2.武術/言語
前回のあらすじ。森のトイレは森だった。
手水の脇にスコップをたてかけ、青臭くなった手を洗う。台所を覗いたが、フィービの背中は、全力で仕事中につき声かけ無用、と主張していた――ように感じたので、泰雅は食堂に腰を据えた。所在なく昨日見た地図を広げる。地名や注意書きを眺めながら、文字はもちろん言葉も覚えなければならないな、と思った途端、強烈な既視感に襲われた。ひとつひとつの文字は直線と丸、ラフタを組み合わせている。見たこともない文字という確信と、それを絶対読める筈という確信がぶつかりあい、泰雅に吐き気を催させた。気持ち悪さを我慢して文字を見つめる。
縦棒3種類、横棒2種類、丸が5種類あるようだ。全種類の組み合わせは確認できないが25種――これが子音にあたることを、泰雅は知っていた。
ラフタは5種類。これが母音にあたる。
例えば黒猫が示した近くの湖の名は――
声に出した瞬間、その言葉の意味が明瞭に浮かび上がった。――塩の湖
それは一夜漬けで暗記した英単語から憶い出したようなあやふやな隈をもたない鮮明さだったが、同時に奇妙な薄っぺらさだった。日本の都市名であれば当然に附随する周辺情報――名物、景勝、有名人といったものを欠いている。
泰雅は今度は朱筆の注意書きを読んでみた。
『このあたりには飛竜が生息し、対象を襲う』
内容も気になったが(飛竜?)、泰雅は自分の口から発せられた音の響きに注意をひかれた。昨日黒猫が喋っていたのは日本語だったように思う。口調がおかしかったのは口の構造の違いによるものだろう。牙があるのに破裂音とか、ちょっと想像してみても無理がある。
今朝フィービが喋っていたのは何語だったのか。
黒猫が日本語をしゃべることができるのはわかっている。正確には泰雅オリジナル世界の黒猫であるが、言語能力を抽出できるのは間違いない。今泰雅が味わっている二重言語の混乱は、日本語のほかにこの世界の言葉を母語として「焼きつけた」からだろう。
言葉の切りかえは無意識に行っていたようだ。黒猫とはオリジナルの記憶を引きずって日本語で喋り、フィービとは日本語が通じない条件で、切羽詰まっていたのでこの世界の言葉を選択したのだろう。どちらも使えることがわかったのだから、意図的に切りかえることも可能な筈だ。
英語も入れれば三重言語か。日本語以上に使い手がいなさそうだ。もしかしたら黒猫が喋れるかもしれないが。
文字はテングワール、内容はグーグル翻訳のラテン語です。しかしこの話では、トールキン先生転生者説/異世界転移説は採用しておりません。




