花火の夜・真治の気遣い
真治がリビングに戻ると、四人分の食事の準備が済んでいて、若人二人の着席待ちとなっていた。真治は申し訳なくなって、ちょっと小走りになる。いや、この家のリビング、小走りできる程広いのだ。
「ゆっくりで良いですよ。圭太さんが質問責めにしたみたいで、すいませんね」
「ははは。すまないね。さ、ここに座って」
笑顔で圭太が右手で示したのは、今度は圭太の正面の席だった。どうやら今度は正面から向き合わなければならないらしい。
「失礼します」
そう言って指定された席に、真治は一礼して座る。質素な上に上品さを兼ね備え、優美な反りが入ったその椅子は、重厚な見た目通りの重さが感じられた。座面はふかふかだ。
「夕食を家で済ませるの、真治さんの提案なんですよ」
「そうか。焼きそば食べながら花火見るの、俺は好きだけどな」
「あなたはそれで良いかもしれませんが『香澄さんにそんなことはさせられません』って」
そう言うと恵子は笑顔になり、真治を見た。
「座れればまだ良いですが、桟敷席取っている訳ではありませんし」
苦笑いして真治が答える。恵子は、また圭太に向かって言う。
「ほら、『ご両親も来られるなら、桟敷席を取りましょうか』って言って下さって。ねえ」
また恵子が真治を見た。真治は直ぐに頷く。
「はい。でも、思ったより高くて、中学生には無理でした」
「そんな、お気持ちだけで結構ですよー」
右手を振りながら笑い、恵子が真治に言う。真治は苦笑いのままだ。
「桟敷席かー。一遍座ってみたいなー」
「あらやだ。もう、この人はー。帰って来るのか来ないのか、はっきりしなくて、ちらし寿司の予約さえ困らせていたのに、何言ってるんですか!」
「いてて。痛いよ恵子さん」
恵子が圭太を軽く叩いたものだから、圭太が声をあげる。
「でも、何で東京の花火大会じゃなくて、反対側なんだい? いてて。痛いよ恵子さん」
再び圭太は恵子に叩かれた。
「もうー、あなたはそんなだから『能天気圭太』って言われるんですよ」
「え、俺、そんな風に言われているの?」
「そうですよー。クラリネットのシュナイダーさんとか、オーボエのジョセフさんとか、あら、ごめんなさいね。内輪の話で」
話の途中で恵子が真治に謝った。
「いえいえ」
真治は苦笑いして答えた。
「香澄が草履を履くの初めてだって言ったら、駅から歩いて近い所、調べて下さったのよ」
「暑いですけど、足袋も履いて下さいね」
思い出したように真治が付け足す。それを聞いて、恵子が深々と頷いた。
「ちゃんとレースの足袋を履かせて、素足が見えないように、丈を調整致しました」
にっこり笑って真治に報告した。実は、真治が全部恵子にお願いした事項である。お店も予算も紹介した。
「色々と細かいんだねぇ」
能天気圭太が口を尖がらせている。恵子は呆れた。
「ちゃんと香澄のこと、考えて下さっているんじゃないですか。ねえ。真治さん。もう、演奏終わりの夕方に雨の中オープンカーで香澄を連れ出して、みんなで心配してたら、タイヤパンクして遅くなって、悪いことしたとちょっとでも反省しているかなって、思っていたら『良い景色見れた』とか『海見えた』とか『草笛で口切った』とか、もう、プロとしてどうなのって思いますよ。おまけに香澄を泣かせて帰って来て風邪を引かせて、あの後、大変だったんですからね? ほんとにまったく、能天気なんだから。真治さんと、大分違いますからね! ねえー」
最後だけ恵子に見つめられて、真治は苦笑いをしながら頷く。話の殆どは良く判らないことだ。その間、能天気圭太は一言も発せず、口を尖らせて両手の平を上にして、首をかしげるだけだった。
「お待たせしましたー」
上機嫌の『被害者A』こと香澄がリビングに戻って来た。今度は物音ひとつさせない、上品な入場である。歩く度に頭の陰からちらちらとかんざしの飾りが揺れているのが見える。恵子が両手でパチンと鳴らした。
「さぁ、いただきましょう。あ、香澄さん、そこに前かけ出しておいたから、汚れないように付けておきなさい」
恵子は立ち上がり、急いで前かけを取ると、初めての浴衣で動きが鈍いであろう香澄に、前かけを付けようとした。
「大丈夫よ、お母さん。これなら汚れないわ」
香澄はちらし寿司を指さし、前かけを断る。真治が席を立って香澄の椅子を後ろに引き、香澄を座らせた。
「ありがとう」
香澄が恵子の方を向かず、真治にお礼を言った。
前かけを持ったままの恵子は、ポカンとした顔になり、もう一度ちらし寿司を見る。食卓に醤油を出していたのだが、真治が用意したちらし寿司の具は、全部味が付いている食材が乗っていて、醤油は必要なかった。つまり、浴衣が汚れるような食材が、一つも入っていなかったのだ。恵子は真治が『お寿司ではなく、ちらし寿司にしましょう』と言った意味を、ようやく理解した。
「ほら、こういう所なんですよ。圭太さん!」
すると圭太は、恵子の顔を見ながら食卓の醤油を手に取り『どういう所なのか判らない』という顔のまま、ちらし寿司に醤油をひと回しかける。
「だから、味付いてますって!」
恵子が不注意圭太に忠告する。
「え、だって、醤油出てたからー」
口を尖らせて圭太が言う。もうかけちゃったじゃん。
「お好みの味にして下さい」
さっきから苦笑いの真治が、慰めにならない言葉をかけた。
「日本食に飢えてたのよね!」
香澄の言葉が一番優しい。圭太は『流石娘だ!』と思った。
「その通り!」
能天気圭太が、醤油を持ったままの手を振り回し、香澄の方を指さそうとしたので、恵子に本気のゲンコツを食らった。星が出たかは観測していない。
香澄と真治は、恵子の怒りの表情を見た瞬間、威厳無くゲンコツされるであろう圭太を見ないように下を向き、顔を見合わせて、苦笑いをしていたからだ。




