テスト期間・夕食のお誘い
廊下から恵子が入って来た。消音室の前で椅子に座り、ドアに顔を近付けている不思議な香澄を見て、恵子もその上から顔を近付ける。
「トランペットの練習をしているの? あら『グリーンスリーブス』ねっ」
恵子が意味深に香澄を見る。見られた香澄も、その意味が判っている。
「アンコールで真治さんが選曲したのっ! 私からリクエストしてないからっ!」
扉を見たまま小声で答える。真治がこちらを見ていないのを素早く確認し、恵子を睨み付けた。真治はトランペットをやや上に向け、最後のフレーズを吹いている。多分恵子が来たことは判っているだろう。恵子は笑っている。
「そんな、何曲もリクエストして。あなた、練習の邪魔しちゃだめよ?」
「邪魔してないよー」
小声で話す親子の会話は、真治には聞こえない。香澄が文句を言いながら足をバタバタしている。笑いながら恵子が聞き返す。
「邪魔して出されたんじゃないの?」
香澄は足を止め、口を尖がらせた。まだ邪魔していない。何にもしていない。
「密室に二人はダメなんですってー」
「あらあら。お堅いこと」
そう言ったものの、恵子はちょっと感心する。しかし、香澄の恰好を見て、手を口に当てると、香澄に小声で聞く。真治の演奏が終わった。真治はトランペットを降ろして一礼したが、何やら扉の向こうでは、親子の争いごとが勃発している感じがする。困った表情で眺めるだけだ。
「あなたが変なこと、したんでしょ?」
「してないよー」
そう言って香澄は高速で足をバタバタさせながら、両手で恵子をポカポカした。されつつも笑いながら恵子は香澄を椅子ごとどかし、消音室の扉を開けた。
「練習できそうですか?」
「はい。一家に一部屋欲しい位です」
真治は親子喧嘩の原因が判らないので、心配顔である。
「ほほほ。いつでも練習しに来て下さいね。この子、最近ピアノの練習、さ・ぼ・り・気・味・だからー」
「おかぁあさーん」
怒れる香澄の抗議も、恵子は無視している。真治は驚いた。香澄がピアノの練習をさぼっているから、怒られてしまったのだろうか。凄く気が引けた。
「夕飯食べて行って下さいね」
「えっ、いやいや、大丈夫です」
香澄は笑う。真治は右手をブンブン振った。早く帰って、香澄にはピアノを弾いて貰わないと困る。それに家に帰ったら、何て言われるか。その方が怖い。
「遠慮しなくて良いですよ。香澄さん、お使い行ってきて頂戴。あと一人、レッスンがあるから」
香澄は渋い顔になった。お使いは嫌いではない。しかし、今はないだろう。
「はぁいぃ」
嫌々香澄が答える。香澄にしてみれば、デート中に皿洗いをお願いされるようなものだ。真治も同じ気持ちで、困ったなと思った。
「あのー、でしたら、お電話お借りして、家に連絡しても良いですか?」
恵子は頷く。そしてピアノの上にある、インターフォンを指さした。
「どうぞ。その電話で、外線かけられますよ」
消音室の所にあるのはインターフォンではなかったようだ。真治は驚いた。早速トランペットをケースの上に一旦置くと、一礼して受話器をそっと上げる。
「ゼロを最初に押して下さい」
「はい。すいません。お借りします」
真治は返事して、ピポパと自宅に電話した。呼び出し音が鳴る。二回目。
(はい。毎度ありがとうございます。マルエイです)
ドスの効いた声。父上だ! 真治は自然と『気を付け!』の姿勢になる。
「真治です!」
(おう、どうした)
「今日、夕飯をごちそうして頂くことになりましたので、母上にお伝え下さい」
(おう判った。靴屋から聞いたけど、恵子先生家か? 失礼のないようにな)
「はい!」
(母さん、真治、友達ん所で飯食うってー)
(あらー、そう。今日、ハンバーグだったのに)
(やったー、お兄ちゃんの分、私もぅらいー。ヒュー)
(今日ハンバーグらしいけど良いのか?)
「はい!」
(何だ? 熱あんのか? 本当に良いのか?)
「はい!」
(判った。風邪ばら撒くなよ? お前、本当に馬鹿やるんじゃねーぞ。切るぞ)
「あー、お父上様、一つお願いがございまして」
(ん? 何だ、五秒以内。ゴオ、ヨン、サン)
「三Gに二番と、お伝えして頂きたいのですが」
三号店に『本日出勤しない』という連絡のことだ。早口で伝えた。
(ニィ、そんなん、お前が連絡しろよ。たく、めんどくせーなー)
「お手数お掛け致します。ちょっとお借りしている電話なので」
(おい、それを先に言え。この馬鹿たれが。しょうがねーな。切るぞ。ガチャ)
「よろしくお願いします」
真治は深々と頭を下げ、指で電話のフックを押してから受話器を置く。
「まぁ、丁寧なこと」
恵子は感心しながら言う。真治は『ちょっと違うんだけどなぁ』と思ったが、勘違いさせたままにしておくことにする。
小野寺家では、電話で人に頼むとき『様を付けろ!』がルールなのだ。
「すいませんが、よろしくお願いします」
「いーえー。じゃぁ香澄さーん、お願いねー」
恵子の声がちょっと高くなっている。何だかお上品ごっこが始まったようだ。
「はーい。お母さまー」
香澄もちょっと声が高くなっている。立ち上がりながら、右手を真っすぐ前に出し、左手を後ろに出す。踊り出しそうだ。真治の方に向き直る。
「小野寺先輩さまぁー、一緒に行きましょぉー」
高い声のまま、お願いされる。
「あら?」
真治が思わず声をあげる。恵子も渋い顔になった。
「何言ってるの、小野寺先輩様は、練習するんじゃないの?」
恵子は声の調子が戻っている。何でも練習の邪魔をするのはよろしくないとでも言いたげだ。しかし恵子の問いに、香澄は動じる様子もない。
「今、丁度終わった所よ。ねっ。小野寺先輩!」
香澄の声も元に戻る。香澄の恰好を見て、真治はキョロキョロした。
「何時ですか?」
時計を探していたのか。そう聞いたが、時計はすぐそばにある。恵子と香澄が、ピアノの上の時計を同時に指さす。
「もうすぐ五時ですよ」
真治は時計を見たが、顔は『そう言えば時計ありましたよね』という感じだ。そして納得して頷いた。
「じゃぁ、暗くなりますし、行きましょうか」
「あら、やさし」
恵子が言葉を漏らす。そして、真治を見た。
「丁度、練習終わった所ですから」
苦笑いして、真治が答える。一礼して振り返り、トランペットをケースにしまい始めた。それを見て、香澄が嬉しそうに両手を、歌手のようにあげる。
「じゃあー、行きましょー」
香澄が歌ったのは、雨の日に真治が歌ったアウフタクトのメロディだった。まるで二番のようだ。真治は驚いて振り返る。ちょっとおかしくて、嬉しかった。当の香澄は、ご機嫌でくるくる回り始める。恵子はそんな様子をおやおやという感じで見ていたが、それから渋い顔になって真治の方を見た。
「どうもすいませんねぇ」
「いえいえ」
真治も苦笑いで答えた。香澄がピタッと回転を止め、ポーズを決める。恵子はコントが終わったのを見届けると、苦笑いのまま部屋を出て行く。
「お財布の所にメモ置いてあるから、よろしくねー」
「はーい」
廊下から恵子の声が聞こえた。それに香澄が部屋の中で答える。やれやれだ。しかし真治は、ふとした疑問に至った。
「あー、ところで、お買い物はどちらへ?」
「駅前の『アイランドA』よ?」
あちゃー三号店じゃないですか! 確かにここから一番近いスーパーである。
「あ、ですよね」
「そうですよぉー」
香澄はそう答えると、笑顔のまま左手で真治の右手を掴まえると、不思議なちょこちょこ歩きで引っ張り始めた。真治は苦笑いするしかない。
どうしよう。やっぱり靴屋のおじさんに見られていたかぁ。あの眼鏡は望遠鏡かっ! それで、もう父上に知られているし。商店街の結束力、怖いなぁ。
それに、三号店のみんなに、こーんなにかわいい恰好の香澄を見られたら、後で絶・対・からかわれる。お願いします。今日は、肉だけは勘弁。精肉だけは、絶・対・に買いませんように。もう、肉なしのハンバーグでも我慢します。
あぁ、これで香澄の面が三号店にも割れてしまうなぁ。香澄が店に行く度にマークされて、香澄の向かう所に『品出し行ってこい』とか『レジ補助行ってこい』とか、色々言われるんだろうなぁ。はぁ。もう、溜息しか出ない。




