第9話 PTSD
夢魔よ! 夢魔よ! 夢魔よ!
魂なら今すぐやろう。だから
快楽の夢を見せてくれ
安寧の夢を見せてくれ
陰キャ童貞 新章 「チートというには奇妙で地味で」
第9話「PTSD] 開始
僕の心が壊れぬうちに。
あの女が笑っていた。
ざくりとナイフを沢渡に突き立てる。顔に胸に腹に。
キリクは隣で血に塗れて倒れ伏し、全く動かない。
月が赤い。血のように赤い。
悲鳴すら出ない。ただ灼熱の痛みが全身にあった。
左手の銃を彼女に向ける。
途端に彼女が笑いを止めてじっと沢渡を見つめた。
引き金が引けなくなる。
「おまえはVRMMOに逃げてるだけ。なぜ現実に戻らない?」
(おまえが僕の現実のなにを知っているというんだ!)
叫びは声にならず、代わりに銃が火を噴き、彼女は血に塗れて倒れていく。
「殺した」
途端に周囲に人々が現れる。
それは「姫」の取り巻きだったり教師だったり、クラスの男だったりだ。
そして倒れた黒髪の女が、いつのまにか「姫」に変わっていた。
「おまえがやった! やったのを認めろ」
「違う! 僕がやったのは、別の女で!」
「言い訳をするなっ! おまえがやったという証言もあるんだっ!」
沢渡は混乱する。あの黒髪のいかれた女を殺してはいけなかったのか?
女になにをされても耐えなければいけないのか?
周囲の怒号に耐えかねてふらふらと「姫」の死体にあゆみよる。
その死体の目が開き、沢渡を見るとほくそ笑んで笑った。
流れ出た血から、血まみれの腕が、黒髪の女の顔が浮かび上がり、沢渡の腕をつかむ。
抵抗もできずに血だまりの中に引き込まれ、赤い血の海をどこまでも沢渡は沈んでいった。
「!」
そこで沢渡は目覚めた。椅子に座りながら、意識を落としていたのだ。沢渡は意識が断続的に途切れているのを自覚する。
もう二日、なんども眠りに引き込まれてはこんな夢を見て、途中覚醒を繰り返しでいた。
今ではすっかり眠るのが恐ろしい。ましてやGPFに入る気など起きようもない。
沢渡は部屋を出て、階下の脱衣所にある洗面台に向かった。
顔を冷水で洗う。鏡の中の顔は病んでいて、目は逝っていた。
眠れず、食べられず、ただこの二日、水分だけで済ませていた結果でもある。
沢渡は手を洗う。血など付いていないけど洗う。
洗いながら情けなさを自嘲する。
あの警告を読んだではないか。
フルダイブVRMMOまで死なないと先送りしたじゃないか。そう沢渡は心の中で自らを嗤った。
「僕は、つくづく弱い」
そして口に出して嗤った。鏡に情けなさそうな笑いを浮かべるチビの姿があった。
「死にたいと思ってたくせに。なんだよ、僕は」
願ってたくせに、VRで偽物の死になでられたくらいで、こんな有様だ。
目から熱いしずくがしたたり落ちる。
「死ねばいいじゃないか。クソゲーだから死ぬのと変なVRMMMOでショック死するのとどう違うのさ」
そう、死ねばいい。
思い定めた沢渡は、階段を駆け上がると恐怖にすくみながらダイブギアを装着し、GPFを起動した。
そして、沢渡はログインして一分で確保された。
ログインした時、視界が赤く明滅した。
おびえすくむ足に力を入れて自室を出て、
そして沢渡は連行されたのだった。
連行しているのは看護師で、アンティークな白のロングスカートと袖が膨れた上衣、近年ではまず見ないナースキャップもしている。それが両脇に二人。
茶色と赤毛の、いずれも20代後半っぽいベテランの女性だった。
タクシーに引きずり込まれ、診療所に向かって連行されている。
タクシーが二階建ての茶色い壁の建物の前に止まった。
引きずられて建物内に入り、手をかざして受け付けをさせられる。
そして6人も入るといっぱいになる小さな待合室の椅子には
「よう、二日ぶり」
「キリク!」
小太りでつぶらな瞳の、けれどもひどく憔悴しきった男の姿があった。
「PTSD?」
「ステータスで状態確認してみろよ」
沢渡のステータスウインドゥが待合室の虚空に広がる。厳密にはアバターのというべきか。
赤文字でPTSDの文字が明滅し、診療所受診を推奨となっていた。
「ログインした時、やけに赤フラッシュが明滅するなと思ったら……」
「ログイン時に、視界でフラッシュ明滅したら、ステータスウィンド確認しとけ」
「うん」
と会話していると、わずか二人だけの診察待ちのため、キリクが呼ばれた。
「お先」
とだけ残してキリクがつらそうに立ち上がり、診察室へ消えた。
そして
「おっふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
しばらくして、キリクの興奮した声が待合室に響いた。
少し時間がたって名前が呼ばれ、診察室に入ると、落ち着いた雰囲気がある赤毛の女医がいた。30才後半ぐらいだろうか? 親しみやすい笑顔を浮かべている。
「さて、ではみますね」
そういうと、女医は立ち上がって、沢渡の頭に手を置いた。
診察机に置かれたモニターから、あの戦いの映像が出てくる。それも沢渡の視点でだ。
戦いが終わると、モニターが消え、女医の手も離れた。
「ひどいですね。かなり重度のPTSDです。夜、夢でみて、眠れなかったんじゃないですか? ここにダイブインするだけでも抵抗があったでしょう?」
沢渡はどきりとした。女医の言葉が正しかったからだ。
ログアウトして眠り、すぐ悪夢にたたき起こされた。もう一度眠りまた悪夢で起きる。
そんな状態で食欲があろうはずもない。
消耗して眠り込み悪夢で起きて、いつのまにか意識を失い悪夢を見る。
ダイブインできたのは、自殺よりも簡単で痛みはないだろうからに過ぎなかった。
「ここでは全部治すのは無理ですね。とりあえず初療だけはしておきましょう」
そういうと沢渡の額に手が置かれた。
なんの合図もなく視界がゆがみ始める。
耳に聞いたことのないような曲が、いや音の連なりが流れ始める。
世界が光に包まれ、色が異様に鮮やかに見え始め、赤い色が赤い赤とピンクの赤に別れ、女医の目が黒く優しく沢渡を覆い、あてられた手の柔らかさから、優しい熱が体中にまわり始めた。
自分が拡大していき、全人類が愛おしくなり、頭の中に喜びが満ちて、あの妹ですら愛していると思った。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
たまらず喜びの声があふれ、頭の奥でなにかが続けざまにはじけ、嫌な気分がはるか下に塊となって落ちていく。
次回予告
浄河いいとこ一度はおいで。
傷も疲れも湯が洗う
ここは湯の街、癒やしの地
温泉好きなら言葉は要らぬ
俗世の垢も湯に流せ
次回「バーチャルリアリティ湯治」
傷ついたからこそできる絆もある。