長い日曜日・小野寺家
真治は両手をズボンのポケットに入れ、早足で歩いていた。もう切り替えていて、時計がコチコチと時を刻む。やや前傾で歩くその姿勢は、知らない人が見たら急いでいる人そのものだ。しかし真治にとってそれは全速力歩行ではなかった。まだ腰を振っていない。出力で言うと大体八割位だ。
左手をポケットから手を出し、時計を見た。そしてまたポケットに突っ込む。ゴールは見えているのに着かない。これがイライラする。また時計を見た。
遂に真治は小走りになった。駅前まで来ると、牛丼屋の前を通らず、反対に向かった。『アイランドA』の入り口を通る時、右手を出してパナバ帽に手を添えて顔を隠した。
裏手に回ると、扉に付けられた十センチ程の蓋を上に開けた。解錠する暗証番号を押した。開いた。蓋を戻す。ドアを開けた。入る。そしてドアを閉めた。誰も見ていなかったが、真治はちょっときびきびとした動きをして、格好付てみた。ムーンウォークは練習中だ。
「小野寺戻りました」
バックヤードは誰もいなかった。誰に言った訳ではない。そういう決まりになっていたからだ。真治は廊下から店長室に入った。
「真治戻りました」
「あ、早かったね」
今度は店長がいた。受話器を置いて、丁度時計を見た所だった。
「皆さんに悪いですからね」
「済まないね。レジ混んでくると思うから、サポートに行ってもらえる? あと、そろそろ明日の精肉が届くかな」
店長がそう言って書き物を終え、顔をあげた。真治もその目線の先にある時計を見た。
「半でしたっけ?」
「そう」
十六時半まであと十六分。真治は店長室にある自分のロッカーを開けると、店長がそこにいてもお構いなしに着替え始めた。
「今週雨が多いみたいだから、雨備品のチェックよろしく」
「判りました」
「あと、あれだ、何だっけ」
着替えている最中も店長からの指示が続く。
「卵の特売ポップですよねっとっとっと」
真治はズボンを履き替える時、引っかかって片足でぴょんぴょん跳ねた。
「そう、それ。チラシと一緒に出したよね」
「はい。昨日ゲラあがってたんで、OK出しときました」
「ありがと」
店長は書き物をしながら顔をあげた。着替えた真治と目が合った。
「良い感じだった?」
「はい。特・売・って感じで」
真治は右手で空中に特売の文字を想起させた。
「いや、チラシの方」
店長は主語が少ない。しかし真治はいつものことなので、気にしてはいない。
「はい。Zに各売り場の目玉が配置されてました」
「赤?」
「はい」
「了解」
赤とは、赤と黒の二色擦りということだ。真治は作業帽を被り、鏡の前で身支度チェックを始めた。
「多目にしたんだっけ?」
また主語のない質問だ。真治は鏡越しに店長と目を合わせると答えた。
「はい。青山に一束追加してます」
「OK」
そう言って店長は下を向いた。青山とは、この辺で経済新聞を一手に取り扱っている青山新聞店のことだ。そこに一束・千枚の、チラシの折り込みを依頼したのだ。
「あれさ、家にも来るんだよね」
店長が言いたかったのは、自分の店のチラシが自分の店に新聞が届けられる場合にでも込みになっている、と言うことだ。知ってるっつーの。
「仕方ないですよ」
笑いながら真治が答えた。しかし店長は納得が行かないようだ。
「小野寺に配る分を他に回してくれれば良いのになっ」
「ちょっとした量にはなりますからねぇ」
苦笑いして真治は答えた。店長は笑っていない。きっと無駄になったチラシ代と、機会損失額を計算し、いつもだったらおつりを五回ボケる所を、三回にすべきか考えているのだろう。
真治が今住んでいる、駅前商店街にある住居兼店舗が総本店で、その目の前にあるスーパーが一号店、駅の反対側が二号店、ここが三号店、そしてここから車で五分の所に四号店がある。みんな一族の経営だ。主語がない店長は、叔父の小野寺大樹である。
「じゃぁ、行ってきます」
「おう。よろしくな」
真治は時計を見た。半まであと十一分三十秒。やばいギリギリだ。真治は小走りに搬入口へ向かった。
真治が搬入口に着くと、島田運送のトラックが丁度着いた所だった。バックライトが点灯した瞬間、運転手が真治に気が付いて右手をあげた。そして、窓を開けて顔を出す。
「もう着けちゃって良いかな?」
「お願いします」
真治はプラットホームから飛び降りると、トラックの後ろに回り込んだ。
「オラーイ。オラーイ。オラーイ」
島田運輸の運転手、島田啓介は真治の従兄弟である。いつもの搬送ルート上にある三号店にブロック肉を運んでくる。壁際一メートルの所で止まった。
二回切り返して、やっとプラットホームに正対する。真治は隅の階段を使ってプラットホームに上がり、声を張り上げた。
「オラーイ。オラーイ。あと五十、二十、十、ハイ、オッケーでーす」
ハイの所で真治が右手を上げると、トラックは止まった。すると運転席から啓介が、納品伝票を持って飛び降りて来る。そして一メートル程のプラットフォームにピョンと飛び乗った。
「お疲れ様です」
「ちょっとトイレ貸してなー」
真治の挨拶に右手を上げて返すと、振り下ろしたと同時に納品伝票を真治に渡す。そして奥に消えて行く。真治はトラックの扉を開けると、伝票に記載されているブロック肉を降ろし始めた。三号店に降ろす分は、キャスター付きのかご台車に乗せられており、真治でも降ろすことができる。そうでなければ啓介がする作業だ。
真治はブロック肉を降ろすと、トラックの扉を閉めた。そしてもう一度伝票と降ろしたものを突合して検品する。問題は無さそうだ。
真治はプラットホームの端にある机に向かうと、胸ポケットに挿しているボールペンを取り出し『小野寺』とサインした。そして、三枚複写の一番上にある納品書だけを切り離し、机の中にあるバインダに挟み込んだ。
「啓介兄さんはコーヒーだったな」
そう言うと隣にある冷蔵庫を開け、冷えた缶コーヒーを取り出した。そして、下二枚の納品書控と請求書を置き、その上に文鎮代わりの缶コーヒーを置く。
真治がブロック肉をバックヤードの精肉用冷蔵庫に押して行くと、ハンカチで手を拭きながら戻って来た啓介とすれ違った。
「顔缶の方、置いときました」
「サンキュー」
啓介は拭き終わったばかりの右手を勢い良くあげて真治に礼を言った。真治は会釈。冷蔵庫には缶コーヒーが三種類常備されている。顔缶、ジョージア、そして、マーックスだ。真治はもうマックスを卒業している。
「次、四Gですか?」
「おう」
「よろしくお願いします」
「おうおう」
二人は止まらずに会話してすれ違った。短く交わされた二人の会話を一応翻訳しておく。
『次は兄のいる四号店ですか? 今から行くとちょっと渋滞してますから、ここでトイレに行っておかないと大変ですよね』
『はい。そうなんですよ。何かトイレ借りに来たみたいで恐縮です。いつも助かってます。本当にありがとうございます』
『いえいえ、こちらこそ。少ないのに遠回りして配達して頂き、ありがとうございます。これ、いつも同じ缶コーヒーで、芸がなくてすいませんが、どうぞ車で飲んで下さい。あと一店、安全運転でよろしくお願いします』
『いやいや、丁度喉が渇いていたので助かります。いつもお気遣いありがとうございます。お兄さんには真治君が元気にやってるって、言っておきます』
こんな感じだ。多分。真治は精肉用冷蔵庫へ急いだ。
「レジ補助入りまーす」
手を洗ってバックヤードを出た真治は、サービスカウンター内にいるレジ責任者の小野寺由美子に声をかけた。店長の妻で、母上の妹君である。
「あ、真ちゃんおかえり。早かったのね」
「はい。つつがなく」
由美子は今日の朝礼での、真治と精肉部島田の外出願いを思い出して笑った。
「それじゃ、五番レジに入って」
「判りました」
真治は直ぐに五番レジに向かった。行列で並んでいる客の間を会釈しながらすり抜けて、五番レジに入った。
「補助入りまーす」
真治がそう言うと、振り返ったのはパートに来ていた真理子だった。
「小野寺さん、助かります」
その声がけ、正解である。真治の胸には『小野寺』と書かれたネームプレートがあったし、真理子の胸には『進藤』とある。二人が十年間一緒に暮らしていたことなど、レジに並んでいる人達が知る由もない。興味もないだろう。
真理子がレジ打ちした商品を真治がビニール袋に入れて行く。重たいものを下に、軽い物、壊れ物を上にテキパキと袋詰めし、かごに入れて客に返す。
「三千七百二十一円です。駐車場のご利用はございませんか?」
「はい」
返事をしてくれる方がましな客である。だいたいが黙って頷く位だ。金銭のやり取りをしてお辞儀。
「ありがとうございました」「ありがとうございました」
そしてまたレジ打ちに戻る。レジ内にいる二人だが、立場の違いはある。真理子はレジ係として自給七百五十円で働いているが、真治はただの家のお手伝いであり、時給は発生しない。名目上『店長付き』となっているが、名刺がある訳でもなく、権限がある訳でもない。
そんな二人が協力してレジ業務をこなしていると、レジ待ちの列がどんどん短くなって、ついにゼロ人となった。真治が時計を見る。一七時四十三分になっていた。正解。
「じゃぁ、雨備品のチェックに行きます」
「判りました。ありがとうございました」
真理子は笑顔で真治に頭を下げた。真治も真理子に頭を下げて五番レジを出た。そしてサービスカウンターの由美子に声をかける。
「一息付いたので、雨備品のチェックに行きます」
「判りました。よろしくお願いします」
由美子は贈答品を包装しながら真治に答えた。真治は会釈して、再びバックヤードに向かう。
「いらっしゃいませー」
買い物途中の客に、笑顔で声がけをしつつ歩く。そして、バックヤード手前のウエスタン風扉の前に立つと振り返り、売り場に一礼してから奥に消えた。
倉庫に行こうとした真治は、鮮魚売り場厨房責任者の島崎に呼び止められ、来月に迫ったうなぎの日に備えた発注状況を確認され答えた。そしてゴミ出しを手伝った。手を洗って倉庫に行こうとすると、今度は精肉売り場厨房責任者の島田に呼び止められ『今日の首尾』と入荷の数量確認を求められたので数量のみ回答し、これまたゴミ出しを手伝った。
今度こそ手を洗って倉庫に行こうとしたが、今度は店長の小野寺に、青果に割引シールを貼るように言われ、五%引と十%引のシールを印刷した。そしてシールを貼っていると、再び鮮魚売り場の島崎に呼び止められ、余らせていた十%引のシールをお刺身に貼るように言われて貼りに向かった。それが終わる頃、今度は精肉の島田に呼び止められ『今度店に連れて来い』と背中を叩かれた後、余らせていた五%引のシールを貼った。時刻は十八時半になっていた。
真治は急いで閉店まであと三十分の案内放送を入れた後、閉店間際に混雑するレジへ急いで向かった。
結局雨備品のチェックは閉店後になった。雨天時に傘を店内で持ち歩くための、細長いビニール袋の在庫確認と、貸出用傘の破損チェックである。
それと、誰も気にしていないかもしれないが、電話番号は店毎に違う。だから一号店で貸し出した傘が三号店に返却されていたら、一号店に戻すのだ。それが面倒で、新しく調達した傘に、電話番号は入っていない。
真治が学校の置き傘にしていたのは、五号店の電話番号が記載されたものだった。だから、見間違える筈もない。
結局、家に帰ったのは二十時十二分だった。総本店の閉店時間は過ぎていたが、最後の客が帰った所だった。後片付けをして自販機横のごみを片付け、シャッターを降ろして鍵をかけた時、時刻は二十時五十分になっていた。
「ごはん前に、早くお風呂入っちゃいなさい」
「はい」
小野寺家の夕食は二十一時からである。真治は既に眠っている小学生の妹が起きないように、そっと廊下を移動して、カラスの行水をした。
七分で夕食が終わり、食卓には本川根の『おくみどり』と『あさつゆ』の手もみひね茶が淹れられ、お茶の飲み比べ会が始まった。舌の奥、両サイドに広がる川根茶独特の渋みを楽しんでいる最中に、真治は勇気を出して『今日、木白に行った』とだけ話をした。
両親は既に『ピアノ教室のド偉い恵子先生の大事な大事な一人娘、香澄ちゃん』と出かけたことを知っていて、逆に真治が香澄の母親の名前を知った。
父上からは『人様の大事なお嬢さんなんだから判ってんな』と釘を刺され『今度女の子泣かせたらぶっ殺すかんな』と睨まれた。プリンを買ったことも知っていて『駅前の洋菓子店で一昨日プリンを買って行ったばっかりなのに、大丈夫だったか? 気が利かない』と心配された。
母上からは『そんな前日に誘うからよ』とダメ出し。『もう小学生じゃないんだから』と注意され『女の子も準備があるんだから一週間前には何処行くか伝えなさい』の後『妹を連れ回すのと違うんだからね』ときつく念押しされた。
両親揃って『何でもお兄さんに迷惑をかけるんじゃない。ちゃんと相談しなさい』と出世払いもバレていて『ちゃんとゆっくり歩いてあげたのか』とか『ちゃんと話聞いてあげたのか』とか『ちゃんと明るい内に家に返せよ』とか『ちゃんと家まで送ったんだろうな』とか『ちゃんと系』の質問攻めになった。
それでも、クッキーはちょっと意外に思ったようだが、どのメーカーのクッキーとも一致しないことから、即、手作りとバレた。『ちゃんとお礼言ったのか』の問いに真治が返事をすると『香澄ちゃんの手作りなんだろ。良かったな』と言って微笑み、手を伸ばして食べることはなかった。
母上の『ちゃんと今日中に全部食べて、明日お礼を言いなさい』の助言を無視し、一枚だけ食べて思い出に浸り、残りを厳重に保管したのだが、母上の警告通り、翌朝には鼻の利く妹が発見し、何も知らずに平らげた。
真治は今が季節の『なすびの花』を想い浮かべ、猛省した。




