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三章


 六月も中旬になった。

 六月の中頃といえば、秋風学園では、春季生徒総会があるらしい。

 ぶっちゃけ、どうでもいい話です。

 そして、六月に入ってしばらくすると、木霊先輩はいつものこととしても、井塚先輩と楓先輩も余り来なくなった。

 毎日、来ているのは木霊先輩狙いの俺と、一体何がしたいのか、いまだによくわからない、又野さんだけだ。

 木霊先輩が来ない理由は、ようとして知れない。

 楓先輩も同じ。

 井塚先輩だけは訳がきちんと判明している。

 理由――ポアされたから。

 ポアとはどうやら、アポのことらしい、逆さ読みだ。

 そして、アポとは何かといえば、アホのこと。

 どういうことか、といえば、脳味噌をすかっらかんにしてしまう恐怖の施術、チングレクトミーもロボトミーも裸足で逃げ出すくらいだ。

 アイスピックを鼻から突っ込んで脳味噌ぐりんぐりんするロボトミーのようなことをする必要もないらしいのだが、又野さんのした「準備」が何だったのか、まだ、よく分からない。

 そもそも、楓先輩もポアについて教えてくれても、ポアの実践は黙秘するし、又野さんにはいまだに慣れないというか――。

 ただひとつ分かること、それは井塚先輩が、全治二週間の痴呆になったことだ。

 ああ、恐ろしい。

 でも、診療したのはヤブなんではないだろうか。

 痴呆は脳の萎縮で起こるはずで、全治二週間とかありえるのか。

 医者じゃないから、詳しいことは不明。

 ふぅ、又野さんと喋るきっかけがないせいで、ひとり脳内アルバムを開いて楽しむしかない――。

 悲しいなぁ。

 読書に耽る又野さんはそれなりに絵になるんだけどなぁ。

 美術部員だったら、スケッチしたいかもしれない。

「あの、又野さん」

 さすがに入部して三週間。このままではまずい。

 意を決する。

「何?」

 又野さんは振り向かない。全然、こっちなんて見ない。でも、無視とかシカトをするわけじゃないし、いい子だってことは分かってます。

 俺が一方的に苦手なだけです。楓先輩とはきちんと会話もしてるし、ネクラってわけでもないし、引っ込み思案なんてものはありえない。なんだろう、端的にいえば、余り話すのを好まない人種ってとこ。

「今日、何読んでるの?」

「戦争論」

 また、変なものを……クラウゼヴィッツだったかな、と思いつつもミジンコの汗ほども気取られぬように意識の底に、その思いを沈める。

「おもしろい?」

「古い」

 短い回答。

「古い?」

「十九世紀の本だから」

 チョイフルって感じじゃないかなぁ。けれど、近代戦に絞ると十九世紀で十分古典だといえなくもないなぁと思い、

「情報とか解釈が古いの?」

「そんなことはない」

 僅かに首を左右に振る。

 お、やっと本を見ないでくれるかな。と考えて、慣れない相手との会話は基本的に質疑応答がよいとの基本に沿い、更に質問。

「じゃあ、なんで?」

 又野さんが俺の方に(おもて)を向けて来た。

 そして、本を長机に置く。

 本格的会話のキャッチボールですよ。プレイボール。と思ったのもつかの間のことで、又野さんは俺を睨んだ。で、いう。

「うざい」

 又野さんはパイプ椅子からピンと背筋を伸ばしたまま、立ちあがり、つかつか歩み寄って来て、横から俺の頚動脈に一撃。

 しかし、しかしである。はっきりいってチョップなんて利かないし、少女の細腕にやられるほど安くできてはいない。

 俺は不敵な笑みを又野さんに見せつける。

「う……」

 俺のあまりの不敵っぷりに、怯みつつも、又野さんは俺の後ろに回る。

 今度は何かな?

 又野さんは背が低い。だけど、今、俺は椅子に座っている。

 このとき、このことに早く気付けばよかった。立っていれば、食らわなかったのに――。

 ――クキョ。

 あれ、これってこの前、楓先輩がやってた落とし方――。

 瞬時に、意識が遠のく……。白い(もや)が視界に入り、脳味噌と視神経が実際繋がっているんだなぁと本能的に分かってしまう感覚。

 ああ、ママン。窓から見える春の夕日が眩しいです。

 落とされていく俺。

 調教してやがったな、レイケン部の総統閣下め……いや、教祖さまか……。楓先輩を腐す。意味はないけど、心の中でくらい、腐してもいいじゃまいか。

「勝利」

 又野さんは耳元で呟く。耳朶(みみたぶ)を息がほんのりと掠める。

 さらに、続けていう。

「負け犬は死ね」

 毒。デッドリーなボディに、マインド的にもデッドリーなことをいうなんて、ああ、なんて酷い仕打ちだろう。

 そして、俺の最期、その(まなこ)に映ったのは戦争論の一ページ。

 ――血を(いと)うものはそれを厭わぬものに制せらる――



 ――


「ああ、疲れた」

 井塚先輩は部室に姿を見せるなり、ぼやいた。

 見れば、カッターシャツの襟はヨレヨレで、髪の毛はボッサボサ、口からは高橋名人もびっくりな連射溜息。いや、まあ、これはこれで余計に疲れそうな嘆息だなぁと思いつつ、非常にかまって欲しそうなので、「何があったんです?」と問う。

 又野さんは相も変わらず本以外眼中にないので、「待ってました」とばかりに、俺の言葉に食らいつくダボハゼ気味の井塚先輩。

 それにしても、ここ最近の又野さんとの時間はきつかったなぁ。井塚先輩は一応、出来損ないのイケメンだけあって、気さくなのである意味、このどんより空気(又野さんのせいです)をブロークンしてくれるメシア、淀みきった雰囲気を一手に背負い、ゴルゴダの丘を登るクライスト、イエズス。ああ、何か後光が見えるよ。仏陀みたい。

「それがよぉ、生徒総会あるだろう」

 畳まれたパイプ椅子を広げながら、井塚先輩はいった。

「生徒会のメンツなんですか」

 メンツとかいってしまう、麻雀の毒に犯されきった俺に少し、嫌悪感。

「いやぁ。俺じゃないよ、手伝いなんだ」

 適当が売りのような性格(ESPに関することは熱心)なのに殊勝なところもあるんだな、と見直す。

「退院したてなのに大変ですね」

「ホントだよ、楓のヤロー」

 部室の天井を見ながら、チートしたことがバレた高橋名人のような表情を浮かべる。

「お疲れ様です」

 いまさらながらに、ねぎらう。

「それでさ、息抜きしようと思うんだよ」

「息抜きですか?」

「うん。そういえば、優は結構才能あったしなぁ」

 才能? 何のことだろう。身の覚えがないなぁ。

 というか、レイケンは人を褒めるのが趣味の人が多いのだろうか。

 楓先輩のイケメン発言といい。ほだす気なのか、純粋にいってるのか――。

「才能、ですか?」

「この前、ESPカードやっただろう」

 ESP実験と称され、部活に入ってすぐの頃、やらされたヤツだ。

 色々な絵柄のカードを当てるという、ゲームみたいな実験。

「お前にも透視能力があると思うんだ」

「えっと……」

 言葉に詰まらざるを得ない。

 あんなんで、エスパーが分かるのだろうか……。エル・○サド通信でもやってたなぁとふと思い返す。

 しかし、あれは中々苦痛だった。

 実験がきちんと成立するためには、百回は試行しないといけないとかナントカで、ひたすら、やらされたし。

 それに、あれは――。

「お前にはサイキック・シャッフルの才能もありそうだしなぁ」

 そうです。そこ。

 実はあのときの実験、カードをシャッフルしたのは楓先輩だったんである。

 マジックでは、フォールス・シャッフルというテクニックがあって、手札を切ったように見せかけ、その実、切っていないというものがある。

 井塚先輩は、第三者であるからいいとかなんとかいっていたのだけれど……。

 それで、どうして、フォールス・シャッフルを楓先輩がしたのかというと、俺に渡された紙にはあらかじめ、答えが書いてあった。誰が書いたのか。楓先輩以外、誰がいるというのか。

 ペンタゴンやヘキサゴンはいいとして、七十芒星は分からないって、普通。だからこそ、井塚先輩オリジナルのESPカードは実利と実用があるというのが、本人の言なのだが。

 だから、つまり、俺は全く何もしていないわけで、だから、百回の試行が激しい苦難だった訳で――。

「PSIだよ、PSI。うん」

 俺は何も答えず、考えにふけっているというのに、ひとりで納得しても困る。

 それと、PSIって、インコ真理教のパーフェクト・サーバイション・イニシエーションのことかな、まさかね、まさかね、そんなことないよね?

「だから、女子更衣室へいかないか?」

「はい?」

 どういう脳内プロセスを経ての出力ですか、それは。

 息抜き……ですか。

 ダメです、ダメダメ。俺には木霊先輩とヤるまで、綺麗なままいるんですから。

 といおうとして、

「まあ、でも今は運動部も着替え終わってるしなぁ、明日にしよう」

 残念そうにいう。

 よかった。助かった。

 とりあえず、心の純潔が穢れる瞬間は先に延ばされた。

「はぁ……」

「でだ、今日は確認しておこうか、戦線を共にする戦士がまさか、実はノーマルであれは偶然だったでは、困る」

 困るのは俺です。

 この前のは偶然ですからなく、楓先輩の陰謀です。

 井塚先輩は自分の学生鞄――いつも入れてるらしい――からESPカードを取り出す。

「新作なんだぜ」

 自慢げに笑う。

「そうですか」

「唯、シャッフルして」

「いや」

 いいよ。又野さん、そのまま拒否って。

「唯、ムー貸さないぞ」

 又野さんの背筋がピキっと震えた。

 ムーは井塚先輩の所有物だったらしい。

「困ります」

 又野さんは井塚先輩の方を向く。

 やばいぞ、やばい。懐柔される!

「アズも今度貸すからさ」

 アズって何だ。アズって!

 又野さんが悩ましい顔をしている。普段、あまり起伏のない顔色が明らかに逡巡している。

 アズが何か分からないけれど、間違いなく、『本』の類に違いない。

「アズ……」

 又野さん、悩む。悩む、悩む。眉毛がヒクヒクして、口元はモゴモゴ。ちょっと、可愛いかもしれない――。いや、そんなことはないぞ、断じて。

 レイケンが美少女の巣窟だとか、そういう話になってしまうじゃないか。男子部員もイケメンの俺に準イケメンの井塚先輩、腐女子も大喜び――ってもっとダメじゃんか。

 しかし、こう考えると、このレイケンの設定、どこかで見たことある気がする。

 エスパー、神(嘘らしいけど)、本好き無表情(無口じゃないけど)。SFじゃないから、未来人とか異世界人はないけどね!

「そう、アズだよぉ」

 猫なで声にシフトする井塚先輩。

 モゴモゴの又野さん。

 睨み合い、勝ったのは井塚先輩だった。

 ああ、又野さんのバカぁ。

 又野さんは新作らしいESPカードをシャフルする。紙代をケチったのか、薄い紙で、切り難いのか又野さんは何回か詰まりながら、カードの束を切った。

 その手付きを心配そうに井塚先輩は見つめながら、「折らないでくれよ」と注意する。

 そして、シャッフル終了したカード束が井塚先輩の手元に戻り、本日のESP実験は始まった。

 が、これはESP実験ではなかった。

 カード当てゲームですらなかった。

 三歳児でも、そこに描かれた図柄の名前を言葉に出せなくても、そこに何が描いてあるか分かっただろう。

 だって、透けて見えるのだから。

 市販の物と違って、裏に透けるのを防止するための印刷が施してあるわけでもない。それに加えて、紙がチャチなんだから、この結果は想像できそうなものなのに、井塚先輩はとんと気付く気配などない。

 鼻歌を歌いながら、俺に紙を渡す。

「絵柄の名前が分からないときは、描いてね」

 ウインク。ちょっと、キモイ。いや、果てしなくキモかった。

 そして、勿論、俺は全ての絵柄を当ててしまった。

 終了後、思い返すと、わざと外すという高等なテクニックを労せばよかったのにと後の祭りシンキング。

 全てをいい当てた俺に天真爛漫な笑みを湛えて、井塚先輩はいった。

「すんばらしい」

 と。



 ――


 俺は人生で初めて犯罪に手を染めんとしていた。

 実行犯は二名なのだが、そのうち、ひとりは常習犯でいまさらといった感じだから、初犯は俺のみ。

「運がよかったな」

 井塚先輩はホクホク顔でいう。

 一方、俺の心はどんより曇っていた。

「はは、初めてはそんなものだ」

 嬉しそうに俺の背中を叩く。

 俺の心のうちをこの人はしらない。

 初めてことに臨む未通女のようなこの心境を。

 俺たちはまさに、このとき、覗きをしようとしていた。

 断ってもよかった。

 しかし、しかしである。入部数ヶ月で楓先輩のクキョと首の間接と血流をとめる秘儀を体得している又野さんを見ると、井塚先輩もクキョを使えるのではないか、と思えてくる。だから、逆らわないのだ。

 どうして、楓先輩が俺に伝授してくれないのかは深い謎なのだけれど。

「運がよかった」

 運――。

 さっきから、何度も「運が運が」と井塚先輩はいっているが、はたして何が運がいいのか。こっちは、授業をサボらされたんだぞ。運なんか、これっぽちもついてない。我が家はウォッシュレットだから、おシリもキレイ。

 私は足を洗った、君もこれでケツを洗おうというレベルで、キレイだ。

 だから、犯罪に手が染まる前に足――じゃなくて、手を洗――でもなくて、俺の純潔を汚さないでください。マジで。

 人生初めての授業エスケープ。

 満面の笑顔でアシストまでしてくれた葉桜も葉桜だ。どうして、止めない。

「もう、そんな関係になったか」

 とか、親が子の成長を喜ぶ顔をするなといってやりたい。

 が、今はそれどころではないのだ。

 これから、始まるのはNOZ★OKI。

 猛りきって限界質量に達した、青春の魂が臨界して発症する、BYO★UKI。

 先輩、あなたは病気です、それはもう、定説です。

 セオリーです、万物理論って名づけます。グレッグ・イーガンもびっくりこいて、ぎっくり腰確定だぜ。

 四つの力が、大統合理論や超ひも理論でひとつの真理に向うくらいの絶対的、宇宙レベルの、つまり、ギャラクティカな真実です。譲りません。 

 だから、手を引っ張らないで。

 そして、女子更衣室の前。

 黄色い声がドア越しとドアの隙間をぬって耳に届く。

「おおう、大きくなったねぇ」

「きついんだぁ」

「うわ、ぼっさぼさ。手入れしてるの?」

 とかいう声がする。

 ああ、鼻血でそう。ブサイク同士の会話かもだけど。

 さっそく、作業に取り掛かる井塚先輩。

 ドアに耳を押し当てようと、ドアに接近する。

 時間を稼がなくては。

「運がよかたって、何がですか?」

「合同体育なんだよ」

「え?」

 秋風学園は各学年、学級数は六つで、二クラスづつ体育の授業がある。合同なのは普通だ。

「ああ、一年だから知らないか」

「はい」

「二年と三年が合同でやるんだ」

 耳を離して俺にいう。時間は稼げそうだ。授業時間五十分は無理でも……。

「メリットは何ですか?」

「知らん。校長が熱血体育教師だったらしくてなぁ」

 しっかし、先輩、声がでかい。

 バレますって! 授業中だから、廊下に生徒はいないし、先生も授業に出かけてるからそのあたりは安心だけどね。でも、ドア一枚隔てたそこは、肌色のパラダイスなんですよ?

 人差し指で、広く人口に膾炙したジェスチャー。

 これなら、アホでも分かるし。って、入部の日みたいに、心を読んでください! 読心術!

 俺の心の声を聞いて、一段声量を抑え、先輩は続きを話す。

「先輩が後輩を指導する、だったかなぁ。全く、それって、生徒指導以外にちっとも役目もなく数ばっか、クソ多い体育教師からさらに仕事奪ってる気がするんだけどな。怠惰だよ、ほんと」

 授業サボって覗きに来てる人の言葉じゃない。

「でも、それがどうして運がいいことに?」

「サボってもバレないってこと。数多いし、教師やる気ないし」

 そういうことか。

 つまり、先輩も体育だったんですね……。

「お前、霧島永世って知ってるか?」

「知りません」

「新入生は知らんか」

「はい」

「こいつが、トンデモな三年生でねぇ。下級生を合同体育でしごくんだよ。俺もしごかれてさ、マジ、しごきってかイジメ? マジやってられん」

 はぁとややテンションがさがったように溜息をつく。

 サボった理由はそれか……。

 確かに、イジメなら同意せざるを得ません。はい。定説です。

「それじゃ、覗くか」

 先輩は今度は目をドアに押し当てた。

「おおおおお」

 何やら興奮しているご様子。絶対、見えてないのに。見ているのは、夢か幻か、脳内妄想で視神経を経由していない情報化と存じ上げます、先輩。

 そして、一向に動かない俺に業を煮やしたのか、

「早く来い」

 しかたないので、耳だけつける。

 和む。あれ――なんで和むのだろう。

 女生徒の嬌声なんか聞いてもつまらないはず、いくら、思春期といっても好みの女以外そうそう興奮できないはず。隣の先輩みたく、なんでもござれのウェルカムの方が思春期らしいのだろうか?

 そう、思ったとき、和んでいた理由が分かった。

 更衣室の中には木霊先輩がいたのだ。

 何も透視で見えたわけじゃない。

 木霊先輩の声を聞いたからだ。

 それも他の声に混じっているような感じではなく、一際大きな声――叫びだったからだ。悲鳴といってもいいかもしれない。

「きゃああ」と乙女らしい純な声を俺の鼓膜は聞いた。

 そして、それが悲鳴なんだと分かった瞬間、体が動いた。

 俺は意識が気付いたときには、女子更衣室に侵入してしまっていた。


 視線が針か錐になって、俺を攻め立てた。針のムシロとはこのことだ。

 加えて、口から口角泡を飛ばし、罵詈雑言が飛び出している。「変態」だとか、なんだとか。

 でも、今、そういうことはどうでもいいことで、耳に聞えていいても目に映っていても、無音と一緒、いないのと一緒。俺は木霊先輩の袂へ向った。

 ひとりの女生徒が蹲る木霊先輩に付き添うように背中を押さえている。

 木霊先輩は今にも嘔吐しそうな面持ちで床を眺めている。

「出た……」

 そう、彼女はいった。

 訝るように介助している女子も木霊先輩を覗き込んだ。

 誰かが、「またかよ」という。

 つられるように、「キモ」と誰かがいった。

 闖入者は俺であり、この場合、俺が糾弾されてしかるべきなのに、「出た……」というたったひとつの呟きが、俺への非難の矛先を、木霊先輩への侮蔑へとシフトしてしまった。

 口々に皆がいう。

 名も知らぬ、女生徒たちがいう。

 なんで、そんなことをいう?

 あのときみたいだ。平気な顔して、そういうことをいうんだ。

 いいじゃないか、何を見たって。

「いいだろう!」

 俺は咆哮した。

 せずにはいれなかった。

 いたたまれないこの腐りきった更衣室の空気を一掃してしまいたかった。

 けれど、俺の声がいくら室内にエコーを刻んでも、隣の女生徒にうるさいという顔をさせても、彼女たちの嘲笑の波を押し戻すことはかなわなかった。

 俺と木霊先輩が十把ひとからげにされただけ。

「キモ」

 また、誰かがいう。

 決して、バレぬように、仲間にはばれてもいいが、あざわらう相手にはバレないように、不特定多数にまみれて、身を隠す卑怯者たち。

「お友達ですか?」

 介助している女子がいう。

 頷く。

 彼女もいまこの室内の空気がイヤらしく、はやく俺に出て行って欲しそうだ。

「また、見たらしいです」

 おかしい。幽霊を見たのか。

 木霊先輩は『和む』といってなかっただろうか?

「私が保健室につれていきますから、木霊さんが心配だったのでしょう?」

 よくわかっている人だった。

 やや、怒気がクールダウンしていく。

 木霊先輩はふるふる震えている。

 かわいそうよりも、いいしれぬ不安が鎌首をもたげる。

「はやく、出てけよ、木霊もお前も」

 リーダー格らしい女がいう。

「ああ、出てくよ」

 介助の女子にまかせることにした。

 俺は吐き捨てるように、リーダー格にいった。

「幽霊女と末永くな!」

 俺の背にいう。あざけりと、シニカルさ満点の言葉だ。無性にハラが立つ。

 けれども、俺はこういってやった。

「勿論だ」

 そして、更衣室を出たところで俺は羽交い絞めにされた。

 井塚先輩が俺の手足を固定している。

 あれ、なんで?

「おい、何があった!」

 誰か知らないが、先生の声。騒ぎを通報した誰かがいる。

 全員が俺と木霊先輩を笑っていたわけじゃないということ、当たり前だが。

「覗きです!」

 女生徒のひとりがいう。

 相も変わらず俺を空中で固定している井塚先輩に囁く。

「裏切りですか?」

「すまんな、さすがにここまで大胆不敵とは思わなかった」

 確かに、普通思わない。

 井塚先輩が裏切ったのではなく、この場合、裏切ったのは俺だ。そもそも、透視で覗きする予定だったはずなのだし。

「全く、どこのどいつだ? ん、珠美じゃないか」

 この声は、長谷川先生じゃないか……。

 何かと会う機会が多い担任に捕縛されるのは、運がいいのか、悪いのか。

 俺の好感度はゼロになりそうな気配だった。

 SAN値もゼロになりませんように――。



 ――


「やってくれたね」

 珍しく、というよりは、初めて見た。ホンキでキレている楓先輩を。

 普段の怒っている動作は演技だったのかな、と思える。なので、謝る。それに、この場合、非は俺にしかないのだし、レイケン部長だから連帯責任とか食らうかもしれないし。

「すいません」

「謝るなら、木霊のクラスの女子にね」

 全くその通りです。つい、出すぎました。本当に。

「全くね、私、忙しいんだよ? これ以上、レイケンの名前おとさないで」

 あれ? それって、おかしくない? と疑問。

 だって、長谷川もいってたし、既にレイケンは問題な部活。それに、毎回、覗きに行ってる井塚先輩は? 今回は確かに、俺を制止しようとしたんだって嘘ついていい逃れていたけど。

 怒りが沸く。なんか、理不尽。俺は木霊さんを思って思考する前に体が動いただけなのに。したことは悪いけど、そんなに怒られるいわれがあるのだろうか? 少し、考えだけで、それは怒りへのカンフル剤となる。

「おかしくないですか?」

「どうして?」

 目尻をあげて楓先輩。

「井塚先輩はどうなんですか?」

「明史ぃ? あいつは、どうせ、目をドアか壁に押し当ててるだけ、優くんはどうだったわけ?」

 その通り、俺は確かに突撃した。でも、でも――。

 正論だけど!

 正論だけど、それが正しいと(うべな)えない自分の心。

「でも!」

 大きな声が自分でもびっくりするくらい、出てしまった。

 楓先輩は、怒りの表情を崩さないまま、掌をかざして、俺をなだめる。

「やったものは、やったんだし。なんで、そんなことしたの? 木霊の下着でも見たかった?」

 違う。そんな不純じゃない。不純かもだけど、不純じゃない。

 いつもはエロいこと考えているけど、好きな人の悲鳴を聞いたらどうするのかって、それは簡単な答えしかない。

「違う! 俺は木霊先輩が心配だったんです!」

 一瞬にして、楓先輩の顔から怒りの気が消えて行く。凄まじい速さで怒りはどこかに消えてしまい、その後、楓先輩の顔は沈鬱に歪んだ。何かに気付いたような表情。それとも、いわれたくないことをいわれたことへの言葉のなさを呪う感情の発露。どっちかはわからない。

 けれども、言葉をなくして、俺の言葉に楓先輩は答えなかった。

「ごめんね」

 なぜか、楓先輩は謝った。

「え?」

「ごめん、ホントにごめん。私――」

 しおらしい。怒りの次に見た、先輩の意外な顔。なんでだろう、なんで、そんな表情をするのだろう。なぜ、俺に謝罪するのだろう。

「私からいっておくよ、先生とか――」

「えっと……」

「木霊のクラスにも知り合いいるからさ」

 そして、笑った。けれど、そこには悲哀の感情しか見受けられない。

「なんで、謝るんですか?」

 謝られると、こっちが悪い気がする。

 全面的に俺が悪だけど、今回の場合。でも、覗きの件に加えて、これじゃあ、俺が楓先輩にこんな悲しい表情をさせているみたいで我慢できない。

「それは、おいておこう、ね?」

 いつもの口癖、おいておこうを繰り出す楓先輩。

 でも、俺は問いただす。木霊先輩が関係しているかもしれないと思ったから。

「木霊先輩が何かあるんですか?」

「何もないよ。幽霊見ただけだよ」

 幽霊。本当にあの部室にいたのだろうか。

 見たのは木霊さんだけ。

 昔、幽霊をよく見た俺にも見えなかった。

「幽霊のせいにするんですか?」

「うん。そうしよう、ね?」

 楓先輩らしくない発言。何かひっかかる。

 幽霊なんていない。いや、俺は見たことがあるから、いるのかもしれないけど。

 でも――。

 木霊先輩は幽霊を見たことをクラスメイトにバカにされていたし、幽霊に責任転嫁なんてできない。少なくとも、俺がこの目で確認しないかぎり。

「幽霊なんているんですか?」

「幽霊マニアらしくないセリフだね?」

「見てないものは信じません。見たなら、いまさら、アダムスキー型UFOが飛んでいても、信じます」

「だったら――」

「だったら、何ですか?」

「確認したらいいよ、木霊と」

 それはいい提案だと思う。でも、話を逸らされたとしか思えない。

 確かめてみよう、木霊先輩と。

 だけど、その前に、楓先輩をもっと問い詰めないといけない気がする。

「何で、話を逸らすんですか」

「逸らしてないよ――」

 ポアします、といわれるか、破門をいい渡されるかと一瞬思った。でも、先輩はいわなかった。

「幽霊のことが分かるなら、木霊のこともわかるはずだよ。だからね、今回はこれでお開きにしよう。優くんが停学にならないように、働きかけるから」

 取引のようなものだった。

 俺の停学をどうにかできるのか? それは疑問だったけれど。

「じゃあ、木霊先輩と幽霊探しをします。もし、いなかったら、木霊先輩のことと今回どうして謝ったのか、教えてください」

 きついいい方だったのか、楓先輩は、少し、ビクっと背を揺らした。いい過ぎた気もした。

「うんむ、そうして。いなかったら、教えるから。それと、優くん。私がこんな意味不なこというからって、邪険にしないでね?」

 やっぱり、いい過ぎだったみたいだった。楓先輩は自分が嫌われたと思ったらしい。

 俺は別に楓先輩を嫌ってはない。今回のはぐらかされたような態度が気にいらないだけ。そして、いなかったら、教えると俺にいった。

 だから、取引は完了だ。

 俺に楓先輩を嫌う理由はない。

 それに、楓先輩はムードメーカーだ。失いたくはないし、険悪になりたくない。

 だから、いう。

「嫌いませんよ。意味不なのは、いつもじゃないですか」

 笑う。

 楓先輩は、嫌われていないと分かって、少しだけ嬉しそうに「ありがとう」といった。



 ――


 ケータイが鳴った。

 木霊先輩のだ。

 本当に、よく鳴る。

 部活に来ても途中でいなくなる。この憎々しいコールめ。

「それじゃ、私――」

 いつものことなので、ほとんどスルーになりつつあるのだが、今日はいい忘れたことがあった。

「ちょっとまってください」

「はい?」

「今夜、いいですか?」

「ほへ?」

 意味を取り違えて、頬を桜色からりんご色に変える木霊先輩。違います。そんな、大胆不敵じゃない。

「この前、見たっていったじゃないですか?」

「あ、うん」

 まだ、赤々している。イイネ。

「それで、俺と探しません?」

「愛の行方ですか?」

 ぶっふ。俺は噴出してしまった。なぜ、そう来る?

「それは、ちょっと……」

 うつむく。

 うつむきたいのはこっちです。

「違います。幽霊探しですよ」

「あ、うん、それならいいですよ」

 よし、快諾された。

「いつ、用事終わります?」

「どうかなぁ、ダメだったらメールします」

 そういって、メアドを俺に渡す。

 そういえば、メアド知らなかったんだなぁと今更思う。又野さんのも知らないけどね――。

「じゃ、部室で待ってます」

「門、七時には閉まるよ」

 楓先輩がいう。

「それに、俺の念動実験も六時半で終わるぞ」

 そんなのはどうでもいいです。

 今は四時半じゃないですか。

 放課後になって、まだ半時間ですよ?

 半時間で消えちゃうんですよ? 愛しの――。

 とか考えている間に、木霊先輩は消えた。

 反動で押し戻された引き戸の狭間から乾いた空気が入ってきた。

 なんか、イラつくので、ぴたりと閉め直す。確約はできなかったけど、伝えたわけだし、イラつく理由はないはずなのだけれど。

「フラグ立てた」

 又野さんだった。珍しい。発言するなんて。

「フラグねぇ」

 感慨深そうな楓先輩。

 ちょっと先日のことがあってやや話し辛いのだが、もともとハイテンションな人なので関係はあまりない。

「折らないようにね」

「はい、折りませんよ。勿論じゃないですか」

「フラグにも色々あるから……」

「失恋か? 楓」

 井塚先輩の茶々。

「死ね。明史ぃ、いい加減、破門するぞぉ」

「それだけは――」

 なんで、そんなに破門が怖いのだろう。

 ポアを超えるということは――。予想できない。

「色々あるのさぁ、フラグ」

 ここでいう、フラグはギャルゲーのイベント分岐のポイントとか内部バロメーター、じゃなくてパラメーターのことなんじゃないのかなぁと思いつつ。

「人生のフラグですか?」

「そうそう、人生のフラグ」

「俺が覚醒したのは、そうだな……」

 昔話を話そうとする井塚先輩。全力でシカトする楓先輩。まったく、端から見ると仲の悪そうな二人だといつも思う。

 でも、実際は結構お似合いだと、俺は思う。息が合っていると評すべきか。

 井塚先輩は、エスパーになった契機を語る気だったんだろう。

「――でなぁ――」

 先輩は話し続けている。

 得意げに首を回したり、過度なジェスチャーが入ったり。

 楓先輩は、長机に突っ伏して、ヘニョヘニョになっている。

 又野さんはいつも通り。

 で、念動実験はしないんですか? っていわないほうがいいか。

「そういえば、今日は楓先輩いるんですね」

「ん? 終わったんだよね」

「そうやっと解放された」

 井塚先輩、ちゃんとこっちの話も聞いているんですね。

「でなぁ……」

 話長いなぁ……。

 寝ちゃったよ、楓先輩。なんか、お疲れっぽいし。

 ああ、俺も眠気が――。

 どうせ、七時まで暇だし……寝よう。

 そう思ったら、一瞬で眠れてしまった。



 ――


「珠美くん」

 背中を叩かれた。甘い声がする。天使の甘美な――。

「おはよう……」

 って、あれ。

 すっかり、暗くなっている。井塚先輩も楓先輩も、いない。

「あ、木霊先輩」

「やっと、起きてくれましたね」

 木霊先輩は微笑む。

 でも、ぎこちない。

 そして、俺の目は彼女の頬に釘付けになった。

 (はた)かれたような跡。

 どうしたんだろう?

「あの頬、どうしたんです?」

「あ、これ? こけちゃって……」

「天然ですね」

 だが、それがいい。

「何時ですか?」

「六時四十分。校門閉まるね、もうすぐ」

「はい、でも大丈夫です。さあ、行きましょう」

「本当に、探すの?」

 困惑した顔。

「はい。正体を見てやるんです」

「そう……」

「木霊先輩を怖がらせたんですから」

 これはダンディズムです。定説です。

「でも、あれはね――」

 いいかけて、やめる先輩。

「あれは?」

「いい感じに暗いね」

 話を逸らされた。

「はい。出そうです。更衣室じゃ昼でましたけど」

「でも、校門閉まりますよ?」

「だから、大丈夫です。葉桜に聞きましたから」

「葉桜?」

「えっと、俺のダチです。校門閉まってもだから大丈夫です。警備システムにも引っ掛からずに出れます」

「悪友なんですね」

「そうです」

「いいね」

 暗がりの窓から、校庭を見ながら木霊先輩はいう。

 哀愁が漂っている気がした。

「悪友ですか?」

「そう、いいね」

「楓先輩、十分に悪友じゃないですか」

「そうだね、楓は――」

 何かを思い出すように虚空に目を逸らす。

 楓? いつもは、鬼頭さんって呼んでたような気がする。

「悪友じゃないかなぁ、やっぱり、そう思います」

(へん)(とも)ですか?」

「うぅん。憧れます、そういうの」

 何に憧れているのか、判然としない。

「じゃあ、俺と悪友しましょう」

 って、ダメじゃん。トモじゃダメじゃん。恋人未満の関係だっての!

「珠美くんと?」

「はい、こうして――」

 七時。最後のチャイムが鳴る。

 多分、もう生徒は俺らを除いて帰っているし、先生も宿直以外いないだろう。

「校門の閉まった学校にいるじゃないですか」

 とりあえず、友達から始めるってのも搦め手としていいハズ。

 下級生→部員→友達。クラスチェンジ、クラスアップのハズ。

「そうですね」

 木霊先輩は微笑んだ。

 認められた。OK。今のところ順調。

「じゃあ、トイレ回りましょう」

「うん――」

 秋風高校には、いくつかトイレがある。

 一番出そうなのは、いまだに昭和の臭いを放つ、東校舎のトイレだ。

 ボットン式なのでほとんど誰も使わないだろうと思う。

「臭いですね」

「だね」

 さすが、ボットン伊達ではない。水洗とは違うのだよ、水洗とは! ってことか?

「感じます?」

「んぅん。いないかなぁ」

 ハズレ。今夜、当たる保障もないし。

 って、待てよ。今日、一回も発見できなかったからって、幽霊がいないことの証明にはならない。しまった。悪魔の証明だ。嵌められた。楓先輩に。

 でも、と思い返す。

 これが無意味ってことはない。木霊先輩と友好が深まるはずだし。

「どうしました? 珠美くん」

 ぼうっとしていたのか、声を掛けられた。少し、心配している感じ。幸せです。心配されて。

「あ、大丈夫です」

「次、行こう」

 急かすように、木霊先輩。

 手を握られた。手――。頬に血液が行くのを感じた。きっと、赤らんでいる。突然、手を繋がれたわけだし。正確には、木霊先輩の手は俺の手首を握っているのだけど。

「あ、はいはい」

 足が絡まる。

 タバコの吸殻。傾いた視線に映った。山のように積もったシケモク。フィルターの山積。

 不良が溜まっているのだろう。人気があまりない、臭いので人がこない場所だからか。全く、クズだなぁと思う。二十歳になれば吸えるのに。アルコールと違って、百薬の長って言葉もない、完全な毒物なのに。何をそんなもので、反抗しているフリをするのか?

 原意の意味での中二病だろうか? ま、どうでもいい。

 今、重要なのは別のこと。

「感じません」

 結局、妖しげな場所は廻った。

 何も感じない。との回答が得られた。

「珠美くんはどうですか?」

「んぅん。ほんと、見えなくなったみたいです。中学のときは見えたんですよ。しょっちゅう」

「環境の変化ですかね――」

 そうかもしれない。

「ですね。そうかもしれません」

「私もそうかなって思うんです」

「先輩も?」

「私の場合、前まで見えなかったんですよ。だから、珠美くんとは違って中学のときは、全然、幽霊とか信じてなくて」

「そうだったんですか」

「でも、見ちゃったら。信じるしかないというか――」

 その気持ちは分かる。

 非科学的。なのに、自分には見える。その謎。

「珠美くんも、また見えたらいいのに」

 期待の篭った眼差しが俺を射抜く。期待されてる?

「努力しますよ」

「うん。ありがとう」

「いえいえ。俺のためですから」

「なんで?」

 しまった。和みすぎて、口が滑った。誤魔化さないと。

「一緒に観察したいじゃないですか。幽霊生態調査」

「生き物じゃないですけどね」

 くすっと口元に手を当てて、上品に笑う。

「ですね。だったら、何なんでしょう」

「ほんと、何でしょうね……。でも、私を助けてくれることもあるんですよ」

「和むっていってたヤツですか?」

「そう。ほら……、一人が寂しいときとかあるでしょう」

「ア……分かります……」

「よかった。分かってくれて」

「俺も中学のときそんな感じで」

「え?」

 木霊先輩は目を見開く。

「そうは見えませんけど……」

 どう、見えているのだろう。俺。

「葉桜くらいですから、友達。今もですけど、あ、木霊先輩含めて二人です」

「意外かな」

「意外ですか?」

「ちょっとね」

「そうですか」

「楓についていけてるから、ノリとかいいみたいだし」

「井塚先輩なしじゃ、辛いですよ」

「そうかも――」

 また、笑った。

 今日、彼女はよく笑った。

 なんか嬉しい。

 俺だけに見せている笑顔。

 本当はそうじゃないはずだけど、そんな妄想を抱いてしまう。青少年なんだ。神だって、この自意識過剰妄想を許すはず。許して。

「そういえば、何時です?」

 木霊先輩は俺に訊く。ケータイ見ればいいのに。でも、頼られてる? いい傾向。マンセー。って、さっきも訊かれたからケータイを学生鞄から出すのが億劫なだけかもだけど。

「八時半……」

「結構、経ちましたね」

「すいません。一時間以上も連れまわして」

「いいよ」

「門限とかあったりします?」

「ないですよ。うち、結構、放任だから」

「あ、うちもです。えっと、送ります」

「いいですよ」

 両手を振って遠慮する。いえいえ、ダメです。遠慮はさせません。意地でも送ります。

「でも、もう暗いし」

「見られたら――」

 見られて困ると? そういえば、カレシがどうとか? あれ、マジだったのかなぁ。でも、そういう理由なら、でも――懊悩。

「でも、危ないかも。春だし」

「もう六月ですけどね」

 突っ込んでくれた。このまま、押そう。ゴリ押しで。

「というわけで、送らせてください」

「んっと……」

 迷う。

 迷う。

 早く。早く。

 イエスといってください。

「うん」

 気合を込めて、木霊先輩は頷く。

「わかった。送ってもらいます」

「あ、はい。喜んで」

 こうして、俺はこの日。カレシがいるかもしれない、すでに唾つきかもしれない、コナかかってるのかもしれない、木霊先輩と一緒に帰ることができた。そして、僥倖にも彼女の家は俺の家に結構近いことも判った。

 工程の七割は同じ道。

 バス通でもチャリ通でも、電車通でも、バイク通でもなくて、木霊先輩も徒歩通学ということも分かった。

 色々なことが分かった気がした。

 殆ど、些細でどうでもいいことばっかだけど。

 でも、逆にいえば、俺は殆ど木霊先輩のことを通学の方法すらよくしらなかったんだなと反省させた。

 なんて、愚鈍なんだろうと――。で、夕闇の校舎で俺の隣を歩きながら笑顔を浮かべる彼女を思い返し、この日、困ったことに、中々、眠れない夜だった。


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