時間旅行
香澄は真治がクラリネットの指使いで困っていると思い、急いで教本の指運表のページを開けようとした。しかし、その必要はなかったようだ。
『ブォッ』という今までに聞いたことのない、低いクラリネットの音がした。と思ったら、少し上の音もまた『ブォッ』という音がした。それはもはやクラリネットの音ではなく、まるで上り坂を登る時の荒い息遣いに聞こえた。
三つ目と四つ目の『ブォッ』を聞いた時、それは『グリーンスリーブス』だと判った。香澄は同じ曲を、父が草笛で吹いてくれたことを思い出した。
父に連れられて訪れたイングランドの丘は、幼い日の香澄にとって、取るに足らない草の生えた丘だった。オープンカーを降りて歩き始めた道の途中で、父は葉っぱを一枚取って口に当てると『ブォッ』という音を捻り出した。
それは父のクラリネットを子守歌代わりにしていた香澄にとって、同じ口から紡ぎ出されたにしては、酷い音だった。興味を失った香澄は父の左手を取り、草の生えた砂利道をかけだした。父は右手で尚も演奏を続けている。
二度目のフレーズを吹き終わったとき、二人は丘の頂上に着いた。そこには、父が香澄に見せたかったイングランドの原風景が広がっていた。
風に揺らぐ夏草が一面に広がり、所々に花畑が色を添える。不揃いな高さの石垣が丘に沿ってうねうねとしていて、時に枝分かれしながら、どこまでも続く。ぽつんと立つ木立は絵本の中のそれのようで、丸い樹形からこぼれる逆光が、夕方特有の薄い影を波打つ草の上に楕円を描いている。
香澄が深呼吸して空を見上げると、草笛を吹く父の顔が見えて、その上の空はどんよりとした雲がうずまきながら、低く、低く垂れ込めている。しかし、むしろそれが、この風景にらしく思えた。遠くに望む海は波穏やかで、雲の切れ間から覗く太陽に照らされた水面だけがきらめき、青を増している。
突然、アイリッシュの風が草をざわつかせ、香澄の麦わら帽子を空に巻き上げた。驚いた香澄は帽子を押さえようと、手に持っていたシロツメクサの花束を手放したが間に合わなかった。
まるで空に描いた花畑のようにばらばらになったシロツメクサの中に、丸い麦わら帽子が浮かんでいて、リボンに挟み込まれた一凛のデイジーが、シロツメクサとシンクロして回りながら、雲の切れ間から差し込む夕日を映し、何度も赤く染まっている。
父は泣き出す香澄の手を放し、笑いながら麦わら帽子を追いかけて行く。そして草むらに着地した麦わら帽子を拾い上げると、振りながら両手を広げて香澄のもとに帰って来る。
立ち尽くしていた香澄は、帰って来た麦わら帽子に手を伸ばしたが、それは両の手をすり抜けて、父が香澄の頭に深く被せた。行き場を失った香澄の両手は、前が見えないまましゃがみ込んだ父の首に抱き着いた。
父はそのまま香澄をなだめながら抱き上げると、左肩に香澄を乗せて立ち上がり、もう一度、香澄にこの景色を見せるのだった。
一分ちょっとの時間旅行が終わり、香澄は父に会いたくなって泣いた。
六月二十二日(水)
今日はせっかく私のためにクラリネットを吹いて下さったのに、
黙って帰ってしまいごめんなさい。
ちょっと昔を思い出して、お見せできない顔になっていました。
とても恥ずかしかったんです。本当にすいません。
クラリネットは、そうですね。私の父は生きていて、しかもプロなのです。
だから、今の私の演奏とは、それは比較にならなくて、
同じ楽器とは思えない感じです。むしろ、楽器に申し訳ないと思っています。
楽器だって、父に演奏された方が良いと思っているに違いないですからね。
父が喜んでくれるかなと思って
「中学になったらクラリネット吹こうかな」
て言ったら、思った以上に喜ばれて、
むしろ今は重荷になっている、今日この頃です。
なので、今日の間接キスの相手は父になります。
あらかじめご了承下さい。
でも、今日の演奏で、クラリネットも色んな音が出せるんだと思って、
凄く勉強になりました。
もうちょっと上手になるように、頑張ろうと思います。
何か元気が出てきました。ありがとうございます。
それと、鍵はちゃんとかかっていました。
ご心配かけてしまい、申し訳ありません。
私もドジなので人のこと言えないです。
あと、先輩の言われている「ドレミ病」は病気ではなく、
「相対音感」と言われる立派な能力です。
沢山音楽を聴いて、自分のものにしてきた人が獲得できるもので、
それで悩んでいるなんて、もったいないです。
怖がらずに合奏しましょう!
トランペットとクラリネットの合奏ってあまり知りませんが、
何かありましたら教えて下さい。
一緒に演奏しましょうね。
香澄は日記を閉じて鍵をかけた。横にある紙袋に入れてカバンに押し込む。立ち上がり、今日のことを思い出しながら隣の寝室へ向かう。思い出しただけで、顔が真っ赤になるのが判る。そしてベッドに飛び込んで頭を抱えた。
完全にイングランドへ飛んでいた。いつか見た景色だった。父もいた。嬉しかった。優しかった。暖かかった。それなのに、また全てを失って、こんな嫌な所に戻って来てしまった。早いよ。あの後何があったか忘れたけど、もうちょっといたかった。何だか悲しかった。悲しいことを、色々思い出してしまった。
理由も判らず、母と二人で日本に着いてから碌なことがない。いつも独りぼっちだ。エアメールも来なくなった。みんなどうしているんだろう。寂しいよぅ。
日本語なんて何の役にも立たない。何だかチクチクと細かい発音を指摘され、理由も判らず手をあげられて怖い。英語も通じず、やっと始まった英語の授業でも、あんなにチクチク言っていた奴らが、私の英語を笑う。何なんだよっ!
仕舞には、言葉は不要なはずの音楽も、思ったようにならない。楽団の人達は凄く優しかった。ピアノを弾くだけなら西ドイツで良かったのに。ジョセフおじさん家で練習したい。バーバラおばさんの『天国と地獄』が懐かしい。あぁ、もう、本当に、ここは、なんてつまらない世界だ。本当に地獄だ。早く大人になりたい。大人になって、真治を連れて、西ドイツに帰りたい。一秒でも早く。
真治は想像通り優しかった。そして日常に音楽が染みついている。買い物楽しかったなぁ。またピアノ弾いてくれないかなぁ。あぁ、真治にだけは嫌われたくない。真治は相対音感だったんだ。だから全部ハ長調だったんだ。なるほどだ。初めて相対音感の人に出会った。そういうので悩んでいるなんて本当にもったいない。私が一生面倒見る。あ、だとしたら病気と思わせておいた方が良かったかしら。いやいや、それは良くない。ごめんごめん。嘘嘘。冗談冗談。
真治に泣いている所を見られなくて良かった。恥ずかしいし、それで嫌われたくない。間一髪だった。いつもトランペットのマウスピースをハンカチで拭いていた。それは何となく判る。でも、クラリネットの時も拭いていた。面白い。もうあれは手癖だ。なのに、渡されたクラリネットは拭いていなかった。
あれは完全に間接キスだ。壁を向いてから唇で触れたけど、まだ暖かかった。あんなマウスピース咥えちゃったら、絶対大きな音出しちゃって嫌われる。本当のキスも、こんな感じなんだろうか。何かこんなこと知られても恥ずかしい。
何とか耐えたのに、リードは咥えてしまった。いつもそうしているからって言っても、これは間接キスどころじゃないでしょ。私狂ってる。どうかしてる。もうあのリードは使えない。記念に保存しないと。今日はリード記念日かな。
でも、寂しくなったら使っちゃおうかなぁ。また来てくれないかなぁ。真治。




