物語なんて急に始まるものですよ
暗い昏い常闇。何もかもが黒に塗り潰されて見えるものなどありはしない。
始まりも終わりもないであろうその場所に、ぼろぼろと涙が零れては落ちていく。
叫ぶ声もなければ嗚咽もない。涙ばかりが落ちては消えていく。その繰り返し。
何の価値もなければ意味もない。
そうとわかっていても泣き続ける。
そうしなければ、いつか壊れてしまうと知りたくもない何処かが訴えているから。
乾いた風が頬を撫でる。砂埃を纏うが故に流れて行く様が見える形ないものをぼんやりと目線だけで追いかけてやめる。荒野というには緑が多く、平野というには緑が少ない。僅かばかりの逡巡の後に考えることが面倒くさくなった。少なくとも現時点で視界に納まっている範囲が平らなので平野(仮)でよしとしよう。そもそも問題はそんなことではないのだから。
「何処だよここ」
ぽつりと零した独り言に返ってくる言葉は当然ない。何せ一人きりなのだから。
外出しようかと靴を履き、玄関先で立ち上がった。そこまではよかった。何の問題もなかった。が、何かに呼ばれた気がして振り返るとそこは平野(仮)でしたとさ。ちゃんちゃん。
意味不明すぎて驚く気にもなれん。
私が踏み締めているのは我が家の狭い玄関の人工石ではなく、何処とも知れぬ広い平野。ざりっと音を立てて砂を煙らせる自然の大地。
二度見しても三度見してもきっと変わらないだろうそれに、はあっと溜息をついて現実を受け入れる。
それでも釈然とはしないので、腰に手を当て前髪をかき上げもう一つ息を吐き出す。
靴を履いて立ち上がり傍らに置いた荷物を取ろうと玄関扉に背を向けたところだった。お陰でお出掛け道具の鞄すら持っていない完全に手ぶら状態である。どうしたものかな。RPG風に装備の確認とかでもしておくか。
悪夢のような灼熱地獄を体験させてくれた夏が過ぎ去り、本当にあるのかどうかが疑わしくなってきた秋の装い。色気はないが可愛げはある猫柄のTシャツに桃色の薄手のパーカー、白のデニムに黒のハイカットスニーカー。アクセサリはブルーレースアゲートのネックレスにメタリックピンクの細いフレームの眼鏡。背まである黒髪を後頭部に纏め上げているのは涼しい色合いの蜻蛉玉に小さな金色の鈴が揺れる簪だ。頭を振るとちりんと可愛らしい音が鳴るので気に入っている。以上。
悲しい程に何もない。持ち物は全て鞄の中である私には身分証明書類もなければ電波と電池残量さえあれば働ける通信手段、携帯もないときた。スマホ?ガラケー愛用者には縁のない物体ですな。電話とメールで生きていけるんですよ。
一瞬脱線したが己が現状は把握した。となれば次である。
「しゃあない。人を探すとしましょうかね。まずはここが地球なのかどうかからですよねちくせう」
現在地の確認である。物凄く大事なことだ。幸か不幸か過去に一度とはいえ奇跡の異世界移動経験がある故の決断の速さである。
まずはどの方向に向かえば人里がありそうか。眼鏡をかけてギリギリ運転できる残念視力でぐるりと全方向を再チェックする。
「……行き倒れ発見?」
見渡す限り荒れた砂地と一部植物。遠方には緑が見えるなとか思いきや、我が後方には木から林へ、林から森へと流れて行きそうな光景があった。そしてその木の側に何やら人らしき姿の黒いものが転がっている模様。
「って、ふざけてる場合違うわ」
怪我か病気か疲労かそれ以外かは知らんし分からんが、人であるならまず救護。あわよくばその後で私を助けてくださいませんか恐らく世界規模の迷子なんです。なんて思いながら駆け寄ってみれば、俯せに倒れている御人、ボロボロ。
「っ」
即座に見えている口元へと耳を寄せて呼吸を確認すれば、息はある。だだ弱い。
身を起こして首筋に触れ脈を取るがこれも弱い。本来はビシッときまった黒いスーツいや燕尾服なのだろうが、あちこち破れている。
破れた衣服の下に見えるそれは切るはきるでも斬るな傷で、出血している。とはいえ一つ一つの傷は現代日本人からしてみれば真っ青になるだろうが、深いものではない。出血量も合計したところで貧血と常時手を繋いでいる不健康でもなければ平気な範囲だろう。
目に見える範囲にこんな死に体になる程の傷は見られない。かといって地についている胸側にも大出血なんて傷はなさそうだ。血だまりなんてないからね。ひっくり返せばはっきりするのだろうが、不用意に動かして良いのか判別つかないことが一点。ぶっ倒れているこの御人が目測百八十近い体格のよろしい男性だという点が二点。対する私が百六十にはあと一声届かないおちびだということが三点。
そんな事情で俯せ状態のままで判断するしかないのだが、内傷なら厄介だな。とか思いながらも私の行動は進んでいて止まっていない。
「Call」
己の機関を切り替える。内から外へ、外から内へ。大気に満ちる音に添う。異世界で学び習得したその術を行使する為に己を開く。
それは精霊と呼ばれる存在の力なのかもしれない。それは魔力、マナ、オド、大源、小源などと呼ばれるのかもしれない。魔法、魔術、そんな呼び方をされるであろう不可思議の御業。
「響け、H」
耳に響くのは音階でいうシの音。柔らかで温かく、包み込むような安堵をくれる癒しの旋律。
何処からともなく風が舞い、白い光が倒れ伏した男性を中心に広がっていく。
「歌い踊る祈りの旋律、巡り回る聖なる音よ、命育む女神の御手をいまここに」
不規則に、それでいて美しく文様を描いて形作られる魔法陣。花弁が舞い上がるように地面に広がった法陣から光の粒が舞い踊る。やさしく温かなその光は男性を包み込みその身に溶けていく。
治癒術。光の粒が傷に触れ、その身に溶ける度に紅い雫を零す傷口は小さくなり、一つまた一つと消えていく。それを見つめながら術式を途切れさせないよう力を紡ぎ続ける。ぶっつけ本番で試したが、この地に巡る不可思議な力の源は私が生まれて育った世界とも、この奇跡とも言える術を習得した世界とも異なる感じがする。何が違うと問われも難しいのだが、とにかく違う。だが扱うには何の問題もない様子。ならば彼の人の傷が癒えるまで、目が覚めるまで治療しようではありませんか。
生きているのならば、私の力が及ぶのであれば、死なせないよ。
名前も知らない誰かさん、頑張れ。ボクも、頑張るからさ。