テスト期間・ピアノの練習
「たっだいまぁー」
「ただいま戻りました」
いつもの調子で玄関ドアが開いた。本当に恵子は、香澄が呼び鈴を押した場合が判るようだ。
「おかえりなさい。ありがとう。あら、一緒に持って来るなんて仲良しなのね。真治さんもありがとうございます」
恵子が玄関で二人を出迎えた。真治は恵子に会釈していると、そこに恵子の手が伸びて来る。
「じゃぁ、ここからはお母さんが一人で持ちましょう」
そう言って買い物かごを受け取った。二人は手が軽くなる。
「あ、大丈夫ですか? 持って行きましょう」
真治は手を離したものの、恵子に声をかけた。香澄は楽しい買い物が終わって、上機嫌で靴を脱いでいる。
「大丈夫ですよ。これくらい。どうぞトランペットでも、ピアノでも練習していて下さいね」
片手で買い物かごを持ち、もう片方の手で二回の消音室を指した。
「いやいや、お母様!」「え、ピアノの練習?」
真治は驚いて否定したが、香澄が聞き漏らす筈もない。直ぐに振り返った。
「この間、香澄さんがピアノを弾いてる時に、一階のピアノを弾くには練習しないとダメだって、言ってらしたのよー」
恵子は笑いながらそう言って、リビングへの扉を開けた。
「いやいや」
そうじゃないでしょお母様。二階のピアノもベヒシュタインだなんて、聞いていませんよ! そう心の中で思っていても、もう遅い。
「そうなの! じゃぁ、私、練習に付き合ってあげる!」
もー、この人には、練習の練習が必要だって言ったよ? あら二階行くの?
「ダメよ。香澄さんはお母さんのお手伝いね」
香澄の親切を恵子は許さない。香澄は階段を登り始めていたが、恵子に呼び戻された。セーフだ。ギリセーフだ。
「えぇえぇえぇー」
香澄はさっきまでの上機嫌から不機嫌になって、階段を降りて来た。
「ささ、二人共手を洗ってらっしゃい。今日はレシピ見ながらカレーに挑戦しますから」
恵子が笑顔で言う。真治は驚いた。
「よ、よろしくお願いします」
香澄の後に続いて、洗面所に向かっていた真治がお辞儀した。
「お母さんのシチュー美味しいから、きっとカレーも大丈夫だよ」
先を歩いていた香澄が振り返って言った。不満げな顔である。
「遠慮なく弾いて下さいね」
リビングに消えながら恵子が言った。
「ありがとうございます」
真治がそう言うと、恵子は笑顔になって頷いた。
「えー、私も聞きたいー」
香澄が駄々を捏ねると、恵子の顔がシュッと戻って来た。
「駄目よ。男の人はそういうの恥ずかしいんだから。ねぇ」
ちょっと怒っている顔から、笑顔になって真治に言う。
「あ、はい」
真治は顎を出すように返事した。そうだ。その通りである。
「夕食できたら内線電話、鳴らしますから」
「判りました」
洗面台に横並びで一緒に手を洗った真治と香澄は、階段の所で別れた。真治が笑顔で階段から手を振っても、香澄はそれに手を振り返すことはなく、膨れつつも笑顔、という不思議な顔で、台所に向かった。
真治は真っ直ぐ香澄の部屋に行くと、部屋の電気を付けた。落ち着いて良く見ると、この部屋にベッドはなく、消音室の反対側にドアがある。真治は納得した。なんだ、もう一部屋あるんかーい、と一人突っ込み、金持ちは違うなぁと思った。
正面には窓があって、カーテンがかかっている。消音室へ向かう前に、真治はそのカーテンを、レールから動かないように摘まんで隙間を開けた。レーザービームを警戒してのことだ。覗いた外は大分暗いが、窓の下には桃木があった。それはいつか見た風景でもあり、初めて見た風景でもある。真治は見上げた窓が、ここだったのかと納得すると、カーテンを放した。生き延びた。
消音室に入ると一礼してピアノの蓋を開けた。白と黒の鍵盤が真治の前に現れる。真治はピアノを見ると思う。作った人も、弾く人も、器用なことをするものだ。これを自由に弾きこなせたなら、どんなに素敵なことでしょう。
真治は『トーン』と一音鳴らす。とても良い音だ。ちょっと素早く動かして鍵盤を連打してみる。そこで真治は驚きの顔になった。
「う、嘘だろ? なんだこれぇ。反則じゃーん」
どんなに連打しても、ピアノの音が一つづつ聞こえるのだ。まるでグランドピアノではないか。これ、実は壁の向こうまでピアノが埋まっているんでしょ。と、思って覗いて見たが、そうではない。真治はちょっと分解したくなった。
真治は両方の手で自分の頬を叩いた。人の大事なピアノを弾かせて貰うのに、分解はよろしくありません。
真治は気を取り直して『朧月夜』を弾き語りながら、何を弾こうか考えて上を向いた。そして、はっと気が付いて消音室の入り口を見る。香澄の笑顔がシュッと隠れるのではないかと思ったが、そんな様子はない。真治は一人笑った。
そんな笑顔も直ぐに消える。真治は『朧月夜』に違和感があった。なんだか説明し辛いのだが、音が合っていない気がする。そんなはずはないと思いつつも、両手でドレミファソラシドを三往復弾いた。やっぱり違和感がある。
腕組みしてしばらく考える。真治はピンと来た。そして、またまた興奮してきた。これはもしかして、伝説の『中全音律』で調律されているのでは?
ピアノの調律は大別して二つある。どんな曲も弾ける様に調律した『平均律』と、ドレミファソラシドが一番美しく聞こえる様に調律した『中全音律』だ。ほとんどのピアノは『平均律』である。
トランペット等他の楽器は演奏しながら微調整ができるので、自然と『中全音律』になる。ピアノは演奏中にチューニングができないので、事前に合わせたらそれっきりだ。だから、オーケストラとの共演で『特定の一曲』を演奏するためだけに、曲の調に合わせたドレミファソラシドが一番美しく響く調律をすることがある。これがきっとそれだ。
真治は考えた。きっと今練習している『ショパンのバラード三番』用だ。
「確か♭が四つ。多いよ。一つ目がシだから、二つ目がシラソファミのミ、三つ目がミレドシラのラ、四つ目がラソファミレのレ。四つ目のレの場所がファになる音階だな。えーっと、レをファとして、ファミレド、ラ長調、あれ、これは三個目の♭にヒットしているから、半音下げてラ♭長調。こんな所かい。ショパンさん、何でこんな所から始めた。で、ここを左手で押さえといて、えーっと、今度はドがハで、ハニホヘトイロハのー、何でイロハのイからじゃないのかねぇ。あ、判んなくなっちゃった。えーっと、ハニホヘトイーのイで、半音したーの、♭だから変で、だから、変イ長調」
正解。
「でだ。ここからドレミファソラシドを弾く」
真治は人差し指一本で、頑張って弾いてみた。
「凄い! ビンゴだ! まじか、すんげぇ」
真治は再び鍵盤を見て考えた。目が輝いて来ている。
「するとですね。このドから上がってドレミのミから半音下がってミ♭。ハ長調のシか。んでこのシをソと見立ててソファミレドのド。ハ長調のミ、ここだ!」
真治は探し求めた二つのド(ミ)とソ(シ)を交互に何度も弾いた。
「いたぁ! ウルフは実在したんだ! あのお母様は、すんごい人だ!」
真治は消音室で叫んだ。『中全音律』の弱点である『ウルフの五度』を初めて体験した。そして真治は、その場所をよく見る。
「あれ? これはハ長調だと普通にミとシなんですけど。ダメなんじゃね?」
真治は両手を膝に乗せた。もう変イ長調の主音も、ウルフの住処も判らない。そして真治は、ウルフのように唸り声をあげて悩む。ハ長調の曲は、全滅だ。
結局『愛のオルゴール』をハ長調から全体的に半音上げた、嬰ハ長調で弾くことにする。直ぐに左手の助走が始まった。そして、右手の旋律が加わる。
真治は久し振りにピアノの調べを楽しんだ。その調べは、これまでで一番楽し気で、オルゴールと言うより、むしろピアノだった。
真治は『愛のピアノ』を弾いていたのだ。
目の前の電話が鳴るまでピアノを弾いているつもりだったが、横目に見えていたドアが、ゆっくり、ゆーっくり開くのが見えて、思いっきり吹き出した。
ドアがちょんと動いた。なるほど。寝そべって、下の方から入って来るらしい。今のはちょっと当たってしまったに違いない。その内にあの角から、香澄の顔が覗くだろう。一体どんな顔をして覗くのだろうか。
真治はピアノを弾くのを止め、にっこり笑ってその角を見つめていた。すると予想通り頭が見え、おでこが見え、目が見えて、目が合った。吹き出しそうになって尚も見ていると、今度はゆっくりと引っ込み、向こうに隠れて行った。しばらくすると、ドアから普通に香澄が入って来た。
『ごはんできましたー』
元気良く悔しそうに笑って、右手の拳をあげている。多分そう言っているに違いない。真治も消音室で右手をあげ「はーい」と返事をした。しかしそれが香澄に届いていたかは、定かでない。




