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花火の夜・愛のオルゴール

 時として目の前で起きていることが、現実ではないのかと思うことがある。それは悲しい時もあれば、嬉しい時もある。悲しい時であれば夢であって欲しいと願い、嬉しい時であれば、長く続いて欲しいと願う。人間とは実に都合が良い生き物だ。

 真治は目の前のお茶に、茶柱が立っているのを眺めていた。果たしてこれは、良いことが起きる前兆なのだろうか。湯呑を覗いていると『今のお茶は機械でカットしているから、枝なんか幾らでも入るわ』と、笑いながら言う父の顔を思い出し、一口飲んだ。

 楽しそうに会話する圭太と恵子、そして香澄。新調した浴衣を身に纏い、髪をまとめている。着物とは違う柔らかな木綿と涼しげな柄。聞いていた赤い帯に、赤いかんざしが髪に色を添え、浴衣姿がとても絵になっている。

「では、ピアノお借りします」

 真治は覚悟を決めて立ち上がった。香澄と目が合う。何となく、初めて会った時の目よりも若干大きくなった気がする。階段を走って降りて来たからか、息遣いが荒い。真治はその息遣いを見ると、ふと思い出して、一人納得した。

 真治はピアノの前に座ると、椅子の高さを合わせた。三人の観客は既にダイニングテーブルに座っていて、こちらに視線を送っている。その姿を見て、真治はピアノを弾く前の儀式的なことを始めた。

 果たして、自分は、この家族を幸せにできるのだろうか。この家族は、自分を受け入れてくれるのだろうか。ふとしたことで、悲しませてしまうことはないだろうか。自分を人として認めてもらえるのだろうか。

 深く息をする。そして思い浮かぶ事柄をつかまえては、ひとつ、またひとつ、心に広がる紺碧の海に沈め、そしてその光も当たらぬ奥底にある箱に詰め込み、蓋を閉め施錠する。

 全てのざわめきが消え、目を開けると、張り詰めた緊張感だけがそこにある。真治は心のぜんまいを巻いた。もう一度ゆっくりと息を吸う。そして、鍵束の中から一本の鍵を取り出し、幾つもの箱の中から、何故か間違えずにその箱の前に立つ。

 幾つ月も眠っていたその箱を開けると、紺碧の海に光が射す。そして、真治の両手に合わせてうねり、風が吹き、雲が沸き上がる。

 真治は『愛のオルゴール』を嬰ハ長調で弾いていた。左手の助走から始まった調べは、やがてカチカチと動く歯車から打ち出される、小さな機械音を真似て右手に引き継がれて行く。いつもならキンキン鳴る高音も、ベヒシュタインのやさしい音色で響く。本当に素晴らしい音色だ。

 三人の聴衆はにこやかな顔をして真治のピアノを見守っていた。確かに、真治が心配することなど、何もなかったに違いない。そこには、演奏家と観客が共有する、幸せの時間が流れていたからだ。



 真治はピアノでオルゴールを表現していた。二つの楽器は金属音による音色としては一緒であるが、オルゴールは弾き始めたら、ぜんまいが止まるまで同じメロディーを奏で続ける。

「すいません。これ終わり方、忘れてしまいまして」

 真治が香澄の方を向いて語る。オルゴールは止まらない。

「おや、それは大変!」

 圭太が言った。苦笑いである。

「じゃぁ、素敵なピアノを聞きながら、お寿司、頂きましょうか」

 笑いながら恵子は席を立ち、台所へ向かう。香澄だけは何も言わず、笑顔のままピアノを聴いていた。実に、何年振りだろうか。真治のピアノを初めて聴いた、あの日のことを思い出す。これから楽しみにしていた花火だと言うのに、あの日に帰りたいとさえ、思ってしまう。帰ったらきっと、今度は。

 真治はぜんまいが止まるように、ゆっくりと演奏を止めた。拍手をしていたのは香澄だけだったが、真治にはそれで充分だった。香澄に深々とお辞儀をすると、恵子と圭太は本当に演奏中に食べようとしていたのか、ちらし寿司をテーブルに置いて、遅れて拍手する。真治は一度上げた頭を再び二人にも下げた後、ピアノに振り返り、蓋をして一礼。

「今お茶淹れますからね。どうぞ座って下さい」

 恵子が真治に笑顔で案内した。真治はもう少し時間があると思って、言う。

「あ、すいません。お手洗いお借りします」

「私も!」

 真治が言うと香澄も立ち上がる。真治が驚いて『どうぞ』と手で合図すると、香澄は『二階に行く』と言うかのように指で上を指した。

 キッチンに向かっていた恵子が振り返る。

「どうぞー。香澄さん、大丈夫?」

「うん」

 恵子に促されて、二人は動き始めた。真治がリビングのドアを開け、香澄を誘導する。香澄は膝をちょこんと曲げてほほ笑むと、真治の顔を見つつ、かんざしの飾りを揺らしながら通り過ぎた。香澄の後を追って真治も廊下に出ると、扉のガラス越しに目が合った恵子に会釈して、リビングの扉を閉めた。

 先に廊下に出ていた香澄が、トントンと階段を登った所で振り返る。笑顔だった。そして、真治にそっと話す。

「やっと弾いてくれた!」

 その言葉の意味を真治は判っていた。判っていて、知らんぷりした。ちょっと気恥ずかしい思い出がよみがえり、心がざわつく。歩みを止めず、歩きながらちらっと香澄の方を見ると、笑顔の香澄がまだこちらを向いていて、階段を登り続けている。真治にはその笑顔が、初めて会った時の香澄に見えた。着ているものも髪型も、少し大人びた顔だちも違っていたが、確かにそう見えた。

 そんな風に見られていることをつゆとも知らず、香澄はそのまま階段を登り続ける。真治は香澄の顔が見えなくなった所で、立ち止まった。

「あの時は、ごめんね」

 そう言ってお手洗いに逃げ込んだ。香澄はその声を、真治が見えなくなった背後から、足音よりも下からであるが、確かに聞いた。歩みを止め、一段戻る。笑顔で下を見たが、あの時と同じく、もう真治の姿は見えなかった。

「私こそ、ごめんね」

 香澄は見えなくなった真治に向かって言った。それはあの時と同じく、真治には届いていなかった。いや、真治はお手洗いの中で、確かに聞いた。ただ、真治はあの時も、香澄が悪いとは思っていない。

 軽い気持ちでしたことを取り返すのに、これほど長い年月が必要だったのか、香澄にも判らない。むしろ、何の偶然が積み重なり、取り返すことができた。この、今日の喜びの方が、俄然大きかった。

 香澄の心の奥底に横たわり、年月をかけて大きくなったしこりが、一歩あるく度にゆっくりと消えて行く。それが今度は暖かな温もりに変わって、みるみる同じ大きさまで育った。しかし、それは元の大きさを超え、成長を止める気配がない。それにつれ香澄は、自分の心音が今まで聞いたことがない程、大きく強くなって行くのが判った。

 香澄は下を向いた。顔の上半分と下半分が、別々の表情をしている。そう思った。鏡はないが香澄にはそれが、濡れた手の感触で判った。

 誰もいない廊下に立ち止まり、深呼吸をしてまた歩き始めた。


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