月曜日・階段にて
今朝真治から日記を受け取った後、香澄は早く読みたいと思って、人が少ない場所を考えた。しかし、日記帳だけを持って行くことはできない。カバンを持って行ける場所、不自然でない場所。
そう考えている内に、香澄は気が付いた。確認はできないが、きっと鍵がかかっているのではないかと。香澄は溜息をした。そうだ。真治だって人の子。私以外の人に読まれたくないと思えば、絶対に鍵をかけているに違いない。
そもそもクラリネットとトランペットの接点は少ないのだ。夕方の練習時はもちろん、片づけ時も、トランペットとクラリネットの収納棚は離れていて、作業しながら近付くことはできなかった。明日は朝練があるので、机を廊下から音楽室に入れることもない。だから今日も、音楽室で真治に声をかけることはできなかった。
香澄は練習後、入念な楽器の手入れを今日もしていた。そして何度も自分の真上にある音楽室の時計を見る。やがていつも真治が『カギ閉めます』と言うであろうちょっと前に、クラリネットを棚にしまって音楽室を出た。
誰もいなくなった放課後の教室に、香澄は一人で座っている。友達は誰もいない。今日も長い一日が終わった。後は帰るだけだ。香澄は早く帰りたかった。早く帰って、カバンの中の日記を読みたい。
静寂の中、階段を駆け下りる足音が聞こえて来た。その足音は階段の段数とは異なっている。『ダン』と大きな音がした。最後の数段は飛んだのか、両足で着地したのだろう。その後は、廊下を上履きで擦る独特の音が遠ざかって行くのが判る。
やがて、職員室手前の渡り廊下にあるスノコを『ダン』と踏み込む音がした。きっと飛んだ。歩けば三回聞こえるはずだからだ。足音は着地した所で止んで、『失礼します』という声が小さく聞こえて来る。職員室の扉を勢い良く開ける音がした。
その音を聞いて香澄はもう一度深呼吸をして立ち上がった。左手にカバンを持って素早く教室の後ろの扉の前に立つ。そして右手で教室の扉を、開けない。
まだ開けない。時計も見ずに待っているのだから、時間が経つのが遅すぎる。教室の扉に手をかけた右手の感覚が段々無くなってくるのが判る。
永遠に続くのかと思った次の瞬間、香澄は我に返った。職員室の扉が開いたのだ。『失礼しました』という声も聞こえた。そして『ダン』『ダン』とスノコを踏み込む音がする。香澄は右手に力を込めて扉を開け、教室の後ろから廊下に出た。
廊下は少し薄暗かった。それでも電気を消している教室よりは明るいだろう。北側の窓から入る明かりと天井の照明があれば、顔を認識するのに問題はない。
正面から廊下を走って来たのは、音楽室の鍵を職員室に返した真治だ。廊下の真ん中を走って来たが、階段手前で体を傾けて弧を描く。それはこの後、階段を駆け上がるのに必要なスピードを維持するためだ。
香澄は真治が階段の手前で体を傾けた所で会釈をした。真治は直ぐに気が付いて右手をあげる。しかし、スピードはそのままで、カーブを駆け抜けると、階段を二段飛ばしにジャンプした。
香澄はそのまま歩いて行き、階段の登り口が右上方に見える所まで歩みを進める。真治は最初に左足でジャンプし、右足で着地していた。その勢いで左足を前に出していたが、体重は乗っておらず、止まって香澄を待つ。手すりを右手で握って体を支え、反るように振り返って香澄を見た。
「帰るの?」
「はい」
真治の問いに香澄は答えた。そして、心の中で祈る。
「一緒に帰ろう」「はい!」
香澄は返事を急ぐ。真治の表情が、途端に笑顔へと変わった。何だか嬉しい。
「カバン取って来る」
真治は右手で掴んだ手すりを引いて勢いを付け、再び階段を一段飛ばしで登って行った。足音はしていたかもしれないが、香澄の耳には入っていなかった。
香澄は深呼吸した。何だか最近上手く行き過ぎる。これは運命の歯車が噛み合って、順調に回り始めたのだと考えることにした。教室の前扉にあるガラスが鏡のようになっていて、香澄の姿を映し出している。もう一度目を閉じて深呼吸した。そして目を開けると、右手で髪留めのピンを、一気に引き抜く。
今朝苦労して網目を付け整えた髪が、薄暮の廊下で弾け、網目が揺らめきながら消えてゆく。そしてひとまとまりの流れになると、天使の輪が浮かび上がる。真治が好きだと言ってくれた髪型が、香澄の背中にたなびいた。
ガラスを鏡代わりに体を左右に振って髪を整え、前髪のバランスを整え、耳を出すか隠すかを試した。恥ずかしいから、やっぱり耳は隠そう。準備が終わると『普通の顔』の練習をして深呼吸し、背筋を伸ばしてカバンを両手で持つ。
直後に階段をダダダと降りて来る音がする。『ダン』と踊り場に着地する音を聞いて、香澄はゆっくり半身だけ振り返り、階段の真治を見つめた。
真治は踊り場で手すりを左手で掴み、それを支点にして走る向きを変えた。再び階段を降りて来る途中で、香澄の髪型が変わっていることに気が付き、二度見する。香澄はその真治の二度見に気が付き、咄嗟に声をかけた。
「髪留め、壊れてしまいまして」
香澄は真治の前でバサッとする程、勇気はなかった。言訳だ。
「たいへーん。買いに行く? でも、その方が良いよ!」
真治が笑顔になったので、香澄はそれだけで良かった。
思いもしなかった質問には、もじもじするだけで、答えられなかった。




