こんなことを思うのは、我が儘かな
どたばたと慌てて広間へと向かった為に開きっぱなしになっていた戸の向こう、布団と縄で簀巻きにした主だった審神者が転がっている。
僕たちが部屋を出る前から寸分の変化もないその姿と向きに何だか感心してしまった。随分上手に落としたんだね、鈴ちゃん。
鶴さんの話を聞いていたこともあって余計にそう思いながら室内に転がることしか出来ない円筒形の塊に近付き見下ろしていた。
目を覚ます様子のないそれをどうするべきかと思案する僕の隣にゆらりと歌仙くんが立ったその直後。
「起きろ」
「ぅぐっ?!」
ぞくりと背筋に震えが走るほど冷たく低い声と共に歌仙くんが簀巻きを足蹴にした。布団越しなのにみしって音がしたのは……気の所為だね。きっと幻聴だ。
別に意図して転がした覚えはなかったんだけど仰向けになっていた審神者。
その天を向いていた腹部を歌仙くんはどうやら狙って踏んだらしくて、簀巻きがくの字に折れ曲がって呻いた。別に止めはしないけど、躊躇いもなく持ち上げた足を簀巻きへと踏み落とした様子には驚かされた。
「……」
ふと気になって窺い見るのは後方。同じものを見ているはずなのに、簀巻きを踏み続けている歌仙くんの姿に同行者である江雪くんが何も言わないのが気になった。
ちらりと肩越しに後ろを見て、すぐに前を向いた。何でもない様子を装ってそっと腕を撫でたのは鳥肌が立ってしまったのを宥めるためだ。
何処か柔和な印象を与える歌仙くんから微笑みを剥ぎ取って目を据わらせているのも凄いけど、ある意味それを越えている気がするよ。
戦は嫌いと誰はばかることなく公言する江雪くんの目が、見たことない鋭さで簀巻きを睨んでた。鶴さんじゃないけどこれは驚きだね。
僕だって本当は無防備な首を落としてやりたい気持ちでこの場所に立ってたのに。
周りが物々しいと変に冷静になるって話は嘘でも何でもないんだといま知ったよ。
幸い禍々しいには堕ちていないけど、二人から立ち昇る殺意と怒気が渦巻いて室内はこれ以上ないほどに重苦しい雰囲気だ。
そんな空気を察してなのか、腹を踏まれて起こされた衝撃でくぐもった音の咳をしていた審神者が歴戦の猛将でも竦みそうな気を向けられて震え上がっていた。
ガチガチと耳障りな音を立てて歯を鳴らす代わりに噛まれる布が細かく揺れ、猿轡が無ければ何度も舌を噛んでいそうだなと僕は冷めた気持ちでそれを眺めた。
「やあ、久しぶりだね主。僕のことを覚えてくれているかな?嘆かわしいことに君が初期刀に選んだ打刀さ」
冷えきり笑わない目で口元にだけ笑みを刷き、歌仙くんが自身の姿を見せつける様に片腕を広げた。風雅な戦衣はあちこち破れてボロボロだ。土や血なんかで汚れた衣を纏っているのに、その下に見える肌には傷一つない。
本来なら手入れを受けた時に戦衣も修復されて新品同様になるんだけど、鈴ちゃんの手入れは僕が知っているものとは随分違ったからその所為かな。
実は僕も歌仙くんのことをとやかく言えない格好なんだよね。細かな掠り傷から始まり大小様々な刀傷が戦衣を裂いて汚してひどい有り様。格好悪いにも程がある。
正直いまの自分の格好は堪え難いものがあるんだけど、審神者には僕たちのこの姿が余計に恐ろしく見えているみたいだ。
傷だらけで動くことなんて出来ない重傷のはずなのに、無傷だからって。
「手入れ方法が独特でね。傷は癒えたがこの有り様だ。ほらここ、覚えてるかい?君が兵法書で殴りつけた時に裂けたんだよ。書物を武器として使うだなんて君は僕へ随分と直球で喧嘩を売ってくれたものだね」
流石文系名刀を名乗っているだけあるね。きっとそれが最初だったんだろうけど、物凄く根に持ってるのがちっとも笑っていない目から嫌でも伝わってくるよ。
「何が原因だとか、どうして急に僕たちへあんな行動に出たのかなんて僕は問わないよ。何を言われてもこの怒りが収まるとは微塵も思わないからね。これは皆にも言えることだろうさ。そうだろう、江雪左文字」
この為に江雪くんに同行して貰ったのかと納得した。後ろへ振り向き、頭の可動域が固定されて通常より視野が狭い審神者の視界に江雪くんの姿を入れる歌仙くん。
話を振られ審神者の目に自分の姿が映ったとわかった江雪くんはといえば、未だ歌仙くんに足蹴にされている簀巻きを極寒吹き荒ぶ目で見下ろしていた。
……僕でも恐いと思うよ、いまの江雪くん。
「あの愚かな行為に道理があるとは思えません」
涼やかで淡々とした声音がその下に抑えられたものを想像させて余計に恐怖を煽るよね。争いを良しとしない彼がそれを否定しない。たったそれだけのことなんだけど、江雪左文字という刀のことを知ってさえいれば、いまの言葉に込められた重要性は嫌でもわかる。本丸の刀剣男士をどれほど激怒させているのかを示すのに、彼以上にわかりやすい指標はないと思う。
歌仙くんの人選が的確過ぎて感心すると同時に寒心もするよと顔には出さずに苦笑っていれば、視線を感じた。縋るような醜悪なものに、知らず浮かぶ嘲笑。
「何?僕に助けを求めてるなら大間違いだよ」
一体何を考えれば僕にそんな目を向けられるのか。理解したくもないものに鼻を鳴らした。
「その首、誰よりも落としたいと思っているのは僕なんだから」
鍔が奏でる硬い金属音。態々視界に入れてあげた太刀、僕の本体に恐れ戦く審神者。ああなんて情けない姿か。なんて矮小で愚かなのか。こんなものに足蹴にされ続けて来たのかと馬鹿馬鹿しくなる。
握る鞘が軋んで本体へと視線を落とせば、甘い香りと温かさを思い出す。
本体を使った彼女の手は温かくて、触れた唇は……とても柔らかかった。
「自身の置かれた身の上は理解できたかい審神者」
ダンッと畳を打った鞘尻の音と歌仙くんの声にはっとなる。何処かに飛ばしかけた意識を引き戻され、同時に驚く。
主と、呼ばなかった。初期刀である彼が、最も長く近く側にあったはずのたった一振りの打刀が、いま終わりを口にした。
「いま長谷部がこんのすけと共に政府へと君の愚かな振る舞いを報告している。君の審神者としての力は政府にとって惜しまれるものかもしれないが、碌に戦果を上げていないばかりか貴重な戦力である僕たち刀剣男士を故意に痛めつけた事実がある。少なくともこの本丸の主ではいられないだろうね」
正直なところ時の政府がどんな反応を返してくるかはまだわからない。歌仙くんの言うように審神者の能力ではこのどうしようもない人間の子は優秀な部類に入るのだから。最悪、監視が付いた上で本丸継続なんてこともあり得なくはない。
噂によると審神者不足は深刻らしいからね。
「尤も、政府が君をこの本丸の主としてあるよう望んでも、もう遅いがね」
淡々と怒りを伝えていた歌仙くんの声に嘲りが含まれ、怯えばかりを見せていた審神者の目が揺らいだ。何事かと疑問を浮かべ、そして驚きと怒りへ変わった。
そんな審神者の変化を僕たちは不快さを隠さずに見下ろす。
「僕たちはすでに手厚い手入れを受けている。顕現者である君の霊力を塗り替える程に強く濃密な霊力を注がれてね」
確か……のっとり、だったかな。顕現した審神者の霊力を自分の霊力で上塗りして刀剣男士の主に成り代わり、最終的には本丸そのものを乗っ取ること。見習いの審神者が研修先の本丸でやろうとした話を聞いたことがある。
たぶんというか間違いなく鈴ちゃんはこのことに気付いてない。
だって、彼女が見ていたのは、倒れてしまう程の無茶を通してまで救おうとしてくれていたのは、僕たちの“命”だったから。
折れかけていた時、どこか昏いところへ落ちて沈んでいこうとしていた僕へ届いた声。死なないでと願い乞うあの必死な声は、彼女のものだ。手入れを通じて聞こえたそれは、きっと強く思ってくれた心の声。偽りのない、真実の言葉。
その声は手入れを受けた皆にも聞こえたんだろう。だから誰も鈴ちゃんを嫌悪していない。むしろ好意的。馴れ合いは嫌だってすぐに口にする伽羅ちゃんが最初に話しかけたのもその所為だと思う。
物扱いじゃなくて、一つの命として救おうとしてくれた。そんな鈴ちゃんの……律ちゃんの温かさを知っているから。
「もう君の主命は誰にも届かないよ」
あ、これは嘘だ。軽傷だった短刀三口と手入れを受けていない鶴さんには、まだ主命は届く。でも、歌仙くんはそれを偽る。
「むしろ僕たちの怒りを煽る逆効果だ。自ら進んで首を差し出したいのであれば止めないが、ほんの少しでも命を長らえさせたいのなら余計なことはせずにおとなしくしておくことだ」
畳へ打ち付けていた本体を腰へ差し直し、歌仙くんは審神者が着ていただろう衣を拾い上げると簀巻きの前で揺らした。
「内側に籠って身を守ることは得意だろう。政府が君の身柄引き渡しを願って回収に来るのを祈るといい」
パラパラと衣から落ちたのはいくつもの結界札に護符。そう、これがあったから僕は手をこまねくしかなかった。恨めしく思い、畳に散らばるそれを睨んでいるとバタバタと足音が近付いてきた。
……誰だ?清掃を言い渡されている彼らは好き好んでこの場に足を運ばない。
それはこの本丸の刀剣男士代表である初期刀、歌仙兼定が審神者と話をつけると宣言したからだ。それを邪魔するようなことはないはずと思いながらも一応警戒をしたけれど、意味はなかったかな。そもそもその必要がなかったと言うべきなのかもしれない。
「歌仙っここか!」
憤懣やるかたなし。そんな表情をした長谷部くんがこんのすけくんを掴んで登場した。いや、掴んでるんだよ本当に。二頭身の狐のぬいぐるみみたいな姿をしている管狐のこんのすけくん、その頭を鷲掴んでる。
そのまま本丸内をあの機動力で駆けて来たんだろうね。自由なはずの残された胴体部分が振り子のようにぶらぶらと揺れていて何とも物悲しい見た目になっている。
抵抗を諦めたこんのすけくんの様子に思わず苦笑してしまいそうになる。
「おや長谷部、随分とひどい扱いじゃないか」
流石に歌仙くんも見咎めたらしい。瞬きの後、眉を寄せていた。ちらりと見た江雪くんは呆れたのか小さく息を吐いていた。
そんな僕たちの反応を見て長谷部くんは……青筋を立てた。どうしてなのかな?
「ひどいものか!この管狐は審神者に味方する気だぞ!」
「へぶっ」
ベチンっと勢いよく畳に投げつけられたこんのすけくんが潰れた音を出したけど、誰も同情の声はかけなかった。むしろ俯せになっているこんのすけくんの背面部には僕たちの冷たい視線が刺さったと思う。
「へぇ……どういうことだい、こんのすけ?」
予想違わず冷ややかに歌仙くんがこんのすけくんの方へと半身を向け、見下ろしながら問いかける。自然に見える動作の中に気になるものがあって僕はその立ち姿を注視した。
審神者の衣を拾い上げた時、簀巻きを踏み続けていた足を畳へ戻した歌仙くん。
たぶん狙ってだろうね、これ。簀巻きにされた体の中で唯一表に出ている審神者の頭、その前で衣を手にしているのは、そこに審神者がいることを隠しているから。
何故そんなことをと思う。審神者に何かを聞かせたいのか、それとも審神者の姿を視界に入れるなり刀を抜いて斬りかかりそうな長谷部くん対策なのか迷うな。
そんなことを考えている間に畳へ顔からぶつかったこんのすけくんがぷるぷると震えながら頭を持ち上げて左右に振っている。涙目なのは痛かったからだね。
「ち、違います!こんのすけは皆様が審神者様を斬り荒御魂にならぬよう思い、審神者様の即時回収を時の政府へと求めたのです!」
「あんな奴にまだ様などつけるか貴様っ」
「長谷部殿のお怒りはそこなのですか?!こればかりはこんのすけにもどうにも出来ません!そのようにシステムで組み込まれているのです!」
「そんなことは知らんっ」
「そのような殺生なぁっ!」
……何だろう。ここに鶴さんがいなくて良かったと思ってる僕がいる。
だって鶴さんだったら絶対いまのやり取りで笑ってる。緊張感を台無しにしてると思う。長谷部くんがふざけている訳じゃなく真面目に言うのがこう、余計に、ね。
「こんのすけの呼び方はただの定型文として流すんだよ長谷部」
「歌仙殿?!」
溜息混じりにどうでもいいと話を流した歌仙くんにそんなと言いたげな目を向けるこんのすけくん。そして肝心の長谷部くんは……口をへの字に曲げて不満だって言ってるね。やれやれ、真面目すぎるんだから長谷部くんは。
「それで、政府は何と答えたんだい?」
話を進めようと思ったのか歌仙くんがそう切り出せば、こんのすけくんも姿勢を改めていた。
「十八時まで待てと。審神者の解任にはいろいろな事務処理が必要ですのでそれまでは出陣、遠征、演練の門を使用することを禁止。また鍛刀、刀解、連結も禁止されます。本丸の結界維持は万一の襲撃に備えすでに時の政府の管理下へと変更されました。審神者様に許された権限はこれでほぼ凍結されたことになります」
「……つまり、残っているのはこの本丸の主としての形だけということか」
歌仙くんの確認にちょこんと座ったこんのすけくんが是と応じるのに長谷部くんが舌打ちをする。
「全ての権限を剥奪してしまえばいいものを」
「それではギリギリの霊力で人間の姿を保っておられる皆様の顕現が解けてしま…………あれ?」
こてんとこんのすけくんが首を傾げて僕たち全員を順に見つめていった。
何を思っているのかはそのきょとんとした様子でわかるかな。
「皆様、いつの間に手入れを受けられたのですか?それに、その姿は一体……」
「気付いてなかったのか鈍間め。俺たちはすでにあの人間の霊力でなど動いていない」
「え、えぇっ!?で、ではどなたが手入れを?!この本丸には江雪殿のようなレア太刀も大太刀の太郎太刀殿も顕現されているんですよ!一体どんな優秀な審神者様がこの窮地を救ってくださったのでぅぐっふ!」
「うるさい」
長谷部くん、自分の足元に寄って来られたからって踏み潰すのはどうなのかな。
別にこんのすけくんが今回の事態を招いた訳じゃないんだからそんなに邪険にしなくても……って、そもそも長谷部くんの態度は一貫してたっけ。たった一人以外は皆同じってある意味平等な扱い。あくまでもある意味なんだけどね。
「その話は後にしよう」
そこまでと、なんだか重要な話が緊張感なく進んでいきそうな長谷部くんとこんのすけくんの会話に割って入った歌仙くん。
一振りと一式の視線を受けている彼の視線が向かうのは衣で遮る向こう側、若葉の緑が浮かべる冷ややかな色には変わりがない。
「さて、朗報だよ。期限は十八時、それまで僕たちに殺されないよう懸命に閉じ籠るといい」
話はこれで終わり。言外にそう告げた歌仙くんが目で僕と江雪くんに退室を促すのに従って足を踏み出す。
「何だ?誰に向かって……」
室内には入らず外の縁側に立っていた長谷部くん。怪訝な顔をしている彼の腕をそっと掴んで戸の前から押しやる。僕と江雪くんの体で壁を作るようにして立ち、最後に衣を放った歌仙くんがこんのすけくんを拾い上げ、部屋を出て戸を閉めた。
その直後、ついさっきまで何もなかった場所に結界が張られ、戸へ触れていた歌仙くんの手をパチンと弾いた。
「確かに脅したが、早急なことだね。余程我が身が可愛いらしい」
弾かれた手を見てくつりと冷たく嘲る歌仙くん。その様子に思うことはきっと僕も江雪くんも変わらないんじゃないかな。
目には見えない壁に守られる閉ざされた部屋を見てそんなことを考えていた僕の手に微かな震えが伝わった。
「そこに、居たのかっ!!」
「っと」
掴んでいた、というより移動を促すために触れた僕の手を振り払い、長谷部くんは結界が張られた障子戸に拳を叩き付けた。怒りに任せたその拳に手加減なんてものはきっとない。ドンッと鈍い音が辺りに響くけれど、結界に守られている障子戸は無傷のままそこにある。
「っち!身を守る事だけは一人前か忌々しい!」
本体をもってしても容易くは斬れない。そうと知っているから諦め、苛立ちをぶつける為にもう一度だけ拳を打ち付ける。
長谷部くんはいつまでも結界を、その向こうにいる審神者を睨み続けることはせず、その相手を近くにいる僕たちへと変えた。
「何故黙っていた!居ると知っていれば斬り捨てたものをっ!!」
苛立ちを叫んだ勢いのまま歌仙くんへと掴みかかりそうな長谷部くんを止めようと二人の間に入ったら……うん、まあそうなるよね。代わりに僕が掴まれた。
お陰でボロボロの戦衣が悲鳴を上げているのが聞こえてきそうだよ。
「落ち着いてくれ長谷部」
「俺は落ち着いているっ!」
目を吊り上げて僕の胸ぐら掴み上げてるのにそれを言えるのってある意味すごいよね。いまのでシャツの釦が一つ飛んでいったんだけど、告げたところで「だから?」とか言われそうだ。今更な格好だから別にいいんだけど。
穏やかそうに見えて実は沸点が低い歌仙くんに掴みかかっている状況よりは遥かにまし。そう思うんだけど……僕越しに睨みつけているんだからあまり差がないような気がして溜息を吐きたい気分になるよね。吐かないけど。間違いなく長谷部くんが睨んでくるから。
「あれに斬る価値はない」
「っ」
長谷部くんの様子に呆れ半分、感心半分となっていたところに冷たく言い切られた歌仙くんの言葉。それはいままで聞いてきたどの声よりも冷たく、鋭く、寒気がする何かを感じさせて背が粟立った。予想外の反応に勢いを削がれた長谷部くんは目を丸くして歌仙くんを見ていた。
驚く気持ちはよくわかる。だって、歌仙くんは初期刀だ。審神者が最初に顕現する刀剣男士、政府が用意した五口の打刀の中から自分で選ぶ唯一無二の一振り。
最初から好意的とは呼べない態度を取っていた審神者にも拘らず、歌仙くんは擁護する位置にいた。審神者と刀剣男士との間に立つ緩衝剤の役割を担っていた。
誰よりも早く、一番最初にあの広間へと入ることになるまで審神者の側に在り続けようとしていたやさしい打刀。そんな初期刀の態度に驚かない訳がない。
「少なくとも、僕はあれの血なんかであんなに必死になって手入れをして貰えた刃を汚す気はないよ」
信頼を裏切られた怒り、最後まで伝わることのなかった思いの虚しさ。
複雑な何かで構成されたが故の無表情に見つめられて固まった長谷部くんから腰に差した本体へと視線を落とす。その表情が一変していて、また驚かされる。
くすりと微笑んでどこか愛おしそうに柄を撫でる。そんな歌仙くんの表情変化をわからないとは思わない。
「……そ、れは…………そう、だが……」
納得できるけどしたくない。驚きと共にそんな複雑な顔になってはいるけど、少し冷静になったのか僕から手を放してくれる長谷部くん。
その何とも言い難い表情を見ながら僕は口元を緩める。やっぱり聞こえてたんだね、鈴ちゃんの声。そうだろうとは思っていたけど、間違いないとわかると何だか嬉しく思えて笑み崩れてしまいそうになる。
「あれで、良かったのでしょうか」
「江雪くん?」
低く静かに耳へと届く江雪くんの声に「何を笑っている」と長谷部くんに睨まれずに済んだ。心の中でこっそり礼を述べながら江雪くんへと視線を向ける。
さっきまでの物理的な冷気すら感じさせてくれそうだった極寒の目ではなく、少し悩ましく細められた涼やかな色の目は、閉ざされた部屋を見つめている。
結界に守られ開くことが難しい障子、その向こうにいる審神者を見ているかのように何処か遠くを見ている江雪くん。
「死んだ方がましだと思える恐怖には、足りないのではないでしょうか」
「なっ何ですかその聞くからに恐ろしい発言はっ」
驚くのは知らないこんのすけくんだけ。審神者と歌仙くんとのやり取りを見ていない長谷部くんは江雪くんが口にした内容を僕に無言で問いかけ、僕と歌仙くんは互いを見て息を吐く。
「だろうね」
「むしろ逆恨みの相手にされそうな感じだよあれは」
二人して同意を返したことで江雪くんは眉を顰め、長谷部くんは眉間に皺を寄せる。同じような見た目なのにその意味が大きく異なるのは、憂う目と吊り上がった目の差かな。
「おい、どうしてあいつが恨まれるんだ。折れかけの俺たちの手入れをしただけだぞ」
「あれ、もしかして長谷部くん、本丸の乗っ取りっていうの知らない?」
怪訝と不機嫌が混在している長谷部くんの表情を見ながらつい確認してしまう。
ブラック本丸、のっとり。一時期あちこちで噂になっていた話題だ。
政府からの通達なんかはよく歌仙くんと長谷部くんが扱っていたから知らない訳はないと思うんだけど。
そう思いながら問いかければ、あぁと合点が行った声を出したから知ってはいたみたい、かな。でも不思議そうに首を傾げられた。
「別にあいつは本丸を乗っ取ろうとして俺たちを手入れしたわけじゃないだろう」
どうやらまったく考えられないからくる何故だったみたいだね。
言われたことに同意はするけど……あの長谷部くんがそこまで言い切れるほど、か。皆の手入れをした時、鈴ちゃんが何を思っていたのか気になるな。
「手入れを受けた僕たちが自分以外の霊力で満たされているのが不快だったんだろう。あそこまでしておいてまだ主気取りとは……。厚顔さに恐れ入る」
違うことを考えた僕に代わって歌仙くんが答えてくれた理由にそういうことかと呟いた長谷部くんが舌を打つ。
「勝手に拒絶しておいて、奪われたとなれば腹を立てる。虫唾が走るというのはきっとこういうことを言うんだろう。嫌な気持ちにさせてくれるよ本当に」
溜息を吐く歌仙くんの言うことはよくわかる。きっと話を聞けばこの本丸の刀剣男士全員が同じ気持ちになるはずだ。
「同じ人間の子だというのに、こんなにも違うものなのですね」
「あんな奴と一緒にしてやるな。自分に関係ない本丸の刀剣男士の俺たちに、死ぬなと泣きながら叫び続けてくれたんだ。同じだなどと、無礼にも程がある。取り消せ」
不思議そうに呟いた江雪くんの言葉を聞き咎めた長谷部くんがすぐに訂正を求めてきた。その事実に僕は瞬く。
良くも悪くも主至上主義。主命に命を懸ける刀であると名高いへし切長谷部は、同時に主以外に冷たいと評判である。
この本丸ではあんな人間が主なものかと審神者は彼に見限られているけど、江雪くんの言うように鈴ちゃんも審神者と同じ人間の子ではある。
そんな鈴ちゃんを彼が躊躇いもなく擁護するのには正直驚きを隠せない。
なのに、江雪くんは瞬き一つ分の間を空け、口元に笑みを浮かべた。長谷部くんの好意的な意見に思うところはない様子。これもまた驚きだよ。
だって同じ刀派、兄弟刀になる左文字の弟たちを傷つけられて長兄である江雪くんは静かに激昂していたと知っているから。
「そうですね。あのように切々と生きることを望んでくれるやさしい娘です。同じなど、愚かなことを申しました」
穏やかに目を細める江雪くんに、くすりと歌仙くんが笑う。
「まったく、たった一度の手入れで人間の子へ持った不信感を拭うだなんて、ある意味恐ろしい子だね」
口ではそう言いながら、微笑むそこに否定はない。
凄いと瞬き三人を見ていれば、はぁと重い息を吐きまた憂い顔になった江雪くん。
「そのやさしさ故に、自ら罪を負うつもりなのですね。止めることは、出来ないのでしょうか?」
出来ないのかと疑問系で口にしているはずなのに、どうにかしなさいと命令系で言われている気持ちになる僕へと向けられた江雪くんの目が痛い。
それは僕たち刀剣男士を審神者の、人間の血で穢さずに済むようにと鈴ちゃんが言ったこと。
この男を生かしておきたくない、惨たらしく斬り捨て骸を晒し辱め、殺してしまいたい。そんな自ら進んで危うい場所へと堕ちて逝こうとする僕たちに気付いたんだと思う。
でも、吃驚したなあ……。一息に殺すなんてやさしい真似はしてあげないんだって何でもない顔で言うからさ。罪悪感が得られないのなら、せめて犯した罪がどれほど愚かなことであったのかを知らしめよう。何処にいようと逃がさない、常に命を狙われているなんて感じの恐怖で縛り、後悔させてやろうってね。
淡々と伽羅ちゃんに語ったのも驚いたのに、気絶させた時の恐怖があるから自分がその役をやるって鈴ちゃんは言い出したんだよね。
倒れてしまうほど無理をして、僕たちを助けてくれただけでなく審神者の捕縛まで手伝ってくれた。もう、充分過ぎるほど助けられた。
鈴ちゃんはやさしい。出会ってまだほんの少しの時間しか共にしていなくても、そうとわかる程に。
でも、やさしいからこそ負う傷がある。それをどうにかしたいんだ。僕たちは。
返答を迫り刺さる視線に苦笑する。
「どう、かな。僕もまだどんな子なのかよくわかってないから」
「役に立たんな」
何をどうすればいいのかわからないとしか答えられずにそう口にすれば、彼の名前の由来である茶坊主を棚ごと圧し切ったという切れ味に匹敵するような鋭さで言い切られた。精神的に物凄く痛い。
「辛辣すぎるよ長谷部くん」
「事実だ」
否定できないからなんだとわかって欲しいのに更に重ねてくるのが……もう。
項垂れた僕に歌仙くんが苦笑ってる。
「慌ただしく戻って来てくれたんだろう。彼女がどんな人物なのかなんてゆっくり話す暇はなかったのさ」
「適確な助け舟をありがとう歌仙くん」
礼を言えばにこりと笑ってどういたしましてと帰ってきた。そして顎に手をかけて思考する。
「さて、そうなるとどうするかな。このまま十八時まで起きずにいてくれると話は早いんだが……」
現在無理をして倒れてしまっている鈴ちゃんが目を覚ます前に政府が審神者を回収したのであれば、恐怖を刻み付ける為なんて物騒な理由での面会はきっと難しいだろう。問題を起こし明らかに恨まれているとわかっている相手に引き合わせるなんて危険な真似は流石に許されないはずだから。
そう考えると政府が本丸を訪れる十八時まで目を覚まさないでいてくれるのは心配の一点を除けば有り難いと言えるかな。
でも、そう上手くはいかないと思うから僕も含んだ四人の表情は思わしくない。
「それはないだろう。あれだけの霊力だ、消耗した分をすぐに補おうとするからには回復も早いはず。日が落ちる前には目を覚ますんじゃないか?」
否定を口にした長谷部くんの意見に江雪くんが頷き、言葉を継いだ。
「恐らくはそうでしょう。であれば、言葉で伝える他ありません。あのやさしさを損なわず、やめさせる良い案はないのでしょうか?」
それが一番難しい本題だよね。皆そうとわかっているから溜息が重なった。
「三人寄れば文殊の知恵。四人で駄目なら二十三人はどうかな?」
歌仙くんの提案に僕たちは三者三様で瞬いた。
「本丸にいる刀剣男士、全員ですか」
伏し目がちに足元へと視線を投げた江雪くんは何事か考え始め、長谷部くんは大きく息を吐いて肩を落とした。
「下手な鉄砲数撃ちゃ当たるだとか言われそうだが、仕方あるまい。そうとなれば日が落ちる前までに全員を集める必要があるな。光忠、江雪、お前たちは清掃に加わって他の奴らにこの話を伝えろ。歌仙、お前は俺に付き合え。政府の奴が万が一にも文句を言えんよう審神者の改竄した報告書をまとめるぞ」
方向性が決まれば話は早い、とか言いそうな様子の長谷部くんに御指名された歌仙くんは肩を竦めた。
「やれやれ、骨の折れそうな仕事だね」
「文句があるならあの審神者に言え。執務に携わったのは俺とお前が最多だ」
「わかっているよ。わかりやすくまとまっていると助かるなと思っただけさ」
「ああ、それはそうだな。俺も早い内に離脱した。その後どうなっていたかがさっぱりだ。光忠、何か知っているか?」
ポンポンポンと打てば響く調子のよいやりとりを流石初期刀と尽くす系打刀だなと感心しながら眺めていたのに、予想外の問いが向けられてどろりとしたものが腹の底から湧き起こった。
「生憎。でも執務を誰かに手伝わせる素振りはなかったかな。なにせ自分に都合のいい用以外、僕たちが近付くことを頑なに拒んだからね」
自分が顕現したくせに存在しないものとして扱ったかと思えば、突然やって来て僕たちには関係のない怒りをぶつけて立ち去って行く。
嫌だやめてくれと懇願する声を嘲笑って、閨へと引きずり込むんだ。
浮かんだのは皮肉な笑み。すごく、凄く嫌な記憶が噴き出し溢れて堪らない。
そんな僕の様子は余程まずいものだったのか、しまったと顔を顰めた長谷部くんが慣れない手つきで僕の肩を宥める意味を込めて叩いた。
僕の記憶違いじゃなければ君にそんなことをされるの、初めてじゃないかな。
「あー、一区切り付いたら鶴丸と代わって休め。ついでにあいつが目を覚ますようなら説明でもして下手に動き回らないよう足止めしておけ。準備が出来たら俺が呼びに行く」
視線を合わせることはせずに泳がせて、けれどこれ以上ない程わかりやすく気遣われた。慣れないことをさせているとほんの少し悪い気がするけど……鈴ちゃんのところへ行く口実をくれるのはいいな。鶴さんに任せはしたけどやっぱり心配だし。
「うん。じゃあ話を伝え終ったら鶴さんと代わってくるよ」
何より、僕が彼女の傍に居たい。他の誰かじゃなく、僕が居たいんだ。
あの柔らかく笑って、怒りに鋭く煌く刃のような美しい黒曜の瞳に映る最初は……僕でありたい。