プロローグ
爛漫の温気が濃く残る春の宵だった。泰雅は大きく息を吐きながら、椅子の背もたれに身体を預け欠伸をした。広げた課題は半ページも進んでいない。
好い時候だが勉強部屋の小さな窓は、閉め切ったままここしばらく開けた記憶がない。花粉症のせいである。時刻は8時を少し回っている。首都圏衛星の住宅街は学生と社会人と、それぞれの帰宅のピークのはざまにあって、濃密な静けさに覆われていた。
カラカラと窓の開く音は、空回りするボカロの早口に紛れて聞き取れなかった。しかし春のにおいが――少し饐えた部屋の空気に入り混じり、彼に忘れていた季節を思い出させた。
高校2年、中肉中背平均凡庸、伸びすぎた髪に若干クセがある。真剣なとき、ないし不機嫌なときの目に険があるが、稀に笑顔を見せると、獅子鼻と分厚い唇から覗く犬歯に愛嬌がある。
中学生の弟と小学生の妹がひとりずつ。邪魔な時は蹴散らさなければならない程懐かれている。
ヘッドホンを外し、何気なく横を向いて--窓から入ろうとする猫と目が合った。短毛大柄の黒猫で妙に太っている――10kgはあるだろう。
室内の明るさに広がった虹彩は紺に近い青だ。まだ室外に残された尻尾はしなやかに長い。数えられる猫種は片手の指でも足りるだろうが、それにしても見当がつかない。
そいつは泰雅の顔を見てニヤリと笑った。鋭い牙がぞろりと剥き出された。獲物を前にした肉食獣の笑だ。
「コンバンハ」
至近距離から大質量に跳びかかられ、椅子ごとひっくり返された。後頭部を強打して泰雅はそのまま意識を失った。
春宵の温気はその密度をいや増すばかりである。
メモによると、2014年に書き始めていますね。
書き終えたのは2016年。遅いし移り気だし。
とりあえず、行き詰って未完で放置、にはいたしません。
楽しんでいただけると、嬉しいです。