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長い日曜日・小石川家

 香澄が帰って来た。四時半。意外と早かった。ここに引っ越して来て、直ぐに香澄と真衣は友達になった。恵子はこの調子で、香澄がどんどん日本での生活に馴染んでくれることを願ったが、その思いは叶わなかった。

 それでも香澄が真っすぐに育ったのは、エアメールと真衣のお陰だと思っている。中学に入ってから、エアメールは大分減ったが、真衣との友情はそのままだ。だから、香澄が真衣に会いに行くと言った時は、必ず許可していた。恵子は玄関を解錠し、ドアを開けた。

「ただいまー。お母さん、プリンありがとうですってー。あと、チンジャオロース頂いたー」

「またなの。良い香りね。あら、あなたピーマン嫌いなのに大丈夫なの?」

「おばさんのチンジャオロースは好きー」

 恵子は自分の調理したチンジャオロースを軽く否定された気になり、ちょっと嫉妬した。進藤親子とは恵子も親しくしている。外で会えば立ち話もするし、授業参観の帰り道は一緒にお茶もした。しかし、真衣も、母親の真理子も、恵子の誘いに応じて、自宅を訪れることはなかった。

「そう。それは良かったわ。じゃぁ、夕飯は餃子と炒飯をチンしようかしら」

「中華定食ー」

 香澄が喜んでいる。が、ピタッと止まると恵子に聞いて来た。

「お母さん、中華も箸使うの?」

「使うわよ」

「じゃぁ、私、箸が良い」

 確認が終わった香澄が希望を述べた。

「珍しいわね」

「家にも箸置きある?」

 香澄が質問を追加する。

「あるわよ?」

「じゃぁ、それもお願い」

 恵子は驚いた。香澄に箸の使い方を教えたが、学校でからかわれてから、極端に使わなくなっていた。それでも何故か箸を使いたいと言ってくれた香澄の気持ちを考えて『どうしたのかしら急に。明日は雨かしら』という言葉を飲み込んだ。

「お箸のマナー本あったかしら」

「見せて!」

 二階に行きかけた香澄が踵を返した。恵子の両手を握って上下に揺らす。恵子は驚いてその波を体を揺らして表現した。

「どこだったかしら」

 香澄を引き連れて台所の隣にあるパントリーに入った。そこにはちょっとした恵子の書斎コーナーがあって、小さな机と、料理本と、料理に関係する本だけが並んでいる。

「これかしら」

 恵子は和食の本を取り出すと、目次を見て、終わりの方にある箸の使い方のページを開いた。確かにあった。

「寄せ箸、迷い箸、刺し箸、叩き箸」

「借りてくね」

 香澄は恵子が読んでいる本を取り上げると、パタンと閉じる。そしてパントリーを走って出て行った。

「読んだら戻しておいてねー」

「はーい」

 もうパタパタと階段を登る音がする。

「着替えなさいよ。クリーニングに持って行ってあげるから」

「はーい」

 遠くなる香澄。まだ聞こえているようだ。

「夕飯まで練習するんですよ」

 最後の問いに香澄の返事はなく、代わりにバタンとドアを閉める音だけが聞こえた。恵子は肩を竦めた。

「何かあったのかしら」

 理由は判っている。どうせ男絡みだ。香澄が連れて来た『小野寺先輩』。中学生にしては大人びた印象の子だった。悪い子では無さそうだ。香澄もピアノも好きそうだし、部活の先輩だと言うのだから、音楽が好きなのだろう。

『音楽が好きな奴に、悪い奴はいない』

 急に恵子は、昔、旦那、いや当時は音楽プレイヤー同士、という共通点しかなかった男が、自分を食事に誘う時に言ったセリフを思い出した。

「今は何処にいるんだか」

 ぼそっと恵子は呟いた。ピアノ教室への電話は、各部屋の電話機で取ることができ、内線番号で転送もできる最新のホームテレフォンだ。一方、夫に教えた電話番号は寝室に設置された昔ながらの洒落た黒電話が鳴る。それは実質上のホットラインになっていた。

 時差を考えずに電話をかけて来る夫であったが、恵子はそれでも声が聴けるのが嬉しくて嬉しくて、どうしても悪い奴とは思えないのであった。

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