お弁当のおかず
「お母さん、今度の土曜日、お弁当作りたーい」
香澄の申し出に母は驚く。今まで火が怖いとか、包丁が怖いとかで、料理は盛り付けと皿洗い位しかやったことがなかった香澄が、である。
「良いけど、何を作るの?」
「唐揚げと卵焼き!」
まるで、前から決めていたように答えた。お弁当の定番メニューであるが、火も包丁も使うではないか。大丈夫かしらと母は悩む。
「んー。そう。良いわ。教えてあげる」
「やったぁー」
香澄が前を向いたまま笑顔になった。その横顔を見て、思わず母が提案する。
「今日、鶏肉はないけど、卵はあるから、卵焼き作ってみる?」
「うん! ありがとう!」
香澄は、練習中だったピアノ演奏を中止して立ち上がると、ピアノの蓋も閉めず、楽譜もそのままに台所へ飛んで行ってしまった。母は『ありゃ』と思ったが、卵焼きを作ると提案したのは自分だったので、楽譜を片付け、ピアノの蓋を閉めてから、香澄の後に続いて台所に向かう。
「お母さん、卵何個?」
冷蔵庫から、もう随分な数の卵を取り出している。全部使う気か!
「お弁当のだから、二個で良いんじゃない?」
「はーい!」
沢山取り出した卵を冷蔵庫に戻しながら、香澄が元気に答えた。母は口をへの字にしながら、調理台の前に戻って来た香澄を捕まえると、髪を結び、三角巾を被せ、エプロンを付けさせた。香澄は終始笑顔である。そして最後に、流し台の下からボールを取り出す。
「このボールを使いなさい」
「ありがとう」
香澄が手を差し出した。その手を睨んで、母が一言。
「手を洗って」
「はーい!」
香澄はくるりと回って素直に手を洗うと、ボールを受け取り、早くもその淵で卵をコツンとする。慌てた母から、また一言。
「ゆすいでから」
母が咎めると、コツンとしてヒビの入った卵を右手に持ったまま、左手でボールを蛇口の下に突き出す。母は、仕方ないそぶりで水を出すと、香澄は二、三回クルンクルンして水を捨てる。右手に持っていた卵を、そっと両手に持ち直すと、ゆっくりと二つに割り、奇麗に割れて卵がボールに入った。
「殻はそっち」
「ここ?」
「そう」
香澄は足でペダルを押し、パカンとごみ箱の蓋を開けると、そこに両手で持っていた殻を投げ捨てる。
「もう一つね」
母の声に、香澄は頷いて卵をそっと手にした。そしてボールの淵でコツコツと叩く。ちょっと弱い。勢いを付ける。
「男の子と食べるの?」
『ぐしゃっ』と、めり込んだ卵が返事だとしたら、みるみる内に垂れて来る白身は何を表すのか。香澄は、しばし呆然としていた。
「おかぁあさーん」
香澄が母親を咎める、特徴のある言い方だ。そう。変なことを言うからこうなったと、言わんばかりだ。さっき仲直りしたのに、またぷんぷん怒りそうだ。
「あら、ごめんなさい」
母は笑いながら、素直に謝った。香澄はもう前を向いていた。
「ちぃがぁぁうかぁらあぁっ!」
そう言って、香澄は下唇を噛み、押し黙る。そんな香澄の様子を見て、母は安心した。髪を縛り三角巾を被るから見えている香澄の耳が、それはもう真っ赤になっているのを見たからだ。隣の真衣ちゃん以外のお友達について、話を聞いたことがなかった。一緒に入った吹奏楽部は随分な大勢さんらしいが、初めて吹くクラリネットで、馴染めているのかも心配だった。
「もう、殻、入っちゃったじゃーん」
文句は言うが、照れ顔の香澄に怒った様子はない。また下唇を噛む。
「カルシウムよ」
その言葉に納得したのか、それとも殻を全部取り終わったからか、香澄は菜箸をガッチリ握ってかき混ぜ始める。そのおかしな箸使いを見て、母の助言。
「その、泡立て器を使いなさい」
「はーい」
カランと菜箸を流しに放り出すと、目の前にぶら下がっている泡立て器を取り出し、そのまま使おうとする。
「洗って!」
とっさに母が言ったので、香澄は水道でシャシャっと泡立て器を洗い、小さく二回振って水を切ると、シャーカ、シャーカと、割とゆっくり目にかき混ぜ始めた。
母は頭痛がして、手を出したくなった。しかし、何を夢見ているのか、それはもう楽しそうに卵をかき混ぜる香澄を見て、思い留まる。自分も昔からピアノばかり弾いていた人生だったので、料理は結婚してから覚えた。頭と腰を左右に振り、鼻歌と共に卵をかき混ぜ続ける香澄の気持ちも、判る。判るよ。
香澄が瞳を輝かせながら、母の方を向く。
「こんな感じ?」
直後、今度は目が糸の様に細くなる。母はその笑顔を、三年振りに見た。
それから母は、毎日ピアノの練習時間を削り、卵焼きを香澄に教えた。
土曜日は平和である。授業は午前中で終わり。気の早い運動部がグラウンドで大声をあげ、青春を謳歌している。夏は近いが、風は涼しい。
真治はいつもの場所にピクニックシートを広げて、真衣が弁当を持ってくるのを待っている。一つ年下の真衣が入部してきて、土曜日も練習に参加するようになってから、毎週真衣が真治の分も弁当を用意するようになっていた。
「おぅまったっせぇー」
弁当が入ったバックを目の前にぶら下げて、少しおどけた様で登場した真衣を見て、真治は小さく吹き出して笑う。
「はー。この時間が、一番和むよー」
まるで戦場を生き抜いてきた戦士が言うような、そんなセリフを吐く。
「今日のお弁当は二段ですよー」
しかし、真衣はそんなセリフを聞いていないらしく、ピクニックシートに座布団を放り投げる。教室の椅子に敷いている、小さいやつだ。
「お邪魔します」
香澄が申し訳そうな小さな声をかけてきた。何げなく真治が漏らした本音とも取れる言葉を、真治の後ろで聞いていた。笑顔の真衣だけが見えていたが、きっと真治も笑顔に違いない。真衣の隣に座布団をそっと置く。そして頭の中で真治が言った『一番和むよ』の言葉を再生していた。何度も何度も。
「いらっしゃーい」
事前に真治は真衣から今日、香澄が来ることを聞いていた。忘れていた訳ではなかったが、本当に香澄が来るとは思っていなかった。真治が香澄を見ると、香澄は申し訳なさそうな顔になって頷く。返事はない。
「はい。これ真ちゃんのね。こっちが私ので、水筒は麦茶ね」
「随分大きい水筒だね」
「今日は澄ちゃんが来るって言ったら、おっきいのでくれたー」
「それは済まなかったね」
「あとね、デザート。みんなで食べよっ」
真衣がバッグの中のものを全部出す。まるでピクニックだ。
「デザートはしまっておけば?」
「そうだね。食べ終わってからにしよっ」
真治と真衣の会話を、香澄は黙って聞いているだけだ。どうもこの二人の間には入り辛い。普通の顔をしているのだって、辛い。
「もうちょっとあっち行ったら?」
真衣の言葉に香澄は驚く。帰れと言うことか? そのまま固まる。
「この辺に座れば?」
真治の言葉に、香澄は我に返る。真治が指さした方を見た。
「はい」
小さい声で返事をすると、真衣の直ぐ横から離れて、真治が指さしたらへんに座り直す。正直、ホッとしていた。
「正三角形になったじゃん?」
「ですな」
四角いピクニックシートの上に三人は正三角形を形作った。二人に悪意なんてないのだ。一人どきどきした香澄は、そう思うことにするしかない。
真治が、真衣から渡されたお弁当の蓋を開ける。それを見て、真衣が言う。
「どうよ! 今日の真衣特製弁当は、スペシャル豪華版ですよ?」
上の段は全面おかずだ。確かに豪華である。それはそれとして、聞く。
「真衣が作ったの、どれよ?」
真治がお弁当を覗き込む。唐揚げ、卵焼き、豚肉インゲン巻、黒豆、ミニトマト。まさか『ミニトマト』とは言わせない。
「私は、安定の二段目だよー」
どれも違ったらしい。そう言われた真治は、一段目をテーブル代わりのトランペットケースの上に置き、二段目を覗き見る。思わず叫ぶ。
「ごはんだけじゃん!」
そう言って真治は、真衣の方に二段目を向けて笑った。何だよもう。
「ごはんだけじゃないよ? 中に何かがー、入っているぅ」
意味深な言葉を真衣が言った。何だろう。真治は割りばしを口で割り、そっとごはんをツンツンする。直ぐに、真治の目が輝く。
「あ、昆布の佃煮だ! やったー」
真治の顔が、子供のような笑顔になった。渋い好みだ。
「豪華でしょう?」
「確かに豪華である。認めよう。褒美を取らす!」
真治は頷く。当然褒美なんて用意しちゃいない。それを見て、真衣が言う。
「今日はお母さん、真ちゃんの好きなおかずにしたって、言ってたよー」
真衣も、そんなことは判っている。いちいち突っ込まない。頷く真治を見て、香澄は複雑な心境だった。それでも真治が好きなものを知れた。ただ、昆布の佃煮だけは、ごはんの下に隠れていたので、それがどんな物か判らない。覗き込む訳にもいかないし『佃煮』が何だか聞く勇気もなかった。
「澄ちゃんのは、どんなの?」
真衣が香澄の方を見る。香澄のお弁当箱も大きかった。お花見に使うようなお重一段と、小さなお弁当箱の二つ。香澄はお重の方を開く。
「唐揚げと卵焼きじゃん!」
そう言って真衣は真治の方を見た。お重から溢れんばかりである。
「やったー。凄いじゃん!」
人のお弁当のおかずを見て真治が発した言葉を、真衣は聞き逃さない。
「なぁにぃ? 澄ちゃん、狙ってんのぉ?」
指をさされながら言われた真治は、まだ何も食べていないのに喉が詰まる。
「こ、こらっ。本体狙ってるみたいに言うな! おかずの方だよ!」
真治が真衣を睨み付ける。別に怒ってはいないが。香澄はびっくりして目を丸くしている。どっちも食べて欲しい! もちろん、唐揚げと卵焼きのことだ。
真衣はそんな二人を交互に見て、にやにやするだけだ。
「あのぉ、皆さんのおかずにして下さい。私は、こんなに食べられない、ので」
香澄がなだめるように言うと、真衣と真治が満面の笑みになって香澄の方を向く。判りやすい奴らだ。香澄は真治と目が合うと、直ぐに下を向いた。
「良いの?」
反応が速い。そう言って箸を伸ばしたのは真衣である。卵焼きに箸を突き立てると、ぱくっと一口に食べた。笑顔でもぐもぐする。
「おいひいじゃん」
口を手で押さえ、顔を上下させながら感想を述べた。
「ありがとう」
香澄がやっと微笑む。練習した甲斐があったというものだ。嬉しい。
「卵焼き、澄ちゃんが作ったの?」「じゃぁ、唐揚げいただきます」
真衣の質問は、真治が唐揚げに箸を伸ばしたのと同時だった。まるで香澄が作った卵焼きを食べたくないから、唐揚げにすると言っているようだ。だから、真治の箸がピタッと止まる。顔も強張っているが、香澄の方は見れない。
「あ、唐揚げもです。どうぞ。ふふっ」
真治の困った様子がとても面白くて、香澄が慌てて答えた。真治が動く。
「そう」
苦笑いした真治が、香澄の方をちらっと見てから、そのまま唐揚げを摘まみ上げた。すぐ食べるのかと思いきや、きょろきょろしている。
「ケチャップは?」
真治の言葉に、真衣が直ぐに突っ込む。
「女子が作った唐揚げは、そのまま食べるの!」
そう言われた真治は、黙って頷くと、大きな口を開けて一口に食べる。
「うみゃい。上手にできてるよ」
目を白黒させながら手を口に当て、もごもごしながらも香澄に感想を述べた。
「良かったです。卵焼きもどうぞ」
小さい声だった。香澄は、ほっと胸を撫で下ろす。『余熱で火を通す』というのに、自信がなかったのだ。真治は卵焼きも頂き、二段目にキープした。そして、真治も真衣も自分の弁当を食べ始めた。つられて香澄も食べ始める。真治が香澄の小さい弁当箱を覗き込むと、自分の分を食べながら聞いて来る。
「かわいいお弁当だね。小石川さん、料理するの?」
「全然しないです」
真治の問いに咄嗟に答えて、香澄はしまったと思った。その後が続かない。
「私もです!」
真衣の言葉があって、場は笑いに包まれる。
三人はお弁当のおかずを交換しながら、楽しく食べた。香澄は真治の二段目にこっそり注目していた。暫くするとごはんの下から、四角い黒い板みたいなものが出て来る。真治はそれを食べると、にっこり笑った。香澄はどんなものか食べてみたかったが、真治の笑顔を見ている方が良くて、言い出せなかった。
夏も近付く八十八夜。そうだとしたら、今は夏。
「冷たい麦茶、美味しいねぇ」
真衣に淹れてもらった麦茶を、真治が一気飲みした。夏だ!
「でしょー。これ私が作った奴。傑作だよ?」
「水にパック、入れただけっしょー」
そう言って真治がコップを差し出す。真衣の目が大きくなる。
「じゃぁ、あげなーい。知らなーい」
真衣が水筒を引っ込める。香澄はその様子を眺めていた。二人は仮入部の時から仲が良い。羨ましかった。香澄も仮入部中はトランペットで、本入部の第一希望もトランペット。だが、第三希望のクラリネットになった。楽器所有欄に赤丸があったからだ。真衣は第一希望にトランペットと書き、他は空欄とした。そして、楽器所有欄に『買います!』と、熱量高く朱書き。
「もう、あっついねー」
真衣は香澄に話しかけた。
「おーおー、溢れるよ、スタップ! ストップ!」
何だかんだ言って真治のコップに麦茶を注ぐ真衣だが、よそ見をしているので、真治が手を添えて慌てている。香澄は笑いながら二人の様子を眺めていた。
「髪切ろうかなぁ」
香澄が言った。何か、急にそんな気になったのだ。夏の日差しに照らされた髪は少々熱くなっていたのは確か。急な髪切り宣言に、真衣は口を尖らせる。
「えー切っちゃうの?」
「うん」
香澄が下を向いたまま煮え切らない返事をする。水筒の蓋を締めて問う真衣。
「澄ちゃんと言えば、昔からその髪型じゃん。どうしたの?」
「うん」
昔と言っても真衣が知っているのは三年前からである。小学校四年生の時に転校してきた香澄は、ちょっと日本語のイントネーションと、言い回しがおかしかった。それをからかわれてから、今も友達が極端に少ない。
麦茶を飲みながら、二人の様子を黙って見ている真治に、真衣が話しかける。
「ほらぁ。女子が髪切るか問題ですよ? 何か言ってやって?」
「え? 俺?」
真治が自分を指さして驚く。それを見て、真衣は呆れ顔になる。
「他に、誰がいるんですか!。しっかりして、下さぁいぃよぉっ!」
真衣が指摘したので、香澄が真治を見る。香澄に見つめられて、真治は困った。香澄の上から下までを眺めて、困り顔のまま答える。
「やっぱ、長い髪でしょー」
「そうだよね! ほらー」
真衣は直ぐに同調した。真衣からも言われて、香澄は髪を触るのを止める。
「小野寺先輩は、ロングが好みなんですか?」
小さい声で確認を求められた。思い起こせば、香澄から初めての質問らしい質問である。真治は答えに困った。目のやり場にも困った。
「う、うん。ほら、長い方が、色々できるじゃん? 髪型とか」
そう言って、パクリとデザートを食べる。何とか乗り切った。
「どういう髪型が、好みなんですか?」
香澄がまた聞いて来る。質問は終わってはいなかった。真治はまた困った。
「好みなんですか?」
真衣も聞いて来た。こらこら。真治は顔をあげ、二人の髪型を見比べて、返事に困った。女性の髪型は、本人が気に入っているか否かでしょうが。とも言えない。口が裂けても。口の中にあるデザートを、無理やり飲み込む。
真治は困りながらも、身振り手振りで説明を始める。
「えーっとね。普段は、こう、結んでいてね」
真治の髪は短かったが、髪を結ぶ仕草をした。
「そんでもって、好きな人の前で、バサッ! とやる感じ?」
そして両手を広げ、髪が広がる様を表現する。香澄の顔がたちまち赤くなってゆく。真治の言葉を借りれば、自分の髪型はバサ後ではないか。香澄の選択肢から、髪切りは完全に消滅した。
「こんな感じ?」
香澄が固まっているのを見ていた真衣は、そう言うと、ツインテールに結んでいた赤いリボンを両手で持ち、シュルシュルと解き始める。そして、首を振りながらバサッと髪を降ろす。真衣の髪は、あっという間に倍の長さになり、屋上の風に吹かれて揺れた。香澄は驚いて顔をあげる。そして、思い出した。真衣の髪も、昔から長かったことを。
クラスメイトにからかわれていた香澄を守るため、間に入った真衣であったが、長い髪を引っ張り回されて、泣いてしまったことがある。それからずっとリボンで髪を結んでいる。真衣と言えば、昔からその赤いリボンだった。
『一番かわいいお前を、いじめっ子に見せてやる必要はない』
真衣はそう言ってくれた真治のことを、よーく覚えている。記憶から消した事件の後、腫れた頬を擦りながらリボンを買ってくれたのだ。昔の話であるが。
「あーもうー、デザートに髪が入る! バサバサしなーい!」
今の真治はちょっと違った。いや、大分、否、全然違った。
「ちょっと、どういうこと? 髪位、ありがたく食べなさい!」
そう言いながら真衣は自分の髪を集め、ポニーテールに仕上げてゆく。
「あーあー」
そんな真衣には目もくれず、真治は皆で摘まんでいたデザートに髪が入っていないか確認し、香澄に最後の一個を笑顔で勧める。香澄も笑顔だったが、右手を振り遠慮した。それを真治はパクリと食す。まだ笑っている。
香澄はまた自分の髪に触れていた。その時、デザートを口に入れてもごもごしている真治と目が合う。そのときだけ、香澄は、何故か下を向かなかった。
「もごもごご!」
『切らないで!』だから香澄にはそう聞こえた。そしてただ、優しく微笑みながら首を横に振る真治がいる。香澄は嬉しくなって小さく頷き、髪から手を離した。そして真治に微笑みを返す。髪型の話題はそれで終結。結論が出た。
「そう言えば、今日の本題ー」
髪を結んだ真衣が手をあげて発言した。真衣は、実に忘れっぽい。
「あのさー、ペットのパート日記に、澄ちゃんも混ぜて良いよね?」
「えー、ダメだよー」
真治の返事が早い。しかも、迷惑そうに答えやがった。こんにゃろう!
「えー、ダメなのー? 良いじゃん、混ぜてあげたってー」
真衣が顔を横に傾け、真治を睨み付けて食い下がる。こちらも反応が早い。香澄は和やかな雰囲気が一転、喧嘩でも始まるのかと思ってびっくりした。生唾を飲み込むのがやっとで、何も言えずに凝固する。
「だって、恥ずかしいじゃん」
そう言って真治は香澄を見た。見られた香澄も同意して、作り笑いをする。
「なーに照れてんの? 二人共」
二人を交互に見て真衣が言う。真治は眉をひそめて、真衣を睨む。
「だって、読まれるメンバーを想定して書いている訳だし、それ以外の人に読まれるの、恥ずかしいじゃーん」
真治にとってトランペットの交換日記は、トランペッター同士が情報交換をする場であったのだ。最近は、全然違うけどさ。
「澄ちゃんはこう見えて、そんな悪い子じゃないってー」
真顔で真衣が言う。話が噛み合っていない。真治は困った。
「こらっ! 何言ってんの! いや、もう、そうじゃなくてさー」
頼むから聞いておくれよ、という感じで真治が言った。
「仮入部の時は、同じペットだったじゃん。ねぇ?」
そう言って真衣は香澄を見た。香澄は四月の出来事を思い出し、困った顔をしながらも同調して頷く。分が悪くなった真治は、現実を展開するしかない。
「前半は他の人も書いていたしさー、先輩に混ぜて良いか聞くのも嫌じゃない?」
「聞けば良いじゃん。三年生の先輩とか、チョロいじゃん! 余裕っしょ?」
平然と言う真衣。しかし、聞く役は真治のようだ。おいおいだ。
「いやいやいやいや」
真治は慌てて周りをキョロキョロした。誰もいない。まぁ、確かに今の三年生はチョロい。昔、もの凄くコワーイ先輩がいた反動からか、後輩にはもの凄く優しいのだ。コンクールの人選だって『二年生の方が上手だからー』とか言って、前に出て行く感じはしない。それをチョロいと言っちゃ、ダメでしょう!
「それに、もうすぐ終わりでしょ?」
あと何ページ残っていたか忘れたが、半分は通り過ぎていただろう。それに、もうトランペットの情報は、交換されていないに等しい。終わりだよ。終わり。
しかし、その答えを聞いた真衣は、何故か笑顔になっている。
「えー、じゃぁ何? 次のノートなら良いんだね?」
真衣の問いに、真治は黙る。次のノートだと? 続きがあるのか? メンバーは、真治、真衣、香澄、それとお母さん? なんだそれ? 真治は笑う。
「良いんじゃない?」
もう半ばヤケだ。新しいノートなら、それなりにそれなりな感じで書くこともできるであろう。と、思わない。思います。思う。思うとき。思えば。思え。
「澄ちゃん、良かったじゃん!」
笑顔で香澄に話しかけた。香澄は、嵐が通り過ぎるのを待っている。
「え? うん」
真衣に言われて、慌てて香澄が頷く。しかし、きょとんとしている。
「じゃぁ、ノート買っておいでよ!」
話が良く見えていない香澄の肩を、手を伸ばした真衣が軽く叩く。
「ノートなら、余っているのあるよ?」
こっちにも話が見えていない奴がいる。真衣はそう思った。真治をキッとした顔で睨みつける。呆れる程、鈍い奴だ。
「そういうノートじゃなくて、もっとかわいい奴だよー」
どこにもノートはないが、そういうノートがどういうノートを指しているのかは、全員が理解している。真治は、トランペット交換日記の表紙に『これじゃかわいくない』と、勝手に絵を描いたのが真衣だったことを思い出した。
「ねっ!」
真衣に言われるがままに香澄が頷く。こっちも、まだ話が見えていない。
「パン屋?」
真治はここからは見えないパン屋を指さす。駄目だ。こっちはもっと重症だ。
「ある訳ないでしょ! 何考えてるの?」
バッサリ否定され、パン屋に、だいぶ失礼なことを言っていると真治は思った。呆れた真衣は、両手を振りながら説明する。
「ローズデパートの、大きい文房具屋さんに行くんだよ! 澄ちゃんと二人で行って、選んで来るんだよ!」
真衣がダメ男に力説。それを聞いた香澄は驚いて目を丸くし、真衣を見た。
「あれ? 真衣は書かないの?」
想定と違ったのか、真治が真顔で聞いている。香澄は真治を見た。
「書かないよ。もう書くことなくなってるしー」
めんどくさそうに答えている。香澄は真衣を見た。
「お母さんは?」
また想定と違ったのか、真治は真顔のままだ。真衣が真治を睨み付ける。
「書く訳ないでしょー」
何を言っているんだという感じで、言い放つ。
「ですよね。って、じゃぁ、なんでお母さん参加させたんだよ!」
逆切れまでとは言わないが、笑いながら真治が問い詰めた。真衣は、目を大きくして、右手を頭に乗せる。反省しているのか?
「だから、それはノリでっ」
真衣が舌をぺろっと出し、片目を瞑って答えた。駄目だ。仕方のない奴だ。
香澄はと言うと、急な展開に思考が付いて行けず、真治と真衣を交互に見て首が痛くなってしまっていた。首を手で擦っている。
「じゃぁ、明日行ってくれば?」
真顔に戻った真衣が、香澄を見て言った。この口調は『行け』と同義だ。
「え、明日?」「え、明日?」
真衣のことを良く知る香澄と真治が、同時に答える。急な提案に二人共驚き、真治と香澄は、お互いの顔を見つめ合ったが、照れて同時に真衣の方を見た。そして、にやけた真衣の顔を見て、また顔を合わせる。真衣の笑顔が怖かった。
真治が、口をもごもごした後に言う。
「十時? 十時半? 十一時?」
真治が三つ提案して、首をかしげた。真衣は『良し良し』と思って、にやにやするだけである。
「十時半? 十一時?」
香澄が聞き直した。ちらっと香澄が真衣を見る。『良いぞ良いぞ』にやにや。
「十時半から十一時?」
真治がそう言うと、香澄は顔を赤くしながら頷く。『良しっ』決まりだ!
「行けたらで」「行けたらで」
香澄と真治が同時に答える。真衣は崩れ落ちた。こいつら、ヘタレ同士だ。
「行って、来なさぁいよっ! もー。根性なし! どういうこと? えー?」
随分と消極的な二人に、真衣が強めの口調で言ったものだから、真治と香澄は同時に真衣を見て、そしてお互いに見つめ合って、笑った。そんな呑気な二人を見て、真衣は真治に向かって言い放つ。
「良い? TシャツGパンじゃ、ダ・メ・だからね! 判ってるね?」
真衣が真治に注意事項を言った。真治は黙って頷く。何度も。香澄はそれを見て、くすっと笑った。それを横目で見た真衣は、今度は香澄に言い放つ。
「澄ちゃんもかわいい服ね! 一番かわいい奴ね! 判ってるね?」
注意事項を聞いた香澄は、驚きと込み上げる笑いを抑えつつ、何度も何度も頷いた。そして、真治と目を合わせると、口を押さえながら小さく会釈する。真治も苦笑いをしながら同じように返してくれたので、香澄は凄くホッとした。
後片付けをして午後の部活へ向かう。ここには個人練習でまた来ることになるのだが、校舎の方がだいぶ涼しいに違いない。
「先に行って下さい」
「はーい」
香澄に言われて真治は返事をした。トランペットと畳まれたピクニックシートを持つと、足早に屋上を後にする。行先は一つ下の階の音楽室であろう。真治の後ろ姿が階段に消えると、香澄が真衣に話しかける。
「トランペットのノート返すね」
教室で渡されたトランペットのパート日記を、香澄は既に読み終わっていた。読んだのは主に、真治の筆跡と判るページだけであったが。
「面白かったでしょ?」
「うん」
「今日ちょろっと書いて、渡しとこっと」
香澄は笑顔になった。香澄の笑顔を見て、真衣も笑顔になった。空になったお弁当箱をカバンに入れた真衣が、先に歩き始める。他にはもう誰もいない二人だけの屋上で、香澄は真衣に、今まで怖くて聞けなかったことを、思い切って聞くことにした。声が少し高くなる。
「真衣ちゃんと、小野寺先輩は」
そこまで言った所で、真衣が足を止め振り向き、直ぐに答える。
「親戚だよ?」
真衣が『何言ってんの?』という感じで答えた。凄い早口だった。
「そうなんだ」
「うん。家、地元だし、親戚いっっぱい、いるからさー」
笑顔になった真衣が答える。いつも通りだ。
「へー」
「んでね、何かね、親戚の集まり会ってのがあって、従姉妹やらなんやら集まって、仲良いんだー」
「良いねぇ」
香澄は一人っ子で、地元でもない。二人は笑顔になった。真衣は誰もいないのに、周りをキョロキョロと見回してから、香澄にヒソヒソと話す。
「真ちゃんは、お勧め物件だよ。凄く優しいしー」
「うん」
香澄は笑った。納得して返事をしたが、ふと思った。親戚だって真治と真衣が付き合えない理由はないはずだ。その考えを打ち消すように、真衣が言う。
「あー、でもね、デリカシーのないことズバッと言って、恥ずかしい時あるよぉ」
「えぇ? 何それぇ?」
香澄が思わず笑う。苦笑いだ。真顔でそんなことを言う真衣が、逆に面白い。だから、もしかしたら、真衣がどーしても真治のことを、好きになれないポイントなのかと、納得することにする。勿体ない。
それでも思った。真治は、真衣のことを一体、どう思っているのだろう。
「ヤ・ケ・ドしても、知らないよ? 早く行こう!」
にやけてから走り出した真衣の後を、慌てて香澄が追いかける。考えていても仕方ない。明日は明日の風が吹く。それより何より、どうしたら明日のお出かけの許可を得られるか、考えなければならない。そっちの方が重要だ。
その時真衣は、香澄なら真治を譲っても良いと、思うことにしていた。
その日の部活が終わると、真衣は香澄と一緒に下校した。そこで香澄に、お出かけ用の想定問答を、それはもう入念にレクチャーする。いざと言う時は、真衣も一緒に行くと言えと、ギュッと念を押した。そして、電車を降りると、夕飯の弁当を買うからと香澄に告げ、別方向に走り始める。
それでも真衣は、香澄に激励の言葉を投げかけながら、何度も振り返っては手を振り、駅前のスーパーに駆け込み、香澄の前から姿を消した。
真衣は最後まで、それは素敵な笑顔、だった。