チ・ヤ・コの海岸物語
香澄は自室に戻ると、入り口の扉につっかえ棒をした。机の椅子をステレオの前まで押して来ると、レコード盤の蓋を開ける。
そこで香澄は、レコードを持ってきていないことに気が付き、カバンのある机の横に戻る。カバンを開けてレコードの入った紙袋を取り出すと、一気に引き裂いた。早くレコードが聞きたいのだ。透明なセロファンも破り捨てた。
ジャケットからレコードを取り出してレコード盤に乗せる。回転するレコードを見て、思い出したようにヘッドフォンを取り上げると、ジャックを挿した。左右を確認して自分の頭に被り、レコード針を掴む。
一呼吸してそっと針をレコードに落とすと、椅子に腰かけた。すると何故かカモメの鳴き声が聞こえて来て、香澄は近くに港がある浜辺にやって来た。自然系の違うレコードを買ってしまったかと思って、ジャケットを確認。正しい。『チャコの海岸物語』である。
その内に前奏が始まったので、それがカモメの声を録音したものではなく、楽曲であることが判った。しかし、真治が演奏した曲とは違って聞こえる。もしやと思って、もう一度ジャケットを確認。もしかして『チヤコの海岸物語』という別の曲を買ってしまったのかと思ったが、そうではないらしい。
疑問は直ぐに解決した。真治が演奏したのは、歌が始まった所からだったのだ。香澄は安心した。テンポの良い曲で、その辺は真治が演奏したのと同じだ。
しかし聞こえて来た歌声は随分訛っているように聞こえて、最初のカモメの音が混ざっているのではないかと思えた。英語ともフランス語ともドイツ語とも違っていて、結局それは日本語であった。注意深く聞いていたのだが、聞き逃してしまった香澄は、ジャケットの裏面に歌詞を発見し、それを読む。
香澄は理解した。これは愛しい『茶子』さんへの気持ちを歌ったものだ。そう考え、理解している内に、今度は波の音が聞こえて来て、曲は終わった。
香澄は友達が笑っていたのをちょっと気にしていたが、そんなに笑うことだったのかと思った。恋の歌なんていくらでもある。なんだか、コソコソレコードを買って来たのが、凄く馬鹿らしくなった。
そうなると今度は、真治のトランペット演奏について、音楽家としての評価がしたくなる。もう一度針を最初に戻し、歌詞を見ながら曲を聞き始めた。真治の演奏と横顔を思い出し、ここは原曲と違ってトリルを入れたな、とか、ここは煽ったな、とか思っていた。
そう思って聞いていると、真治の間違いに気が付く。赤ペンを持っていたならば、歌詞の『チャコ』の所に印が付くだろう。香澄は口をへの字に曲げ、審査員の気分で『減点』と呟いた。
原曲では二音で『チャ・コ』と演奏していたが、真治はそこを『タッタタン』と三音に分解し、まるで『チ・ヤ・コ』と演奏していたのだ。もう。香澄はもう一度ジャケットを見たが、それは確かに『チャコの海岸物語』である。ほらねぇ。ジャケットを持ったまま、両手を顔の上で横に上げ『オーノー』のポーズを取り、ミスを残念に思った。肝心な所を。まったく、真治らしくない。
『澄ちゃんさ、本当は『カ・ス・ミ』だっけ?』
笑いながら話していた友達の顔が、急に浮かんだ。香澄はびっくりして、椅子から立ち上がり、ジャケットを放り出した。椅子が勢いで後方に吹き飛ぶ。
真治が香澄のことを『澄ちゃん』と呼んだことはない。香澄は椅子に座ろうとして後ろにひっくり返り、バタバタした後に座り直すと、落としたジャケットを拾い上げた。そして歌詞の『チャコ』を『香澄』に読み替えた。嘘でしょ。
香澄がもう一度レコードの針を落とす時、指先が相当震えていた。やがて曲が始まると香澄は自分を落ち着かせようと深呼吸をした。カモメの鳴き声から歌の始まりまで、三十秒余りの時間がものすごく長く感じる。
そして聞こえて来た歌声が、思い出されるトランペットの音色のようにも聞こえた。そうなるともう、真治の声にしか聞こえなくて、香澄は下を向いた。いくら深呼吸をしても落ち着かなくて、とても恥ずかしくなった。あり得ない。この歌を爆音で屋上から、ご近所中に鳴り響かせたのだ。香澄は真治に負けたと思った。だって、こんな大きな声で『好き』だなんて、とても言えない。
それでも香澄は何だか嬉しくて、身悶えしながら、何度も何度も、真治の声を聞いていた。
八月十二日(金)
屋上で演奏してくれた曲のレコードを買いました。
演奏と曲を聴き比べて判ったのですが、
名前の所を私の名前に変えませんでしたか?
曲名知らないって言っていたのに嘘つきました?
屋上で聞いていたクラメンバーに指摘されて笑われてしまいました。
全然怒っていませんが、責任取って下さいね。
そうだ。ピアノ伴奏しますので、家で歌って下さい。歌詞はお貸しします。
八月十三日(土)
良く判りましたね。流石でございます。
ご指摘につきまして二点誤りがございます。
一つ。変更した歌詞はお名前だけではありません。
次のフレーズを『返したくない』に変更しました。理由は判りますよね。
一つ。曲名は聞いていないので知りませんでした。
『カ・ス・ミ』さんが困った時は必ず守りますからね。
どうぞ、遠慮なくあてにしてくださいませ。
引用
桑田佳祐『チャコの海岸物語』




