雨の帰り道
雨が止むのを待っていた。梅雨だと言うのに、傘がないからこうなるのだ。部活が終わって静まり返った校舎。その外で、雨音が憂鬱な旋律を奏でている。
目の前に傘はある。沢山ある。誰のとも知れぬ傘である。今日借りて、来週返すことで誰が咎めよう。何しろどう見ても、今学校に残っている生徒以上の傘が、そこにある。雑然とした傘立ての中に、透明の傘、自分だけが判るはずの小さな丸印をつけたそれが、あるはずだった。
待ちくたびれて、香澄は小さく息をして外を見た。風に吹かれて鳴る電線のソプラノに、壊れた雨樋から紬出される滝の音がテナーとして加わり、春の終わりを告げるメロディーとなって奏で続けている。夏も近いだろう。しかし、それは今ではない。外はこれ以上明るくなる気配はなく、雲の上にある夕日はこのまま西の彼方へと転がって行き、やがて夜がやって来る。
帰ろう。濡れても仕方がない。一歩踏み出そうとした時、後ろで『ダン』とスノコを踏む音がした。香澄は驚いて振り向いた。
「小石川さん、傘ないの?」
気の毒そうに話しかけたのは真治だ。手も使わず上履きを脱いでいる。
「あ、はい」
香澄は小さい声で真治に返事をした。小野寺先輩が、来た、とは思っただけで口にはしていない。
「おやおや」
そう言いながら真治は、右手に持っていたカバンを左手に持ち替える。脱いだ上履きを右手でひょいと掴むと、下駄箱の最上段に軽々と入れた。返す手で黒い革靴を取り出し、放り投げる。『ダン』と音がして転がったそれを、またも手を使わず、今度は履く。右足のつま先を床面で叩きながら、雑然とした傘立てより、頭一つ飛び出た黒い傘を、右手で勢い良く引っ張り出した。
思ったより長いその傘は、右手を離れると天井を目指す。しかし、強く握り絞められて急停止する。親指で傘を纏めているボタンがピンと外されると、器用にくるっと回して上下が逆になった。
まだ屋根があるのに、真治はその場でボンと傘を広げ、香澄に聞く。
「入ってく?」
香澄が傘を羨ましそうに見ていたかは判らない。真治が下駄箱の前で広げた傘を、香澄の方に差し出した。しかし、突然の提案に驚いたのか、それとは違うのか、香澄の返事は早い。
「い、良いです」
両手でカバンを持ったまま、小さく膝を曲げながら答え、うつむいた。また小さい声だった。
小さい声にはそれなりの理由がある。真治は同じ部活の先輩でトランペット。対して香澄はクラリネット。接点は殆どない。百人以上在籍する大所帯の吹奏楽部の中で、二人は殆どその他大勢の一人と一人だった。
「そっ」
だから真治が無理強いするでもなく、あっさり流したのも理解できる。傘の柄を手の平に乗せ、バランスを取りながら香澄の前まで来る。
「じゃぁ、借りて行けば良いのに」
真治は香澄を見てから、傘立てを見た。まだバランスを取っている。黒い傘が一本減っただけで『沢山』は相変わらずだ。
とんでもないことだ。香澄は口を横にぎゅっとすると、両手で持っていたカバンから右手を離し、自分の胸の前で左右にバタバタする。セーラー服のリボンが右手に当たって揺れ、体の前にあったカバンが右手の支えを失って左側に流れて行く。そして下駄箱の側面に当たって『ダン』と音がした。
夕方の静かな校舎にあって、十分大きな音だった。香澄はその音に驚いて目を丸くすると、つま先立ちになる。そして音のした方に振り返った。長い髪が縦に揺れ、直ぐに左回りに波打つ。
「真面目だねー。じゃぁお先にー」
その様子を見た真治は、笑いながら振り返って外に出ようとしたが、半分閉じた校舎の扉に傘が引っかかってしまい、傘が真治の方に倒れて来る。
「あぁあぁあ」
慌ててのけ反った真治を見て香澄は笑う。傘を何とか持ち直すのに必死で、真治は香澄の笑顔を見てはいなかった。左手にカバンを持ったまま傘の柄を持つと、右手で傘を少し閉じて校舎の外に出て行く。
「あ、あの、えっと、前に」
香澄の声はまた小さかった。だから真治が、ボンと広げた傘の音で簡単に掻き消される。振り返らない真治を見て、仕方なく会釈をするしかない。
「お疲れ様でした」
今度は傘に当たる雨音で掻き消されたのか、真治は傘を少し上に上げると空を見上げる。まだしばらくは降り続くだろう。置いて行かれた香澄もつられて、ガラス越しに空を覗き込んだ。そして、溜息がこぼれる。いつも通り届かない。
不意に、真治が振り返る。
「もしかして、彼氏さん待ち?」
右手に持った傘も回転して、また香澄の方に戻って来た。冗談っぽい言い方で、声もでかい。驚いた香澄は、息の吸い方で混乱しつつ、右手を左右に振り千切った。顔が少し赤くなったかもしれない。それなのに、真治はただ頷いた。口を尖がらせて『なーんだ』という顔をしている。
「もう暗くなるからさ、入って行くか、傘ぱくって行くか、どっちかにしなよ」
そんな選択肢を急に提示されて、香澄は考える。考えている様子を真治は笑顔で見ている。どうしよう。香澄は混乱して、困って、そして迷う。
そんな香澄を見ながら、真治は『どっちにすんの?』という顔をして、首をかしげる。迷っている香澄には、その首の傾き具合と方向が『来いよ』に見えたのか、それとも真治の笑顔につられただけなのか、困り顔から笑顔に変わる。
香澄は向かい風に抗ってもう一度、一歩を踏み出す。息を止め下を向き、真治の隣に駆け寄ると、傘の下で立ち止まった。雨はまだ降っている。
「じゃあー、帰りましょー」
アウフタクトのメロディで始まった呑気な歌は、直ぐに大きすぎる雨音のドラムロールで掻き消された。それでも真治二拍子、香澄三拍子の歩みで揃っている。真治はトランペットを吹くように前を向いていたが、その右で香澄は、クラリネットを吹くように下を向いていた。
真治の右手に持つ傘の柄が指揮棒に見えた香澄は、八小節目で見上げたのだが、真治と目が合うと我に返り、息を止め、直ぐに下を向いた。
県道からガソリンスタンドのある信号で右に曲がる。畑の中を緩やかにカーブを二つ三つ曲がると、左側に通称『パン屋』という名の雑貨店があって、そこに中学校前のバス停がある。校門から見て駅とは逆のやや左だ。
真治と香澄が校門まで辿り着いた時、加速して行くバスが左から右に通り過ぎて行った。歩道の終端から流れ落ちる雨水は横断歩道を川に変え、バスが起こした波しぶきが水藻に映した街灯を白一色に変える。そして、ゆらゆら揺れながら薄暗い雲の色に還り、街灯がオリオン座のように並ぶ景色に戻った。
「バスに乗っても良かったね」
「そうですね」
真治の問いに気が付いて香澄は答えた。駅まで一直線に続く並木道を遠ざかって行くテールランプ。名残惜し気に二人は揃って見つめている。真治は笑いながら香澄を見る。
「でも、バスの時刻なんて覚えてないよね」
「そうですね」
視野の上限に真治が見え、少し上を見て香澄は答えた。目は合わせられない。しかし、確かにそうだ。一時間に一本で、次が終点のバスに乗る生徒はいない。駅までは歩いても七分か。近い。毎朝、駅からぞろぞろと歩いてくる生徒達の姿が、この町の風物詩となっている。
「この辺で渡ろうか」
「そうですね」
真治が右左右と素早く確認した。香澄は一拍遅れたので、真治の陰から左側だけ確認する。川となっている信号のない横断歩道を少しだけ避けて、足早に駅前通りを渡った。
並木道の広い歩道に辿り着いた二人は、ふうと揃って息をして少し安心した。そしてゆっくりと歩き出す。
「さっきから『そうですね』しか言ってないね」
真治が香澄の目を見て言った。笑っている真治を見ていた香澄は、何か面白いことがあったのか、理解できていない。真治と顔を合わせたまま、きょとんとしている。その顔のまま右後ろになった校門を振り返り、今歩いて来た所を見て、もう一度真治の顔を見た。気が付く。
「え? あ、そうですね」
「あはは、また言った」
真治の笑顔を見て、香澄もつられて笑った。雨は降り続いている。
「そーんなに緊張しなくても、良いのにー」
真治が右手首を使って、左右にぐりぐりと傘を振りながら言う。
「すいません」
香澄は確かに緊張していた。緊張し過ぎていた。だから何だか可笑しくなって苦笑いし、左手で額にかかった前髪を後ろに流す。どうして髪を触ると緊張が解けるのかは良く判らない。多分無意識だろう。
真治は毎朝音楽室の入り口にいて、出席を付ける係だった。後輩には、のんびりとした口調で『おはよー』と声をかけている。本人にしてみれば、優しい先輩のつもりだ。
しかし二人は、お互いに『おはよう』以外の言葉を交わしたことがなかったのだ。今までは。
「あ、あのっ、まっ」
「クラリネット、どう? あっ、楽しい?」
「えっ、あ、そうですね」
何だか話が噛み合わず、互いに目を合わせて笑う。真治が笑顔で発言権を香澄に譲った。香澄は迷ったが、真治への回答を優先することにする。
「普通のドレミファソラシドは良いんですけど、合奏になるとぐしゃぐしゃになります」
少し困った顔をして香澄は答えた。真治は首をかしげる。
「クラリネットもB菅だよね?」
「はい。学校のはそうなんですけど、なんか私のは違ってて、A菅なんです」
何故か吹奏楽部ではドイツ音階が使われている。B菅のトランペットとクラリネットでハ長調のドレミファソラシドを合奏する時『レミファ♯ソラシド♯レ』と演奏する。だから楽譜もそう書いてある。しかし香澄は、その楽譜を見て『ミ♭ファソラ♭シ♭ドレミ♭』と演奏しないといけない。そう言っているのだ。
「ありゃ、そんなことあるの?」
真治は驚いて香澄を見る。
「あるんですよー」
香澄は困った顔を真治に向け、肩をすくめる。
「パ、父から貰ったクラリネットなんですけどー」
『パパ』と言いそうになって言い直した。
「へー、とーっても大事なクラーリネット、ですな」
言い直したことに触れはしなかったが、歌で返したことで指摘したも同じであろう。香澄は頷いて、口を開く。
「そーなんですよ。本当に、最初は壊れてると思ってー、教本の指番号通りに吹いても出ないしー、ドレミファソラシドが。でー、良く見たら教本のクラリネットとー私のクラリネットがー全然、違うんですよー」
よほど鬱憤が溜まっていたのか、香澄は左手を振りながら、今までで一番長いセリフを吐いた。そして笑った。
「先輩も判らなくて先生に聞いたらー『あぁこれオケ用だな。頑張れば良い音出るからー。ハッハー』って言ってー、もー」
「へー、そんなことがあったんだー」
目をくりくりさせ、先生の真似をしながら話す香澄。ちょっと似ていると思って真治は笑った。『オケ用』とは『オーケストラ用』のことだ。笑いながらも真治は思った。そう言われてみると、トランペットにもC菅がある。もしそんなトランペットを渡され、今の楽譜を見ながら、直ぐに合奏しろと言われたら、無理だ。ちょっと自分専用に転調して書き換える。
真治は香澄の困りようを見て、何だか不思議な違和感を感じた。
「あれ? でもさー、何かみんなと一緒にふつーに演奏してない? 三曲ともさ。結構ピロピロするよね、クラリネットって」
真治は傘を持つ右手の指を、クラリネットを吹くみたいに動かす。そして首をかしげて香澄を見た。香澄はトランペットの真治から、そんなことを言われたからなのか、驚いていた。返事がないので、真治が言葉を続ける。
「それじゃー、結構、頑張ったってーこと?」
「はい! 頑張りました!」
今度は、雨に負けない声で答えがあった。左手でぐっとガッツポーズをしている。香澄は自分の努力を見てくれていた人がいて、凄く嬉しかった。真治は、随分とまぁ器用な人だなぁと思ったのだが、夕練の後、香澄が音楽室の鍵を閉めるまで、残って練習していたのを思い出した。努力家だったのだ。
人数の割に狭い音楽室で演奏する時、全員分の譜面台を設置する余裕はない。一人しかいないオーボエとかでなければ、同じパートの奏者と共有するのが普通だ。香澄も例外ではなかった。だから、香澄の楽器用の音階になっていない楽譜を、常に頭で転調しながら演奏をしていることになる。真治は違和感の理由が判った。見た目普通に演奏しているように見えて、裏側でそんな苦労があったとは。凄い。
真治はふと不思議に思った。何故、香澄が合奏の時は、譜面台を共有している、ということを知っているのだろうか。
指揮者から見てクラリネットは中央から左側一帯で、前列からファースト、セカンド、サードと並んでいる。一年の香澄は中学からクラリネットを始めた初心者で、一番後ろのサード。トランペットは指揮者から見て正面奥の方、右からファースト、セカンド、サードと並んでいて、小学生からプースカしていた真治はファーストで一番右にいる。音楽室の対角線に近い場所ということになる。申し訳ないけど、正直見ている余裕もないし、見えやしない。
三年生はコンクール用の曲を練習していたが、それ以外の一、二年生は三曲の練習曲が与えられていた。その中で香澄は二曲目が好きだった。
二曲目の百八十小節目が『秘密のロングトーン』である。通常クラリネットは両手で演奏するが、この時だけ左手のみでロングトーンを演奏する。その時を見計らって、体を捻りながら右手を伸ばして譜面のページを捲るのだ。香澄はクラリネット最奥壁際、スネアドラムの前で演奏していたが、その時だけ、指揮者を横目に見ることになる。視線の先にはクラリネットの横顔が並び、その先は休符で楽器を降ろしたホルンが見える。そして、その先、ホルンが休符で楽器を降ろしているからこそ、隙間から真治が見えた。
トランペットは右手で演奏する。だから左手でページを捲るため、体を右に捻り左手を伸ばす。自然と右を向く。譜面を捲るその瞬間だけ、真治と香澄は向き合って、目が合う。いや、そんな気がしているだけかもしれないが。いや、気のせいだ。
「そう言えば、今日、リードミスしてたでしょ」
「え、何でバレたんですか?」
香澄は飛び上がらんばかりに驚いた。リードミスとは、クラリネットを演奏中に思いがけず『ピッ』と高音を出してしまうミスのことだ。これをやってしまうと結構恥ずかしい。しかし、クラリネット初心者の集まりで、この時期、まぁ、演奏毎に誰かやらかすのは普通だし、知らぬ顔をしていれば、誰がやらかしたなんて判る筈もないのだ。
「あれ、何で判ったんだろうね。あれ?」
香澄に問われたが、真治には理由が思い当たらない。不思議に思って笑いながら首をかしげた。香澄は下を向いて口をもごもごしながら顔も耳も赤くした。
今日は『秘密のロングトーン』の時、右肘が譜面台に当たって驚き、リードミスをした。だから今日は真治と目が合わなかったのだ。何か残念に思ったのも覚えている。それが、それでも真治が香澄を見つめていたであろうことは理解できた。それはもう、何とも言い難い恥ずかしさと嬉しさで、心音が雨音を超えてフォルテシモになった。呼吸の仕方が判らない。
不意に真治の足が止まった。下を向いていた香澄は傘から出そうになった。
「危ないよ」
傘が前に傾き視野に入ったことで、真治の五十センチ先で香澄の足が止まった。そこは街道の交差点、五メートル手前だと判った。信号は赤。であるが、もう少し前まで行っても、と思った。何が危ないのか、判らない。
その矢先、右から大きくなった光に続いて黒い塊が左へ走り抜けた。瞬間的に雨音とは違う水の音がして、それと共に翼が舞い上がる。香澄の目線まで躍動したそれは、光が駆け抜けた後の闇の中、白く光る波となって向かってきた。
真治はそれが予想できたからなのか、一メートル先の着地地点ではなく、過ぎ去った車の行先、香澄が立つのと反対の方を目で追っていた。
『危なかったね』と言おうとしたその時、手品のように香澄がいなくなっているのに気が付いた。
それからのことについて、のちに二人は語っている。あの時、何がどうしてそうなったのかは全然判らない。しかし今になって思えば、当時の二人にとってそれは、とても重要な瞬間であったと。『もしその瞬間がなければ、今の二人の関係はないか』の問いに対し、二人は目を合わせて『はい』と答えた。『もう一度再現できるか』に二人は、目を逸らせて『いいえ』と答え、吹き出しそうな笑顔になるだけで、詳しくは語らなかった。
右足を着地させる前に驚いた香澄は、思わず左足で飛び跳ね、右足で着地することを考えた。素早く右足を後ろに戻す。しかし右足は、よりによって自分の右手のカバンに妨害され、十分後ろまで足を引くことができない。右足は体を支えきれない状態で固定された。
それでも左足は、右足の状態を考慮せず動き続けた。四月から履き始めた新品の通学靴は、梅雨のこの時期、まだ踵の角がピンとしていて、全然減っていない。その踵の先二ミリだけが、辛うじてマンホール表面のギザギザのギザに引っかかっていたのだった。
香澄の左膝が伸びて太ももとふくらはぎのベクトルが変化し、荷重が踵にかかるにつれ、踵の素材がゆっくりとつぶれて歪みだした。そして遂に歪みとギザとの摩擦係数について限界点を突破する。香澄の意思とは関係なく、左足はなおも伸び、踵はマンホールの上を鋭く水を切りながら軽快に滑走し、そして大空へ飛び立った。
一方真治は傘の柄より後ろを見ると、香澄がそこにいて、今まで見たことのない丸い目と大きく開いた口を見た。しかし直ぐにそれは、何故か下から沸き上がった香澄の髪によって遮られる。香澄の手が真治の腕を掴もうと伸びてきたが、それは指先が軽く当たっただけで空を切った。
カバンと傘を放り投げた。カバンにかかる空気抵抗は殆どなく、真っすぐ下に落ちる。一方の傘は宙に舞い上がった。柄の下がくるりと縦に百八十度回転する途上で、傘から飛び散る水滴と雨粒が、九十度でクロスする。
その瞬間、右から左に差し込んだライトが、水滴のひとつづつを左回りに反射して光らせながら、空に沢山の小さな十字架を映し出した。それを見た香澄は穏やかな気持ちになって、素直に奇麗だなと思った。そして自分の髪の隙間から、なおも回転を続ける傘の文字『スーパーマーケット・アイランドA』を何故かはっきりと読むことができた。
香澄は首から右腕にかけて確かな支えを感じた。目の前の髪が今度は自分の顔とすれ違うのが判る。そして、その次にやってきたのは真治の顔だった。傘に焦点が合っていた香澄の瞳は、瞬間的に真治の眼差しへと吸い込まれる。さっきまで『そうですね』だけの関係だった二人。それはもう、遠い過去の話だ。
香澄が運命を感じたその瞬間、さらに百八十度回転した傘が、真治の学生帽の上に直立した。二人は、そのまま雨も忘れて固まった。傘も、それは見事なバランスを保ち、真治の頭上にある。雨は止んだのか。
傘に叩きつけるザーという雨音が、時間を元に戻した。
「大丈夫?」
真治の問いに香澄は両手で口を押えて笑いを堪え、そのまま頷いた。真治は頭上の傘を左手でそっと掴んだ。
「痛くなかったですか?」
「石頭だから大丈夫」
二人は傘の下の定位置に戻った。お互いにケガしていないか確かめ合い、カバンを拾って持ち直す。真治が照れ臭くなって、香澄に叫んだ。
「信号青だよ! 行こう!」
「え? 青?」
思わず口にしたが、香澄は『緑』と指摘せずに沈黙する。お互いバラバラの歩調で走り始めた。香澄は右手にカバンを持ち、助けてくれたのに笑ってはいけないと思うのか、左手で作った拳を口に当てて笑いを堪えている。真治も顔が真っ赤になっているのを隠すように前を向き、香澄に声をかけた。
「水たまりジャンプするよ!」
「はい!」
真治が水たまりと香澄の歩幅を比較し、傘を持つ右手を少し下げる。
「掴まって!」
真治が傘を持つ右手を目で示した。香澄は驚きながらも、笑顔のまま真治の右腕を、左手で内側から巻き込むように、しっかりと掴まった。
「ジャーンプ」
「ジャーンプ」
歩道から車道に躍り出る。香澄は真治の右腕を支えにして水たまりを越えた。さっきまでの二拍子と三拍子のリズムは完全に崩れ、バタバタとチョコチョコの拍子で横断歩道を走り抜け、今度は車道から歩道へ水たまりを越える。
「もう一度ね!」
真治の短い声に香澄が頷く。目を細くし、口を大きく開けて笑う香澄。その口を、塞ぐ手段は、もう何もない。
「ジャーンプ!」「ジャーンプ!」
さっきよりも大きい声、合唱のようだった。足も揃って飛んだ。横断歩道を渡り終わって立ち止まると、遂に二人は腰を折り、頭を押さえたり、お互いに指さしたりして笑い合う。一息付いてゆっくりと歩き続けるはずの二人だったが、そのまま右左右左と歩調を合わせている内に段々速くなり、エイトビートに達すると、また笑いながら走り始めた。
信号待ちをしていたバスの運転手は、青に変わったばかりの横断歩道へ、腕を組んで飛び出した中学生を見て驚いた。つい眺めていた。お互いに笑顔で見つめ合っていると思ったら、二度目のジャンプは前を向く。共に口を大きく開けて笑い、傘を二人で掲げるようにすると、背筋をピンと伸ばし、バレエの如き跳躍。後ろに跳ね上がった二人のカバンは、黒い翼に見えた。
我に返ると前を向き、ギアをガコッとローに入れて出発した。微笑みながら、ギアをセカンドに放り込み、バックミラーに映る二人の姿を見守る。
四角い枠の中の二人は、駅の明かりに包まれて逆光となり、見えなくなった。
真治と香澄は駅の直前で左に曲がり、駅に背を向けていた。この駅はちょっと珍しい構造で、帰りの電車に乗る時は、少し離れた地下道を通って向こう側に行く必要があるのだ。真治は電車通学をしていないが、地元だし、それ位知っている。そして、香澄が電車通学をしていることも知っていた。だから駅まで送ると言っても、こちら側ではなかったのだ。
駅まで走って来た二人は、流石に疲れて歩いていた。水没防止のスロープを登ってから、地下道の階段を降りて行く。丁度駅を出発した電車が見えた。
地下道は二人が並んで歩くには十分な広さがある。しかし、中央に自転車用のスロープがあるので、二人が片方の階段部分だけを使用するには、少々密着する必要があった。
自転車を押して登ってきた人を避け、真治は左側の壁に沿って立ち止まると、右手に持ったままの傘をシュッとスライドさせて柄の上の方を持った。そして香澄に水滴がかからないように、柄の先を腹筋に当て、左側に傘を倒すと右手を引いて傘を畳む。くるんと回してカバンを持つ左手を曲げてカバンを上に持ち上げると、そこから人差し指だけを伸ばして傘を受け渡した。
何故そんな持ち方をしたのか。それは真治の右側に立つ香澄が、二の腕を抱え込むように掴んで離さなかったからだ。真治の右手は傘からは解放されたので下に降りた。
「このスロープ、自転車に乗ったまま降りるよね」
「えっ、それは危ないですよ」
褒められたことではないが、地元の悪ガキはやる。香澄は自転車でここまで来たことはない。
真治は階段を降りていた。香澄は左足は階段を、右足はスロープを降りていた。階段とスロープでは高さが異なるので、香澄が右足でスロープを踏む度に真治に寄り添い、左足で降りる度に揺れる髪が、真治の腰の辺りに触れる。
コンクリート打ちっぱなしの足元は雨水に濡れて黒くなっている。入り口からそんな景色が見えていたので、真治は香澄が腕を掴んでいても当然だと思っていたのだ。
「ワーって大声出したりするよね」
「すごく響きそうですね」
「うん。すごく響くよ」
天井はやや低めで、上下は武骨なコンクリート打ちっぱなしだが、両サイドの腰下にはタイルが打たれていて、それなりに響く環境は整っている。
何だか楽しくなってきていた香澄は、ひょいと右足をスロープに乗せ、左足を後ろに曲げて浮かせた。
「ワァー」
笑顔で叫んだ。二人しか歩いていなかった地下道に、香澄の叫び声が響く。その時だった。香澄の声を掻き消す轟音が、地下道を揺らして鳴り響いた。地上を電車が通る音だ。
香澄は驚いていた。細く半円を描き、目じりが下がった笑顔から、スイカの切り口のような口の形はそのままに、眉がきゅっと上がり、二つのまなこはまん丸になって、瞳孔が開く。そして腰の辺りを、真治の腕でがっちりと固定されたのが判った。
「大丈夫?」
電車の轟音が鳴り響いていて良く聞こえなかった。それでも香澄は頷いた。とにかく頷いた。直ぐに腰の辺りの固定は解放される。香澄はどうやって息をしたら良いか判らなくなっていた。それでも直ぐに真治があと数段の階段を降り始めたので、一緒に降りた。二の腕を掴んだままだったのも理由の一つだが。
「気を付けないと」
笑いながら真治が言う。香澄は電車が通り過ぎた、語尾だけ聞き取れた。
真治の言い方から、香澄の腰に手を回して引き寄せたのは、どうやら香澄が転びそうになったから、のようだ。香澄は、調子に乗って叫んだことを記憶から消し、男に守って貰った、ひ弱な女子のままでいることにした。
地下道は所々小さな水たまりがあり、天井から雨が漏れてしたたり落ちている所もあった。武骨な蛍光灯が左右交互に点灯していたが、その一つが寿命なのか、パチパチと規則正しく点滅している。
誰も来ない静かな地下道を、雨漏りを避け蛇行し、水たまりをぴょんと飛んだりして歩いた。二人はこの時、言葉を交わしていなかったが、一緒に上を見上げたり、下を見たりする度、驚いてみたり、笑ったりしながら歩いた。
楽しそうに歩く香澄を見つめていた真治は、上目遣いの香澄と目が合った。真治は目を逸らさなかった。いや、逸らせなかったのかもしれない。潤んだ瞳に街灯の光が揺れていた。そして背後からチカチカ光る蛍光灯の点滅が逆光となって、ゆっくりと移り変わる香澄の表情を、まるでコマ送りのように映し出している。
二人は反対側の階段まで来ていたのに、まるで登るのを躊躇しているように見えただろう。真治が何かを言おうとしている。香澄が口を閉じたまま口角を上げると、不思議そうな表情に変えながら、目を丸くし、真治を掴んだまま前に回り込んだ。小首をかしげると、香澄の背中にあった髪が、右肩から最初は少しづつ、そして纏めて落ちると、ゆっくりと揺れる。
真治は目を何度もパチクリして、前を見ることしかできない。それに、今更ながら、香澄の温もりを、右半身に感じていた。二人は地下道の階段だけを使い、ゆっくりと登って行く。大きくなるのは、雨音だけだろうか。
地下道の出口から空を見上げた。雨が止む気配はない。真治は左手に持っていたカバンと傘を香澄の前に持ってくると、傘の柄を取るように目で合図する。
香澄は傘と真治を交互に見るだけで、遠慮しているのか、傘を手にしない。違う。遠慮ではない。ここが分かれ道であることは判っている。あと数十メートルでも、せめて駅の改札口までこのまま歩いて行きたかった。それだけだ。
「この傘、ぱくったやつじゃないから」
促すように言われて、仕方なく頷く。そんな頷きを確認して、真治は右手で傘を取り、前方に差し出してボンと開いた。黒い傘に黄色い文字で、店名と電話番号が書かれている。どう見ても広告用の傘です。ありがとうございます。
「電車来るよ」
遠くで踏切の音が聞こえている。香澄にも、それは判っていた。学校帰りにここで電車を一本見送って、立ち話をしたこともある。
まだ踏切の音が鳴っているだけだ。十分に間に合う。電車の音が聞こえて来て、先頭車両が見えてきたら、ちょっと危ない。地下道を通り過ぎてしまったら、だいぶ危ない。それでも吐く程ダッシュすれば間に合う。
「また明日ね」
「明日ですか?」
香澄は嬉しくて直ぐに問い直した。しかし真治は、間違いを指摘していると受け取った。
「あ、来週ね」
直ぐに言い直す。聞いた香澄は、自分の返しが良くなかったと反省した。このまま別れれば、明日も逢えたかもしれない。そんなことを考えて、直ぐに甘い希望を打ち消した。無理だ。
真治から左手を離し、右手に持っていたカバンを左手に持ち直すと、右手で傘を受け取った。
「ありがとうございます。お借りします」
「学校の傘立てに戻しておいてくれれば良いから」
「判りました」
二人はしばらく笑顔で見つめ合い、お互いに口をもごもごしている。あと一言があれば、二人の関係は、きっと今とは、全然違うものになるだろう。同じ想いだった。だが、何だか、同じ部活の先輩と後輩に、戻った気がしていた。
香澄の左肩に風を感じる。真治が先に雨の中へ走り出す。頭にカバンを乗せて地下道からのスロープを下り、横断歩道で間を開けて二回ジャンプした。商店街のアーケード下に辿り着くと、カバンを降して振り返り、香澄を探す。
香澄はまだ、傘を持ったまま地下道の出口に立っていた。真治は駅と反対方向を指さす。遠くから電車の音が聞こえ始めている。香澄はその音のする方を見て、もう一度真治を見て、真治に会釈してから雨の中に飛び出した。スロープをちょこちょこと降り、真治にもう一度会釈をしながら、背を向ける。
改札口に向かって走る香澄を眺めながら、真治はアーケードの下を歩く。駅前ロータリー越しに見える自分の傘が、揺れる髪と一緒に小さくなって行く。やがて電車がやって来て、あっという間に香澄に追い付く。まるで競争をしているかのようだが、応援しようにも声は届かないだろう。だからなのか、曲がり角まで来ていたが、曲がらずに、電車と競争する香澄を見つめていた。
改札口に辿り着いた香澄は傘を閉じ、カバンから定期を取り出すと、真治に見せた。真治は『俺に見せるんじゃない』と思いながら、パッと右手を上げた。すると香澄は、また一礼して改札を通り抜け、ホームに上がるスロープを跳ねるように登って行く。電車が止まるのとほぼ同時だった。
車掌が指さし確認する前をゆっくりと歩き、まるで香澄を待っていたかのように扉が開く。香澄は一歩だけ電車に乗り、振り返る。傘の留め具をそのままに右腕へ傘の柄を引っかけると、胸の所で小さく右手を振った。真治はまた右手をちょっとだけあげた。表情は判らないが、笑っていて欲しかった。
直ぐに電車のドアが閉まり、車掌が指さし確認をしている。その間も雨で曇った窓越しに、手を振っている香澄が見えた。真治は香澄がずっと手を振ってくれていたのは嬉しかったが、恥ずかしさもあった。鼻がむず痒くなってしまい、鼻に手をあて、もう一度短く手を振った。
電車が動き出したとき、香澄の手はピタリと止まっていた。そして、直ぐに見えなくなった。真治は深呼吸をして、動き出す。角を曲がり、商店街にある自宅へ向かう。もう、雨に濡れる心配がないのに、軽やかに走って行った。
香澄は真治に合図されて、雨の中へ飛び出した。次の電車まで一緒にいることが無理なのは、なんとなく判る。それでも十分幸せだった。最後で転んだりして、失態を見せないようにしなければ。だから、振り返らずに走る。
『改札口まで見送ってくれていたら、私のことが好き』
心の中で勝手な占いを始めた。改札口で勝負と思って振り返ると、真治はまだそこにいるではないか。嬉しい。
改札を通り抜け、電車に向かう。タイミングは慣れたもので慌てる必要はなかったが、心臓の鼓動は早くなっている。走ったからに違いない。
『見えなくなるまで見送ってくれたら、私のことが大好き!』
また勝手に占った。電車は空いていたが、座ることなんて考えてもいない。香澄は、決心して振り向く。息が止まっている。
そこに、真治の姿があった。音楽室で見る真治とは違い、だいぶ小さくなっていたが、香澄が手を振ると、振り返してくれている。間違いない。真治だ。
占いがほぼ確定したことに嬉しくなった香澄は、手の疲れを忘れて振り続ける。あと何秒だろうか。見えなくなるまでだから、早く見えなくなって欲しい。いやいや、見えなくなるのは寂しい。自問自答して混乱した。ただ、内心では判っていた。一抹の虚しさと、心の底から沸き上がる寂しさと、それと。
目の前に、二人の邪魔をするドアが現れる。それでも香澄にとって、これまでのことを思えば、そんなものは邪魔な内に入らない。問題なしだ。香澄は手を振り続ける。しかし、電車が動き出したその時、香澄の手はピタリと止まった。もう一度確認しようにも、既に真治は見えない。だが、香澄は頭の中で、目に焼き付いた真治の行為について巻き戻し、スロー再生させることが可能だ。
真治が、手の平で口を押えた後、香澄に向かって、素早く腕を伸ばす!
香澄は何かが、心臓を突き抜けたのを感じる。その勢いで、長い髪が水平になったであろう。そして、全身の血が一瞬にして沸き立ち、頭上の煙突と、両耳から熱い蒸気となって吹き出す。これを即死と言うのだろう。そのまま力が抜け、ゆらゆらと倒れ込む。しかし、辛うじて右手が手すりに引っかかると、それを回転軸として、椅子の一番端に崩れ落ちた。
電車は加速する。闇の中を左から右に流れ行く『里わの火影』が、まるで流れ星のように見える。ふわふわ宇宙旅行だ。真治とのこれまでのことが、走馬灯のように頭の中で回り始める。自分を落ち着かせようと深呼吸をしても、肺の奥まで息が入らず、浅い呼吸しかできない。今度は、窒息死を覚悟する。
遠くになっていた目のピントが、落ち着いて近くになったとき、目を見開き、大きく口を開けた自分の姿が、向かいの窓ガラスに映っているのに気が付く。
直ぐに口を右手で押さえる。恥ずかしくて死んじゃう。こんなことは初めてだ。目が見たこともない、恥ずかしい形になっているではないか。だめだ。もう、だめだ。片手では無理。そう悟ると、踵をあげて両膝を持ち上げる。カバンと傘を肘で抑えながら、両手で顔を覆う。顔が熱い。
泣きそうだ。嬉しい。走馬灯は回り続ける。段々速度を上げたそれは、最早模様が判らない。何度も繰り返される。そして、いつまでも止まらない。自分の頭をポカポカと叩いたが、それでも止まらない。もう、どうにもならない。
香澄は、息を大きく吸い、手を口に当てると、声を殺して、奇声をあげた。
電車の中には数人の客がいた。一斉に声がした方を見る。そこには、震えながら感情を押し殺そうと、懸命に努力する少女の姿があった。そんな少女の姿をちらっと見ると『これが本当の黄色い声か』と納得する。皆微笑むと、そっと進行方向に顔を向け、知らんぷりを決め込んだ。
三分後。平静を装って立ち上がった少女は、濡れている黒い傘を、それはもう大事そうに抱えて電車を降りた。進行方向とは逆を向いたまま、ホームの端に立ち竦む。乗客達は心配し、横目でその様子を見守っていたが、電車は定刻通りに出発し、少女の姿は見えなくなった。
少女だけが取り残されたホームの端。屋根の下で、突然傘が開いた。右手に持った傘を高く掲げ、笑顔でそれを眺めながらくるくると回っている。長い髪が曲線を描き、左手に持ったカバンは不規則に踊り出す。
その内に、左足でぴょんと跳ねたかと思ったら、勢い良く右足の膝を高く上げてスキップを始める。今度は上半身を左右に揺らしながら進み、パクパクと動く口は、何かを歌っているのだろうか。
そんな少女の姿を、笑顔の車掌だけが見守っていた。
引用
高野辰之『朧月夜』