真治が来た
練習が終わると、ざわざわと人の波が動き出す。金管楽器は演奏後の手入れが簡単なのか、ほいほいとケースにしまうと、収納棚に向かって歩き出す。
天井まである収納棚は、一メートルよりちょっと上に幅三〇センチ位の段があって、そこに乗ると一番上の棚にまで手が届く。そこがトランペットとトロンボーンの収納場所だ。
男子がひょいと上に乗り、下から各自が使った楽器を受け渡し、どんどん収納して行く。女子が上に乗らないのは、スカートの中が見えてしまうからだ。ここをステージにして『ヘイ! ヘイ! ヘイ!』とスカートを左右にひらひらさせるのは真衣だけで、村田に怒られてからは封印している。
中段はホルンであるが、トランペットを収納していると中段の扉が開かないので、しばし待つ。クラリネットとフルートは下段だ。軽いので上でも良いのだが、フルートとクラリネットは男子がほぼいないので、女子だけで取り扱える下段を使うことになる。
香澄はクラリネットの掃除を続けている。木管楽器と言うが、本当に木でできているのは、クラリネット、オーボエ、ファゴットだろうか。フルートとサックスも木管楽器だが、木でできたものは見たことがない。
木の性質上、湿気には弱い。演奏が終わったクラリネットは乾いた布を専用の掃除用針金に巻き付けて、水分をふき取る必要がある。
「お掃除中?」
後ろから声がする。香澄は声の方を向くと、真治ではないか。あわわ。日記で予告はしていたが、あわわ、今日は来ないと決めつけて、油断していた。
「あ、は、はい、ど、ど、どぞっ」
他のクラリネットは既に席を外している。楽器代表のパートリーダー数人が、反対のフルート側にあるエレクトーンにたむろして、村田と話をしている位だ。
真治が香澄の隣の席に座った。
「学校のクラってどれ?」
真治は一応気を使って聞いた。
「私の使ってくらはい」
そう言うと香澄は、蓋を開けて床に置いてあったクラリネットケースを手で真治の方に動かした。クラリネットはケースの中でバラバラになっている。
「良いの?」
「はい。どぞ」
言われた真治は頷いて、マウスピースを取り出した。クラリネットのマウスピースは、竹製のリードを留め金で固定し、それを咥えて音を出す。マウスピースは既に掃除されていて、リードは外されていた。
「咥えちゃって良いの?」
「どうぞ。どうぞ。ガブっとどうぞ」
頷きながら香澄が答えた。マウスピースの先端は奏者の歯形が付くので、ちょっと窪んでいる。真治は自分が咥えて良いのか確認したのだ。
「ニューリード、新しいの、出しましゅね」
「はーい」
そう言うと、リードケースから新しいリードを取り出し、電球にかざして割れていないことを確認した。それを真治に手渡す。真治はリードを受け取り自分でマウスピースに取り付けようとしたが、全部香澄に返した。
「いつも、どんな位置に付けてるの?」
「あぁぁ、はいっ」
香澄はいつもの通りにリードを取り付けた。そして、それを真治に渡す。真治はマウスピースを眺めて、先端の具合、リードの閉め具合を確認した。
「結構きつめなのね」
「そうなんですか?」
「そんな気がする」
躊躇なくマウスピースを咥えて、一息吹く。『ピー』と大きな音が鳴る。真治は自分が出した音にびっくりして、吹くのを止めた。
「びっくりしたー、凄い音だね」
「クラリネットは、楽器を付けないと凄いんです」
真顔の真治に、香澄が苦笑いして言う。
「そうなんだ。トランペットと逆だね」
真治も苦笑いしている。香澄は掃除が終わったクラリネット本体を上から順番に真治に渡した。真治はそれを受け取ると、慎重に接続する。
「こんな感じ?」「はい」
と、一か所づつ確認した。最後に朝顔を取り付けて、クラリネットが完成する。なんとなくな感じでクラリネットを持ち、縦笛の要領で一息吹く。
『プー』
聞いたことのあるクラリネットの音が出た。
「それ『ド』じゃないんですよ」
「へー、そうなんだ」
香澄の説明に真治は答えた。指をカチャカチャ動かしている。
「縦笛の『ソ』がクラリネットの『ド』に近いです」
「こうかな」
真治はやってみたが、ちょっと違和感があった。ト長調は苦手だ。
「ごめんね。何音階になるか判らないけど、縦笛っぽくやらせて」
今日の目的は正しい指使いではないので、香澄の説明に納得しながらも、真治はやりやすい縦笛をイメージして指使いを確認した。意外にもそれでも音階にはなって、ごにょごにょとやっていると、ドレミファソラシドの音階が吹けた。問題はココからだ。
「吹いてみると結構大変だね」
「でも、最初から吹けるなんで凄いです」
「口の締め具合がトランペットと似てるかね」
真治は自分の口をマッサージした。吹奏楽部に男子は少ないので、男子同士は仲が良かった。休憩時間や練習終わりに集まって、お互いに楽器を交換しあって演奏したこともある。だから、サックスを吹いたことはあるが、クラリネットはなかった。
「結構痛くなりますよね」
香澄も自分の口の周りをマッサージして答えた。
「サックスよりだいぶ締める感じだね。だから硬い音なんだね」
「そうなんですね」
真治はもう一度マウスピースを咥えると、角度を変えたり、咥える深さを変えたり、トランペットでやるようにビブラートをかけてみたりした。
「音色に変化出すの難しいんだね」
「そうですね」
「リードの締め具合変えてみたら?」
「変えて良いんですか?」
そう言われて真治は笑った。
「良いんじゃない? 目盛りがあってココって指定があるの?」
壊してはいけないと思って真治は金具をよく見た。目盛りはない。
「いいえ、そういうのはないです」
香澄の答えを聞くと、真治は頷いてマウスピースに取り付けられたリードを少し緩め、リードの前後の位置と締め具合を調整した。
「ジャズだとリードを少し出すんだよね」
ちらっとマウスピースを香澄に見せた。そして息を吹き込んだ。
『プー』
「な、何か変わりましたね」
「そうだね。柔らかくなったね」
真治はクラリネットのドレミ音階の指運びを確認した。
「はい。あ、教本これです」
香澄がそう言って教本を開いたが、真治は立ち上がって全力の息をクラリネットに吹き込んだ。そして、もう一度咥え方、マウスピースの角度、音階の指使いを確認すると、大きく息を吸った。そして、ゆっくりと『グリーンスリーブス』を吹いた。それはAメロ、Aメロ、サビ、サビと、一分ちょっとの演奏だったが、最後はトランペットのように朝顔を上に向けて爆音を轟かせた。
「おーのーでーらー、ちょっと、うるさーいぞー。こっちこーい」
村田が言葉を選びつつ、ゆっくりと苦情を申し上げた。
「こんな感じでどう? 呼ばれちゃった」
真治は香澄に声をかけたが返事がない。どうしたのか様子を見ようとした。
「お前、クラリネットにコンバートしてやろうか」
そう言われて、真治は慌てて村田の方を見た。
「えー、それは困ります」
そう言いながらクラリネットを香澄の方に動かすと、香澄が受け取ってくれた感じがしたので、手を離して村田の方へ急いだ。
真治は村田から怒られるのかと思ったが、そうではなかった。十分も話していないと思っていたが、香澄は既に音楽室にも、教室にも、下駄箱前にもいなかった。その日、真治は首をかしげながら一人で帰った。




