のことだ。私じゃない。私じゃない? 私、じゃ、ない、のか? 真治は私のことも家族と言ってくれた。それに、真治は私に相談させて欲しいと言ったのだ。私のことなんじゃないか? でも、私がなにかしたのだろうか。真治が見ていたノート、書いたのは真衣のお母さん。いや、真治のお母さんでもある人だ。私、何かやらかしたのだろうか。真治をあんなに動揺させ、絶望する何かを。判らない。全然判らない。


 言い知れぬ恐怖を感じた。小指から伸びる赤い糸が風になびく度に、香澄は振り返った。真治はそこにいた。下に降りる階段に辿り着くまで何度も振り返ったが、真治は動かずにそこにいた。

 階段付近は既に無人となっていて、屋上は香澄がいなくなれば、最後の一人は真治のはずだ。香澄は既に自分が最後なのではと思って、もう一度階段から覗き込んだ。真治が動き始めても、もう手が届かない。風に揺れる赤い糸が香澄にはまだ見えている。しかしこんなに長い赤い糸が、果たして何の役に立つのだろう。どうすれば良かったのか判らないが、少なくとも、ここにいる自分が許せない。数秒後、一生後悔することになるかもしれないのに。

 だから真治が動き始めた時、香澄は全身に力が入って微動だにできなかった。声にならない声に苦しみながら目を見開くと、真治はトランペットをケースから出し、いつものように構える。直ぐに爆音が聞こえて来た。

 香澄は一抹の不安を抱えつつ『今度相談させて』と言ってくれたことを心の支えに、階段を降りて行った。途中で『村田先生が呼んでいる』を伝え忘れていたことに気が付いて立ち止まったが、屋上に戻るのを止め、職員室に向かうことにした。


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