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6-1 モスクワ陥落

修学旅行で広島、大阪、奈良、京都に行ってきました。広島では原爆ドームや平和資料館を見ました。行くのは初めてのことで、中々感慨深いものでした。

1941年5月。去年の11月からおよそ半年の間、両陣営ともに大規模な作戦を実行することがなく膠着状態になった。独ソ戦では、B軍集団がバクー油田の50キロ手前まで到達し、黒海の沿岸部は完全に占領して、ソ連は黒海への出口を失った。この頃、枢軸側が黒海の制海権を握り、バルカン方面から海路で補給できるようになり、伸びきっていた補給線の問題が解決された。


5月22日。長い間膠着状態だった世界大戦はいよいよ終局へと向かい始めた。ヒトラーが満を持してタイフーン作戦の発動を決定。モスクワ正面に機甲師団を集結させ、正面突破を開始した。突破は難なく成功したものの、モスクワ手前の3キロ付近でソ連軍に足止めを食らった。ソ連側はモスクワの周囲におよそ100万人の戦力を配備しており、また時間をかけて強固な防衛線を張っていた。この頃、ソ連は老若男女問わず徴兵しており、練度は低いものの人海戦術でドイツ軍を消耗させていた。モスクワでも同じことが起こり、先鋒部隊は壊滅状態になった。


しかし、ヒトラーには秘策があった。それは、今年生産開始したばかりE戦車シリーズである。E―25、E-50、E-75、E-100があり、戦車のパーツを共通化して重量ごとに戦車の標準化をすることで戦車生産を効率化するのが目的だ。ドイツは今までの古い戦車の生産をやめ、生産ラインをE戦車に置き換えていた。そのうちのE-75重戦車はティーガーよりも強力であり、前線で要塞をことごとく粉砕した。モスクワの戦いでドイツは榴弾を惜しみなく使い、1日の死傷者が最大8万人にも上った。ソ連軍がモスクワ市街への撤退を始めたとき、ドイツ空軍はモスクワに空挺部隊を投下。後方が攪乱されたことによりソ連兵はパニックに陥った。それでもソ連軍は民家に立てこもりながら抵抗を続けたものの7月にはモスクワから撤退を開始。スターリンの命令によりモスクワに火がつけられ、ドイツ軍が全焼したクレムリンへと入城した。ソ連の上層部は既にゴーリキーへと疎開しており、モスクワ陥落と同時に臨時首都をゴーリキーへと遷し、徹底抗戦を表明した。


モスクワ陥落は世界に衝撃を与え、ソビエト社会主義体制の崩壊を象徴する出来事となった。


この頃、日本によるアメリカ本土空襲も激化し、工場群は壊滅。アメリカは地下工場での生産を余儀なくされた。危機的状況に国民は不安と恐怖を感じ、反戦運動も高まりを見せている。米ソの2つの大国は建国以来の窮地に立たされており、枢軸国による戦後世界分割案が計画され始めた。


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