八十地蔵の鬼と竜
八十地蔵の北側に古風たる佇まいの学校があります。古風といっても、田舎にある年季の入った木造の小学校のようなものではなく、戦国武将の居城のような威厳を湛える建物です。立派に積まれた石垣の上に五城の天守がそびえたち、建物の全体が黄金色に輝いています。あまりに眩しいので、敵軍が攻め来ようとその輝きだけで追い返すことができそうです。しかしながら、私にはその黄金色の輝きが八十地蔵の街を煌びやかに照らしているように思えるのです。
「ピカッ」
今まさに私はその豪奢に輝く我が味噌だれ中学校から家路に帰する真最中でありました。今日はたいそう退屈たる授業の目白押しでしたから、私の意識はウトウトとどこかへ飛んでいき宙を泳ぐ魚たちにパクッと食べられてしまいそうでした。すると後ろからこちらへ高い風の声と共に大きな龍が流れてきました。
「オォイ、乗ッテユクカァー?」
その龍は、まるで学習机にやっつけで描かれた幼児の絵のような姿かたちです。オナシというこの龍は味噌だれ中学の送迎係で、天竺まで続くほど長い体に生徒たちを乗せて八十地蔵の空を家から家へ往来しています。オナシとは先刻のとある学生が言った “オナイ”という尾が見えないほどの長さを表現する折に用いる単語が、あだ名文化圏の人間の耳に入ったことがきっかけで生まれた名前です。あまりに長いので、誰もその尾を見たことがないのです。謎に包まれた尾の仔細は都市伝説の領域を容易く超えて、ファラオの謎に迫るほどの考古学的価値を見出しています。とある界隈では、尾の情報が闇市的に取引されているという話も聞きます。
しかし私にとってはただの優しい送迎のおじさんです。
「歩きたい気分なので遠慮します。」
「ソウカァー、ダッタラ交通安全ニハ気ヲツケロヨー」
「すいませーん、やっぱ鬼子おります」オナシさんが空へ流れ出そうとすると、背中に座っていた一人の女の子がいそいそと立ち上がりました。私には鬼子と名乗るその女の子に見覚えがあるのです。
「ナァンダ、オリルノカ。オマエモ交通安全ニハ気ヲツケロヨー」
「はーいはい、オナシさんも空のクジラと事故らないようにねー」
オナシさんは八十地蔵の空へと流れてゆきます。それにしても、あの体はどういう化学的根拠に甘んじて浮いているのでしょうか。
「考えるだけ無駄、ここは世の摂理に見限られた辺境の地なのだよ」
鬼子さんが私の傍らで顔を覗いて言いました。まるで私の心を完全に見抜いたような物言いでしたから、私は驚きました。
「聞こえましたか」
「聞こえなくても、あなたのような腑抜けた方が考えることなんぞ鬼子にはすぐに分かる」
どうやら鬼子さんは私の心を読み取る才能に恵まれているようでした。
私と同じ学年の方なのですが、今まで関わりになったことはありませんでした。その名に恥じない鬼瓦のような顔をした、というよりも首から上は鬼瓦そのものなのです。まるで女子中学生の製造工場で頭の部品だけ間違えて取り付けられたような風貌ですが、恬然としている彼女の佇まいには感服するものがありました。たいへん優しい声の方なのですが、鬼瓦には義憤に駆られた表情が常に浮かんでいるものですから、面と向かうと私は怒られているような心持になるのです。
「あなたは御手洗君子さんでしょ」
「はい、そうです」
彼女がどういう原理で声を発するのか興味津々たる心持でしたが、万が一粗相なことを言ってはお詫びのしようもないので、私は何も考えないことにしました。
「あなた脚本書いてるでしょ。どうです、鬼子の下僕になって一緒に映画を作らない?」
彼女が迫ってくるように提案をするものですから、私はその気迫に負けて仰け反りそうになりました。たしかに脚本の執筆は趣味ですが、知識が深いというわけではありません。提案に答えるのもやぶさかではないのですが、彼女が私を選んだ理由がどうしても気になりました。
「なぜかって、あなたがどうしようもなく平凡だからだよ」
「初めて話すのに言葉が少しキツイように思えるのですが」
「そう?鬼子はいつもこうだよ」
「いつもそのような物言いでは友達百人できませんよ?」
「万人はいるのでご心配なく」鬼子さんは気味の悪い笑顔を浮かべました、いえ表情の変化はないので私がそのように勝手に感じただけでした。
「ますます分かりません、なぜ平凡な私が必要なのですか?」
「なぜもマハゼもない、あなたが欲しいことに理由なんぞいらんのだよ」
「理解をしかねます」
「しかねておれ、しかねておれ、どうせ鬼子と共にある運命なのだから」
そうして私は鬼子さんと会話のキャッチボールとは名ばかりの単語の叩き合いを繰り広げて歩いた末、結局それらしい応えを聞き出せぬまま八十地蔵の大横断を果たしてしまいました。
「あや?いつの間にか夜になっとるね。鬼子は門限があるので失礼」。鬼子さんは私の呼び止めも虚しく、並外れた俊足で夜闇へと消えてゆきました。
すでに八十地蔵の空は夜に更けて、無数のホタルイカが空の果てまでゆったりと浮かんでいました。ホタルイカの小さな瞬きで彩られた八十地蔵の空はとても煌びやかです。私はその景色を頬杖でもつきながら眺めたい心持でしたが、心身ともに疲れ切ってしまったので、家へ帰ることにいたしました。
疲労のせいで千里の道のように思えた帰路をようやく歩き終えて、家の敷地を跨ぐことができました。
私の家は八十地蔵西側の住宅街に埋もれている木造二階建ての古ぼけた民家です。面白いものたちが行き交う八十地蔵の地で、私の家ほど面白みの欠片もないものはきっとありません。上品な白みが溢れる軒並みに一件だけ古風に佇む私の家は、まるで周りの家々に省かれているような寂しさを漂わせています。
私は二階の自室に籠るべく玄関の扉を開けるなりすぐさま階段を昇ると、部屋に入って「はぁ」とため息を吐きました。鬼子さんの豪傑ぶりに引っ掻き回された私はそれなりに疲れていたようで、机へ向かう足取りがいつもより重いように思われました。机の上には粗末な文章が書かれた印刷用紙が堆く積まれています。何を隠そうこの紙屑の束こそが私の執筆した脚本です。小学生の折にて書き進めた長編なのですが、私が肝心の結末を思いつくことができないので、そのまま二年間机の上を占拠しています。紙束の適当な一枚を引っ張って読み進めると、その傲慢極まる文章に私は赤面しました。
「あー、恥ずかし、頼むからそれ以上聞かせないでくれ」
宙を浮く蝦蛄が私に語りかけてきました。彼は私の頭の中に住み着いている紋花蝦蛄という種類の蝦蛄で す。緑色の殻と赤い足がたいへん目立ちますが、奇抜な容姿と裏腹に巣穴の中に籠って生活する習性に甘んじて、たいてい私の頭の中に隠れて暮らしています。彼曰く私の頭はあまりに空っぽだからとても住みやすいのだそうです。
「聞こえましたか?」
「お前の心の声は大きすぎんの、こっちからしてみれば騒音だよ。訴えたいくらいだ」
「人の頭に勝手に住み着いておいて、騒音とは聞き捨てなりません。私の頭なのですから私が何を考えるかはあなたに関係ありません」蝦蛄は私の頭の周りを回遊するばかりで、私の小言なんぞてんで気にしていないようでした。
「くだらないことに労力を注いで何が楽しいのか、俺には分からんね」
蝦蛄は天災が訪れようと惰眠に甘んじるような方ですから、私が小説を書くことに彼が嫌悪感を抱くのも当然です。蝦蛄とは小学生からの腐れ縁ですが、私が歳を重ねるのと相生するように蝦蛄のぼやきも大きく響きます。大きくなるあまり彼の人格に飲み込まれて、彼のぼやきが正しいと思うこともしばしばあります。しかし彼の言う通りに生きてはきっと世を渡ってゆけぬ腑抜けになってしまいますから、自我という壁で彼の意志を堰き止めているのです。
「まあ良い、俺はもうそろそろ寝るからな」
そう言い投げて蝦蛄さんは私の頭の中へと引っ込みました。私も彼と同様に早々に床に就いて、八十地蔵横断分の疲労を霧消させたいと考えていました。しかしながら私は自身の小説を何と無しに読み進めることにいたしました。パラパラと用紙を捲っていると一枚だけ新しい紙がございました。筆で文字が書かれたその紙には私宛の伝言がありました。
「君子さん、久闊を叙する。脚本拝読させていただきました。なかなかに面白かったですので、我ら映画妄信会への入会を許可いたします。つきましては、明日の八時に八十地蔵の世紀末商店街にて入会の儀式がございますので、ご足労願います。映画妄信会会長鬼子様より」
私はその場でそれはそれは深いため息を吐きました。