5-14 スターリングラード
このペースで書き続けてるといつ終わるのかと不安になってきました。
日本がアラスカの占領に成功した頃、ドイツ軍はロシア南部にあるドン河を突破し、スターリングラードまで10キロの地点に到達していた。スターリングラードはソ連屈指の重工業都市であり、ソ連トップのスターリンの名がついているため、大兵力でこの都市を防衛している。しかし、ソ連軍はハリコフでドイツ軍の突出部を包囲しようして攻勢をしかけたが、逆に包囲されてしまい約10万人が降伏。南部戦線では次々に前線が突破されていった。
兵力不足に陥ったソ連は農村で農民を強制的に徴兵し、装備の支給もままならない状態で最前線に送ったため、人的損害が急増した。また、農民を大量に失ったため、食料不足が更に深刻化するという事態になってしまった。
これらの事を踏まえ、ヒトラーはスターリングラード攻略開始の日を10月1日とし、作戦を立てた。そして9月末、ドイツ空軍は大量の爆撃機でスターリングラード市街への猛烈な爆撃を開始。市内の大半の建物は壊滅して瓦礫の山となり、市民の大半は奥地へと疎開、避難していった。
作戦開始の10月1日、イタリア軍、ルーマニア軍、ハンガリー軍合計30万人がスターリングラード市街に到達。守備隊と交戦状態になった。ソ連側は瓦礫や廃墟などの遮蔽物をうまく利用して激しく抵抗し、枢軸軍は苦しめられた。死闘の末、1週間後には街の北部にあるT-34の主要生産拠点、トラクター工場を占拠。南部では南駅、穀物サイロを占拠して守備隊はじわじわと後退していった。
その頃、ドイツ軍の装甲部隊は両翼から迂回してヴォルガ河まで到達。スターリングラードを半包囲した。ソ連軍は後退するのにヴォルガ河を渡らなければいけなくなり、制空権は枢軸国に握られているため撤退はできないという状況になった。
半包囲が完成したため、A軍集団はスターリングラードへ波状攻撃を開始。猛烈な砲撃を加えながら前進し、軍司令部のあるママイエフの丘を占領。司令部を赤い10月冶金工場へ移すが、すでに市内の8割がドイツに占領されており、市街部からの撤退は時間の問題となった。それでもなおソ連軍は抵抗を続け、ヴォルガ河対岸から砲撃を加えて負傷者が急増した。
この時スターリンは、軍に死守命令を出していて、「寒波が来るまで持ちこたえることができれば、敵は消耗して我々が有利になる」と考えていた。しかし実際は、スターリングラードに補給が行き届いておらず、冬季戦装備がほとんど用意できていない状態だった。ドイツ軍は手榴弾や火炎放射器を使って、廃墟の部屋の1つ1つをしらみつぶしに占拠していった。
最初は数的優勢だったソ連軍も数が半減し、枢軸軍の方が優勢になっていた。しかし枢軸軍はソ連相手に膨大な量の弾薬や砲弾を消費して、それらの補給が追いついていない状況であった。
一進一退の攻防戦は冬に持ち越すこととなった。