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長い日曜日・往路

 万事繰り合わせた日曜日。見慣れた道を歩く。丁字路を右。左は小学校。家並み、電柱、看板、マンホール、そしてカーブミラー。全て見覚えがある。

 駅から徒歩十分。時計を見た。十時二十分。香澄との約束の時間には十分だ。

 次の角を曲がる時、頭に思い描かれる景色がある。黄色いテントが張り出した店。台の上に並ぶ野菜や果物。かごに積まれて並んでいる。それは昔ながらの竹製かごに見えるが、実は緑色のプラスティック製のかごである。しかも使い古して割れている箇所もあるため、二枚重ねなのだ。

 店頭では、買い物袋を肘にかけた客と楽し気に話す母。おつりを返す時、万単位の父。配達に出かける不愛想な兄。シャボン玉に飽きたのか、二階の窓からシャボン液をぶちまける妹。忙しく出入りする店員と、納品に来る業者のおじさん。そんな風景だ。物心付いた時からそれが日常だった。

 カーブミラーに映る自分の姿を見ると、その頃とは大分違う。ランドセルは既になく、肩からかけた黒い革製のカバンと、ニットジャケット姿。茶の革靴。

 こつこつと足音をたてて角を曲がると、そこに見えて来た現実は、思い出の欠片もない。ミニ開発された新しい住宅地があるだけである。

 店舗兼住宅が解体されて更地となった時、隣の駐車場と合わせて随分広く感じた。その様子も見たはずだったが、記憶はなかなか書き換わらないものだ。それが、大小数件の家に分割・販売されて、風景は様変わりした。もう、そこに店があったことを示すものは何もない。

 真治は表札に『小石川』と書かれた白い家の前を十時二十一分に通過した。

 白い家沿いに角を右に曲がる。奇麗に整えられた日当たりの良い庭があり、それを眺めながらゆっくり進むと、隣との境界に樹齢十三年の桃木がある。

 真治はカバンから「トランペット」と書かれたノートを取り出した。『進藤壮』と書かれた看板の下に八つのポストが並んでいる。真治は一〇一号室にノートを入れた。カタンと音がした。窓から見える一〇一号室は電気が付いていて、漏れ出るテレビの音と笑い声が聞こえて来た。回れ右をして、元の道を戻った。

 十時二十七分三十秒。約束の時間より早いが、許容範囲であろう。真治は表札『小石川』の横にある呼び出しボタンを、人生で初めて押した。

「はーい」

 女性の声がした。

「小野寺です」

「中へどうぞー」

 そう言って女性の声は途切れた。真治は背丈ほどもある頑丈そうな門扉を開けると敷地に入り、振り返ってそっと閉めた。門扉の直ぐ上からバラでできたガーデンアーチが続いている。その下を潜り抜ける時は昼間でも暗くなる。まるでバラのトンネルだ。葉が繁茂し緑のアーチが陽を遮っているからだ。時期的に花は咲いていないが、花が咲いたらきっと良い香りがするに違いない。

 バラのトンネルを抜けると左に折れ、滑り止め加工のされた大きな御影石の小道を歩く。青く整った芝生。レンガで縁取った庭は、思い出とは全く異なる。そんなことを考えていると、玄関まで辿り着いた。

「いらっしゃい」

 声がして扉が開いた。中からきちんとお化粧をした、上品な井出立ちの女性が出迎えてくれた。

「おはようございます」

 真治はパナバ帽を脱ぎ、頭を下げて挨拶をした。

「おはようございます。今ピアノを弾いているので、呼んできますね」

「はい」

 手で中に入るよう招き入れられ、真治は玄関まで入った。吹き抜けの玄関。外から見ても豪邸だと思っていたが、中に入ってそれを更に実感する。黒い七宝焼き風タイルの一つ一つが良く手入れされ、ステンドグラスからの光を反射して光っている。

 正面に階段が見える。階段は途中で左に曲がっていて、飾りのついた縦格子の隙間から二階までの階段が覗き見える。きっとその先に、香澄の部屋があるのだろう。しかし女性はそちらには行かず、横の扉を開けた。

 すると、軽やかなピアノの音が聞こえて来た。奥の方にやけに長い気がする大きなグランドピアノがある。難しい場所なのか、急にちょっとたどたどしくなった。それはそれで微笑ましい。頑張れ。

 女性はまた真治の予想を裏切り、ピアノの所まで行かず、壁に設置されたインターフォンを取ると、スイッチを押してしゃべり始めた。

「小野寺先輩いらしたわよ。降りてらっ、あら、切れたわ」

 女性が口をへの字に曲げてインターフォンを置き、リビングから玄関まで戻ってくる。すると二階の方からバタンという音がして、ドタドタという足音が聞こえて来た。競争と言うには明らかにハンデ過多であろう。女性の方が玄関に先に着き、音のする方を見上げる。真治もそちらを見ていた。

「気を付けなさい」

 やや呆れる声をかけるが、聞こえている様子はない。白いスリッパの上に白い足。急ぎ降りて来る膝がスカートの揺らぎの中見え隠れしている。やがてそれは白基調のワンピースであることが判って、サイドは夏らしい水色の細かいストライプが入っている。やがて背中まで伸びた髪が見えて、肩の辺りにひらひらとした飾りが見える。右手で頭の麦わら帽子を押さえ、左手で手すりを軽く触りながら来た。斜めにかけた赤いバックが腰の辺りで跳ねている。

 踊り場まで階段を駆け降りると、くるりと九十度回転した。笑顔の香澄だ。首元はしっかりと白い襟に隠れているが、肩は素肌が見える。香澄の右肩から左に向かって斜めに下げた赤いバッグの紐が、一層服を押さえ付け、回転する勢いで赤いバックが香澄の左手に現れた。

 上からの勢いそのままに階段を降りようとした香澄だったが、目の前に女性と真治が見え、慌てたかのように見える。麦わら帽子を押さえていた右手を下に降ろすと、慌ててスピードを緩め、一段づつゆっくりと降り始めた。足首をひょこひょこ使い降りて来るので、体全体が縦に揺れている。

「おはようございます」

「走らないの」

 いつもの香澄に戻って上品に挨拶をしたが、女性にはたしなめられた。たまに見せる悪戯者の顔になり、直ぐにまた戻った。

「おはようございます」

 真治は今の注意シーンは見なかったことにして、香澄にも頭を下げ、挨拶をした。

「木白のローズデパート? でしたっけ?」

「はい」

 女性の問いに真治は答えた。木白は終点の駅。隣町の繁華街だ。

「そう、気を付けて行ってらっしゃい」

 そうは言っても、ローズデパートは駅ビルなので、安心して買い物ができるのだ。香澄は玄関に用意してあった靴を履いている。背伸びをしたハイヒールのようだ。

 靴を履いて立ち上がると、香澄の目線が上がって、真治の目の少し下に来た。

「大丈夫なの?」

 女性が心配そうに言う。

「うーん。ちょっとぐらつく」

 笑顔であるが、不安げでもある。隣にはちょっと低めのパンプスがある。

「どっちが良いと思いますか?」

 真治に聞いて来た。すらりとした香澄の足を見て、真治は考えた。こういう時、大体答えは決まっている。

「初めて履くの?」

「はい」

 上機嫌で香澄は頷いた。その場で足を慣らそうとしている。

「こっちは?」

「これはいつものです」

「そう」

 真治はよく考えて香澄に助言しなければならない。香澄は玄関の鏡で全身のチェックをしている。

「じゃぁ、いつもの靴にしておく?」

「こっちも大丈夫です」

 まぁ、そうだろうね。やはり説得は難しい。

「文房具以外も見たいのであれば、歩くから歩き易い方にしたら? 足が痛くなったら楽しめないよ?」

 さぁ、どうでしょう。お嬢さん。

「んー。大丈夫なんだけどなぁ」

 香澄は独り言を言って、右足を振りながら考えている。

「奇麗な所見せてもらったし、その靴は練習した後にまた見せて」

 真治がそう言うと香澄は足を止めた。

「判りましたー」

 元気よく返事をすると、最後に鏡の前でポースを決め、慣れない様子でハイヒールを脱ぎ始める。ピン、ピンと留め具を外したものの、足が支えを失ってよろけると、真治の腕を掴む。

「あ、ごめんなさい」

 と、言って手を離すでもなく、そのままハイヒールを脱ぐと、真治の腕を掴んだままパンプスに履き替えた。

「ほら、そっちでも良いじゃない」

 その様子を見ていた女性が言った。

「うん」

 香澄も返事をした。どうやら前々からどっちにするか決めかねていたらしい。香澄はもう一度鏡に向かってポーズを決めた。これで準備完了である。

「では、お嬢さんお預かりします」

「お母さん、傘は?」

 どうやら女性は香澄の母のようである。多分そうだとは思っていたのだが。真治は知らないのだが、実は名を恵子と言う。

 頭を下げた真治を見て、先に恵子が答えた。

「あら、よろしくお願いします。靴箱の中でなくて?」

 香澄は玄関の壁面一杯の大きな靴箱にある扉の内、縦長の扉を開けた。

「あった」

 短く言って、服の色と同じ白と青の日傘を取り出した。雨傘と違って、レースの縁取りが付いている。パタンと靴箱の扉を閉めて香澄は振り返った。今度こそ準備完了である。

「では、おやつにはお返しします」

 真治が恵子に再び頭を下げた。

「あら? そう。じゃぁ夕方から練習できるわね」

 思ったより早い帰宅時間の宣言だったのか、恵子は香澄に向かって言った。

「おかぁあさーん」

 思惑が違ったのか、今日それは勘弁して欲しかったのか、香澄は傘を持っていない左手を縦に振った。

「ほほほ。慌てずにゆっくりしてきなさい」

 真治は玄関のドアを開けて押さえながら、香澄の通過を待った。そして恵子にもう一度頭を下げた。

「いってらっしゃい」

 玄関でのごたごたを見送った恵子は、閉まった扉の鍵をかけると、直ぐにリビングに戻った。ピアノのレッスンがまだ続いていたからだ。

 真治は時計を見た。十時三十六分丁度。うん。時間通りだ。


 バラのトンネルを二人は門扉まで来た。真治が門扉を開けて、香澄を通す。

「閉める時、熱いと思うので、気を付けて下さいね」

「はーい。結構な温度だよね」

 内側から触っていても、黒い鉄の門扉は熱い位だ。表側は更に熱くなっている。真治はちょんちょんと門扉を触り、熱くない所を探してそっと門扉を閉めた。太陽が二人を照らす。セミの音が聞こえたら、もう夏だろう。

 誰もいない今は静かな住宅街を歩きながら、香澄は日傘を広げた。それを腕を伸ばし、真治をチラ見して、二人で入りたがっている。いつぞやのように。

 しかし、雨傘に比べてそれは、とても小さかった。

「持ちましょう。涼し気な青だね」

「はい。ありがとうございます」

 真治は微笑んで右手を伸ばしたが、香澄の手に触れてしまい、慌てて左手で傘の柄の真ん中辺りを持った。香澄が手を離すと、右手で持ち直して二人の間に固定する。香澄は目を瞑り、勢い良く左手で真治の右手を捕まえた。その時少々恥ずかしそうにした香澄であったが、驚きつつも真治が見た香澄の目は『離しませんよ!』と語っている。眉毛を八の字にしつつ、微笑んで前を見た。

「ピアノの練習していたの?」

「聞こえました?」

 おかしいなという感じで香澄が答える。さり気なく、右手も左手に添えた。

「いや、お母さんが言っていたので」

「なるほど」

 香澄は納得した。二階のピアノの音が聞こえるはずがないからだ。

「お母さんピアノの先生なの? さっき生徒さんいたね」

「はい。一階で練習しながら待ってたんですけど、生徒さんが早く来たので、自分の部屋ので練習しなさいって」

「ピアノ二台あるの?」

「はい。二階のはアップライトですけど」

 まるで、グランドピアノだけが、ピアノのような言い方である。

「お嬢様だねー」

「そんなことないですよ」

 香澄が右手を口に当ててホホホと笑った。そんな笑顔を見ながら、後ろを確認して交差点を渡る。次の角を左に曲がって、真っすぐ行けば駅だ。

「自室にピアノがあるってすごいよね。でも、音が漏れそう」

「防音になってますから大丈夫です」

 真治は驚いて香澄を見た。香澄は得意げな顔をしている。

「すごいね。弾き放題じゃん」

「毎日三時間位練習してます」

 真治はまた驚いた。自分の腕に手をかけている香澄の白い指は、とても細い。

「手、つりそうだね」

「曲にもよりますけど、最近はつらなくなりました」

「人間何事も慣れなんだねぇ」

 真治は左右を確認し、道路を横断した。香澄もくっついて来る。往路と違って復路は、香澄を連れて歩くのでゆっくりだ。想定した電車には間に合わないだろう。どうせならと、真治は歩く速度をもっと遅くした。

「帰ってからも練習が待ってるの?」

「はい。日曜日は六時間以上練習するので」

 声のトーンが落ちた。歩く速度も。さっき母親が言っていたのはこのことだ。

「ああ、それは悪いことしたね」

 真治は済まなそうに言う。香澄は慌てた。買い物を中止になんて、させない!

「いえいえ。良いんです」

 香澄は笑顔を作って、右手をパタパタとする。昨日二人共『行けたらで』と言っていた理由だ。真治は思った。きっと買い物にかこ付けて、息抜きをしたかったに違いない。香澄の予定が調整可能と見込んで考えた。

「じゃぁさ、おやつにケーキ買って帰ろうか」

「そうしましょう!」

 香澄は嬉しくて本当の笑顔になり、元気良く答えて真治を見つめた。真治は考えていた。きっと三十分位はピアノの練習を後ろ倒しにできるだろう。それに、初めて訪問したお宅に、手土産の一つも持って行かなかったのを後悔していた。まさか玄関まで入るとは思っていなかった、というのを言訳にした。

 真治はリビングの大きなピアノのことや、防音効果についてもっと聞いてみたかったが、香澄が笑顔を使い分けてまで、ピアノのことを忘れたそうにしているので、その話はここまでにした。


「日記帳はどんなのにするの?」

 並木道の歩道を歩きながら真治は聞いてみた。

「かわいいのが良いです」

 憧れがあるのか、香澄が答えた。真治は首をかしげて聞く。

「今風? それともクラッシック?」

「クラッシックって何ですか?」

 日記帳の分類学を極めている訳ではないのだが、何て説明しようかと考えた。

「えーっと、中世ヨーロッパの暖炉の上に置いてある感じで、分厚い表紙に金の淵がくるくる付いてて、カギが付いている感じの?」

「そういうのも良いですね」

 香澄には通じたようだ。前を見て、もう書いている所を夢見ているようだ。

「あるかどうかも判らないけどね」

 真治は笑って香澄を見た。香澄はまだ、夢から帰ってこない。

「でも、そう言うのを買ったら、羽根つきのペンとか、インクとか、インクを吸い取るごろんごろんする奴とか、買わないとだめかも?」

 香澄が閉じた右手を一本づつ伸ばして一、二、三まで数えた後、手で半円を作り、丸い方を下にして揺りかごのように動かす。

「そんなにお金持ってきてないや」

 冗談だとは判っている。左右を見て細道を渡った。

「ごろんごろんする奴って、売ってるんですかね」

 香澄が聞いて来た。真治は頷く。

「お店の人に聞いて見る?」

 真治が悪戯っぽく聞いた。思わず、香澄が聞き返す。

「ごろんごろんする奴って言うんですか?」

「そう。どっちが言う?」

 にやっと真治が笑う。香澄が真治の腕を下に引っ張ると、日傘が揺れる。

「えー、言って下さい」

「言ったら、買わないといけなさそうじゃん」

「買って下さい。私あれ使ってみたいです」

 香澄が笑顔で答えた。真治は『本当?』という顔をする。困った。

「じゃぁ、誕生日とかの記念日にあげるよ」

「え、要らないです」

 急に主義を変えた。真顔になる。香澄は今まで貰った誕生日プレゼントの中で、一番謎な物体だと思ったからだ。それに、貰えるならもっと素敵な物だ。

「絶対、要らないです」

 念押しで香澄は言った。腕を左右に揺すって日傘を揺らす。真治は笑っているだけで『了解』の返事がない。真治の目を見て、香澄は微笑む。ごろんごろんする奴には悪いが、二人ともそれを買う気はないことだけは確信していた。

 駅前広場に来た。ロータリーはなく、タクシー乗り場の白線が引かれているだけである。二人は忙しく出入りするタクシーを避け、牛丼屋の前を通って切符売り場に到達した。正面にスーパーマーケットの『アイランドA』が見える。

 真治は右手に持っていた日傘に左手を添えてそっと畳んだ。香澄はずっと掴んでいた真治の右手を離し、右手で日傘を受け取ると、パチンと細く縛ってカバンの紐に引っかけた。駅まであっという間だった。

「百九十円だって」

「はい」

 上に掲示された料金表を見た真治が言うと、香澄は値段を確認するでもなく、バックから小さながま口を取り出した。『お先にどうぞ』という感じで真治が券売機を手で示したので、香澄は二百円を投入し、百九十円のキップを買った。カランと十円玉が出て来る。

「かわいいがま口だね」

 出て来た十円玉をしまう所を見て真治が言った。

「江ノ島という所に行って買ったんです」

 香澄が嬉しそうに差し出す。真治は覗き込むだけで手には取らなかった。

「色々猫ちゃんだね」

「はい」

 掌よりも小さな小銭入れで、それでもしっかりとしたがま口である。小さな猫が何匹もごろんごろんしている。

「彼氏と行ったの?」

「違います。家族とです」

「本当?」

 疑っている訳ではない笑顔で真治が言うので、香澄は言い返した。

「本当です。どうしてですか?」

「だって、そこは有名なデートスポットだから」

「そうなんですか?」

「うん。大体熱々のカップルが青春しに行く所だよ」

 真治にしてみれば、自分の腕に絡まっていた女性が、そんな所に行って欲しい訳がないだろう。でも、何か言ってしまった。香澄は目を大きくした。

「私、彼氏いません!」

「そうなの?」

 そう言いながら真治は判りやすく笑顔になると、ジャケットの内ポケットから茶封筒を取り出した。そしてガサガサと指を突っ込んだ。

「ありゃ、聖徳太子だ」

 真治はそう言うと、一万円札が使える券売機を探すと、手に持った一万円札を投入した。香澄は真治を追い掛ける。『彼女いません』の返事が欲しかった。

「どこでも行けますね」

 全てのランプが点灯した券売機を見て、楽しそうに香澄が言った。真治は百九十円のボタンを人差し指をくるくるさせながら探している。

「江ノ島も行けますか?」

「この券売機じゃ買えないかな。今日は木白までだけどね。何か両替しに来たみたいで申し訳ない」

 と、言いながらも百九十円のボタンを押す。九枚の伊藤博文と、じゃらじゃらした小銭と、最後に申し訳なさそうに百九十円のキップが出て来た。

 真治はまず九人の伊藤博文達を回収して茶封筒に戻す。その間に香澄が小銭とキップを回収してくれたので、真治は茶封筒の入り口を香澄の方に向けて、たるまないように支えた。香澄は小銭を数えるでもなく、一枚も落ちないように両手で支えながら、差し出された茶封筒に向け、じゃらじゃらと入れる。

 多分百円玉八枚と十円玉一枚であろう。「はい」と最後にキップを渡してくれて、真治は「ありがとう」と受け取った。

「お財布使わないんですか?」

「え? あぁ、今日はね」

 真治は小銭が出ないように茶封筒の入り口を二回折りたたむと、内ポケットに戻す。香澄は茶封筒に『交際費』と書いてあったのが見えた。『私達、交際しているんだわ』と思って嬉しくなり、それでそれは良しと言うことにする。

 改札を真治、香澄の順で通り、真治が端に寄って立ち止まる。香澄もトコトコと横に来て立ち止まった。真治が定期入れを出してキップをそこにしまったので、香澄も一応持って来ていた定期入れを出し、キップをそこにしまう。

 丁度木白行きの電車が来た。反対側だ。そのホームに行くためには階段を登って降りないと行けない。香澄はどうするんだろうと思って、真治の顔を見る。

「乗りますか?」

「次のにしよう」

 真治は顔色ひとつ変えず、さも当然のように言った。

「急ぐ旅でもないし」

「はい」

 階段の所で真治が『支えにするか?』という感じで右手の平を上にして差し出す。その手を香澄は嬉しそうに左手を被せるように掴むと、二人は階段を登り始める。そして、線路の真上にある窓から空を見上げ、手を離して夏の雲を指さした。金網の隙間を覗くように立ち位置を変えると、自然に寄り添う。

 やがて、二人の下を電車が走り出し、のどかな住宅街を加速しながら遠ざかって行く。その様子を二人は足を止めて眺めていた。やがて電車は先頭から順に左へカーブして、見えなくなった。

「じゃぁ、椅子で待ちますか」

「はい」

 二人はどちらともなく手をつなぐと、階段を降りて行く。そして、誰もいないホーム端にある椅子を目指し、そこへ仲良く座った。

「一番乗りだね」

「そういうことになりますか」

 真治の意見に、香澄は笑う。そういう考えはなかった。面白い人だ。

「次の電車、クーラーあると良いね」

「そうですねぇ」

 香澄の顔が苦笑いに変わる。真治の前で、汗はかきたくない。

「これ使いますか?」

 香澄がキップを買う時に閉じた日傘を、真治の目の前に差し出した。

「そうしよう」

 真治は右にいる香澄の左手から日傘を受け取り広げると、香澄が日陰になるように右手で持つ。香澄は、真治の左側に陽が当たっているのを見ると、長椅子に座る位置を真治の方に寄せて座り直し、右手で少し日傘の角度を調整した。

「これ涼しいね」

「そうでしょう」

 香澄は満面の笑みを真治に振りまいた。二人は次の電車が来るまでの十分間、そのまま会話を楽しんだ。日曜日の昼間、電車に乗る人は少ない。二人の隣に座ろうとする乗客はもっと少なく、皆無だった。

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