儀式
香澄の部屋の消音室に、真治と香澄は二人で入室していた。香澄が真治に『譜面めくり役』をお願いし、恵子にも話して了解を得たからだ。恵子はそんなことにいちいち許可を求めてきた香澄に笑って許可したが、きっと真治が口添えしたに違いないと思っていた。
「じゃぁ、そろそろ帰るね」
「うん」
香澄が隠しごとをしている。真治にはそれが判る。でもそれを指摘してしまうと、香澄が凄く恥ずかしがるだろうと思っている。いつもなら『もうちょっと』と言って来るのに、今日はあっさりと了解したのもそれだろう。
「あら、お帰りですか?」
「お邪魔しました。失礼します」
真治は恵子にお辞儀した。
「いいえー。香澄の練習にお付き合い頂き、ありがとうございます」
「とんでもないです」
真治は右手を振って恵子にお辞儀した。真治は香澄の指が、鍵盤で華麗に踊るのを眺めるのも好きだった。
「私、門まで送るー」
「はいはい」
「失礼します」
恵子は早々にリビングへ戻って行った。香澄は真治の腕にぶら下がって、玄関から門までくっついて来る。そしてバラのトンネルの所で、門扉に手をかけた真治の手を払い落とし、真治を引き留める。そのまま黙って真治を見つめると、真治もちらっと周りを気にしつつも、香澄を強く抱き寄せる。
それは花火の夜から、バラのトンネルを潜る度に続けられ、二人の間では儀式のようになっていた。今日はこれで、何度目だろうか。
「また明日ね」
真治を離した香澄が、バラのトンネルを玄関へ戻りながら言う。切れ長の目は、横目でも瞳が潤んでいると判る。
「トランペット、駅まで持って来『取りに来て!』
真治の言葉を打ち切るように、笑顔で否定した。香澄にも真治の言っていることが正論だと判る。朝の往復二十分は貴重だ。しかし、真治にはどんどん押して行かないとダメなのだ。待っていては、一向に距離は縮まらない。
真治との間には、まだ随分と距離がある。香澄には、そんな気がしていた。何となく判るのだ。真治は優しくて、親切で、紳士的で、他に決してなびかない。本当に大事にしてくれているとは感じる。その上、自分が何と言われようとも、香澄の嫌がることはしないし、他人の悪口も言わないし、愚痴もこぼさない。普通、そんな中学生はいない。いつか、本当に壊れてしまうだろう。
香澄の前で、弱音を吐いて欲しい。悩みを打ち明けて欲しい。一緒にアッカンベーをして欲しい。でも、どうすればそうしてくれるのか、判らない。ましてや、仮にそうなったとしても、どうしたら良いかも、判らない。それでも、真治が考えている以上に、真治のことを大切に思っていると、判って欲しい。今まで一度たりとも『好き』と言えていないが。だって、恥ずかしいもーん。
バラのトンネルの出口で香澄は光を浴びると、真治の為に長く降ろした髪をかき上げて、赤くなっている耳を見せた。ゆっくりと手を降ろしながら真治に正対し、赤くなっている頬もしっかりと見せた。
「お願いっ」
小首をかしげ、悪戯っぽく微笑み、右手を腰の所で小さく振りながら小走りに行く。横目で真治に目をやり、角を曲がりながら髪を揺すった。やっぱり今日も『好き』と言えなかった。
耳を澄ますと、真治が門扉を開ける音が聞こえる。真治は今日も、香澄が視界から消えるまで、見つめてくれていたに違いない。
香澄は赤くなった耳と頬を髪で隠し、深呼吸をしてから玄関にそっと入る。そして恵子に会わないように、自室へ駆け込むのだった。




