第78話 狂気遊戯の貴族
信じたくはないが、そこに立っていたのは、まさしくソルト=エルツだった。奴だけは会場に入れないよう、万全の警備体制を敷いていた。ディラックさんもローリエッタさんも、そしてヴルド家の人々も皆が目を光らせていた。ソルトを見つけたら、全員が即動けるように訓練を重ねていた。それなのに、まさか貴賓席に座る貴族に化けていようとは……。
もちろん、宰相カールの手引きがあったのは間違いない。それでも俺たちは”エルツ家の見覚えのない貴族だろう”、と思っただけでスルーしてしまった。完全に想定外だった。
だけど腑に落ちない。ソルトは明らかに女性の姿だった。変装というには見事過ぎるし、そもそも骨格からして違っていた。魔法石で幻覚魔術を使ったとしたら、この左手の悪魔が見破るだろうし、幻覚魔法の大家であるシャルローゼさんが黙っちゃいないはずだ。
「おやおやぁ〜? もしかして、どうやって私が化けていたのか知りたいのかなぁ? アハハ」
「ええ、ただの変装ではありませんよね? 幻覚魔術でしょうか?」
「ブブー、ハズレー」
「じゃあ一体どうやったんですか?」
俺は会話を繋ぎながら時間稼ぎをしていた。仲間たちが、ソルトに気が付いて駆けつけてくれるまでの時間が欲しい。ソルトが噂どおり黄泉の軍団を使うなら、俺だけでは手に負えない。エルフのちびっ子長老の力が必要だ。彼女にアンデッドの力を封じてもらう必要がある。
それにソルトは魔法石を使う。もしも強力な攻撃魔法が放たれたら、俺だけでは防ぎきれないだろう。ナイトストーカーの時のような、大規模転移魔法もあり得る。大勢の観客を巻き込んでしまうだろう。対処にはシャルローゼさんやブリッツさんの力が必要だ。
「アハハ、教えてあげないよぉー」
「……貴方の目的は何なんですか?」
「だから言ったじゃない、この会場の人間を全員殺すことだって」
「何のために?」
「うーん、私はね、こう思うんだ。人間が死ぬところって最高に楽しいじゃない? どんな偉そうにしてる奴だって、どんな金持ちだって、死ぬときはみんな同じ顔をするんだ。”死にたくない、助けてくれ”ってね、アハハハッ。あの懇願する目が、見てて楽しくてね。だから目的なんて別にないよー」
やっぱりこいつはいかれてる。人間として根本的に壊れている。絶対に分かり合えないだろう。
「ところでカミラ、君は話を引き伸ばして時間稼ぎをしているのかなぁー?」
ドクンと俺の心臓が跳ね上がった。手を読まれている? いや、もしかしたら心を読む魔法や呪術を使っているのか?
「だけどさぁ、ちょっと見てわからないかなぁー?」
会場の観客席を見渡した。ブリッツさんやシャルローゼさんの姿はもちろん、ローリエッタさんやイオさんの姿もある。だけど皆んな微動だにしていない。さも試合を鑑賞するかのように、じっと闘技場を見つめている。ここにソルトが居るのは、わかっているはずだ。だけど誰も気がついていない。それどころか、闘技場にいる審判すら、俺たちの方には一瞥もくれない。一体何がどうなっているんだ?
「へっへっへ〜 驚いてるね、カミラ=ブラッドールぅ」
「これは、一体……」
「種明かしして欲しい?」
ソルトは、勝ち誇ったように腕組みしたまま言い放った。顔は狂気のいたずらっ子の笑顔だ。
「幻覚呪術さ」
その単語は一番聞きたくなかった。だがそれならば納得は行く。呪術は魔法系の人間には反応できない。唯一希望があるのは、エルフのちびっ子族長だけだ。だがその族長も今は姿が見えない。
「まさか、貴方はアンデッドに身をやつしたのですか? それとも本当に呪術を習得したのですか?」
「”アルベルト”だよ」
ソルトの口から衝撃の名前が発せられた。最悪の中の最悪。アルベルトの名前をここで聞く事になるとは。
「ア、アルベルトと貴方はどういう関係なのですか?」
「アハハ〜、またまた驚いちゃったかなぁ? 私は彼の傘下に入ったんだよ。この程度の幻覚なら少しの間使えるよ」
「幻覚呪術で私とシカを、まだ闘技場で戦っているように見せている訳ですか」
「ご名答〜。ま、わかったところで全員死ぬ運命だけどねぇー」
悔しいがソルトの言う通りだった。今は動くことができない。動いても意味がないと言った方がいいだろう。何をしても、観客の目には俺たちの本当の挙動が認識できないのだ。
アルベルトの幻覚呪術は、ジャンさんやコーネットの側近達を長年騙し通した。あの初代エランド王、ミカさんですら見破れなかった幻覚だ。もしソルトがアルベルトと同等の幻覚呪術を使えるなら、ちょっとやそっとで術を崩すことはできない。
唯一手段があるとすれば……そう、目の前のソルトを斃すしかない。左手の悪魔が言ったように、覚悟を決める必要がありそうだ。
「へぇ、いいね、その眼。紫色に光る眼ってのも初めて見たけどね。何か”特殊な能力”でも身につけているのかなぁー?」
「”死の獣王”の力らしいですよ」
「うん、アルベルトから聞いて知ってるよ。アハハ、ついでに双子だって事もね」
ちくしょう。メリリアの事までペラペラと喋りやがって。アルベルトのしたり顔を思い出したら、怒りが湧いてきたぞ。
「そうですか。では、私は貴男を斃すことで皆を救いましょう」
「ブッ、プハハハハハハー」
ソルトは大声で笑い出した。余裕をかまして組んでいた両腕を解いて、上着の内ポケットに手を入れている。
「獣王か。そりゃあ大変だ。私にはとても敵わないね。いやぁ困った困った。さて、どうしようかなぁ〜」
困ったと言いながら、ソルトのその顔は実に嬉しそうだ。無心で遊ぶ子供のようだ。
ソルトは、内ポケットから赤黒く染まった水晶のような石を取り出した。大きさは小指の先よりも小さく、角ばっている。自然石には見えない。とてつもなく禍々しい気配を感じる。
残念ながら、獣王の気配感知では悪魔や黄泉の力を感知することはできない。しかしそれでも、ソルトの持っている石の危険な香りが、ピリピリと伝わってくる。
魔法石……まさか転移魔法? だとしたら、奴が魔法石を投げる前に阻止しなければならない!
「おい、栄養源。”剥奪の悪魔”はあの石の中だ」
左腕が遠慮なく大きな声で言葉を発した。幻覚呪術で観客席との意思疎通が断たれている今なら、この悪魔も自由にさせておいていいだろう。どうせ誰にも見えないんだし、声も聞こえないはずだ。
どんな悪魔だろうと関係ない。ソルトが魔法石を投げる前に斃せばいい。それで万事解決だ。
獣王の力を限界まで高める。制御できないほどの力が、全身に漲る。俺は、力一杯ソルト目掛けて踏み込み間合いを詰めた。そして全身全霊で必殺の拳を繰り出す。武器はもうない。最後の短剣も、シカの鞭で観客席へ飛ばされてしまった。だが獣王の力をたっぷりと乗せた拳撃は、致死性のパワーがある。当たれば、完全武装した一騎当千の騎士でもタダでは済まないだろう。
拳がソルトの腹部を捉える。しかし、手応えがまるでなかった。俺がソルトだと思っていた姿は、ゆらゆらと蜃気楼のように消えてしまった。これはソルトの幻覚だ。観客全体を巻き込むほどの幻覚呪術を使うのだ。自分の姿くらい、幻覚で俺に見せておくのも簡単だろう。初歩的な罠に引っかかってしまった! 頭に血がのぼって力任せに突っ込みすぎた。
「ふーん、獣王の力ってやっぱり凄いんだね。接近戦じゃ無敵じゃないの?」
声のする方へ振り向くとソルトが立っていた。不敵な笑みを浮かべている。
「おい、栄養源。早く逃げろ! あの石は危険過ぎる」
珍しく左手の悪魔が焦った口調で話しかけてくる。傲慢な町内会のオヤジみたいなあの話し方が、今ではすっかり真面目モードだ。それほど危険な悪魔ということか?
「剥奪の悪魔がどうしたっていうんです?」
「あいつは能力や経験を奪う」
「……貴方が能力を奪われたのも、あの悪魔の仕業という訳ですか?」
「あ、あの時はちょっと油断してただけだ。本気を出せばあのような下等な輩は」
「じゃあ、今本気出してくださいっ!」
「チッ、仕方あるまい。自分の栄養源のためだ」
いちいち栄養源とか煩い奴だが、この際贅沢は言ってられない。使えるものなら何でも使う。全力でソルトを止めなければ!
「剥奪の悪魔の影響範囲は?」
「この闘技場くらいなら全体に影響が出るぞ。城の中もすべてだ」
そういうことか。ソルトの余裕の態度が理解できた。ヤツの切り札は、幻覚呪術や黄泉の軍団だけではない。剥奪の悪魔で、皆の能力や経験を奪えるからこその余裕だ。騎士団や近衛師団も、剣技を剥奪されてしまえば、ただの力自慢の集団でしかない。魔法使いも悪魔との契約を奪われれば、ただの人でしかない。爺さん師匠も例外ではないだろう。彼から格闘術を取ったら、それこそ”ただのお爺ちゃん”になってしまう。
……命こそ奪わないが、それに相当する大切なものを奪う悪魔。こいつはやばそうだ。
「ふぅ〜ん、その左腕の義手も面白そうだねぇ。ま、もう関係ないけどね」
剥奪の悪魔が発動する前に、絶対に止めなければならない。止めなければ、俺たちに勝ち目はない。
ソルトが魔法石を投げるモーションに入った。俺は獣王の力を足に込め、これまでで最も速いスピードで間合いを詰めた。しかし、その先に居たソルトもまた幻だった。
くそっ! 本物のソルトはどこに居るんだ? 気配がつかめない。ソルトは呪術を使うと言っても、まだ人間のはずだ。俺の気配感知にひっかかるはずなのに。
「おい、栄養源。ヤツは上だ!」
……上? まさか空中浮遊か? そんな呪術があるのか!?
頭上を仰ぐと、ニヤけた顔のソルトが浮かんでいた。
「ようやく気がついてくれたね」
ソルトは上空から石を地面に向けて投擲した。魔法石を発動させるためだ。ソルトが上空から投げ下ろした魔法石は、俺とは全然違う方向へ落ちていった。闘技場のちょうど真ん中だ。これが着地すれば、その時点で石の中の悪魔が発動してしまう。発動前に止めるしかない。着地する前にキャッチするんだ!
俺は力一杯地面を蹴った。地面が抉れ、へこむ感覚があったが構わず走った。俺の体が発揮できる限界以上のスピードが出ているのかもしれない。負荷に耐えられず、ブチブチと足の筋肉繊維が断裂する音がした。もちろん切れた傍から再生していく。だからスピードは衰えない。これなら地面スレスレで、何とか魔法石をキャッチできそうだ。よし、いける!
着地点付近に黒い物が横たわっているのが目に入った。麻痺して横たわるシカだった。少し麻痺が解けてきたのか、体を引きずって闘技場の中央に移動してきたようだ。上半身を地面から起こしてこっち向いている。
まずい。このままだと石はシカに当たってしまう!
ブレーキのことを考えず、全速力でシカ目掛けて突っ込む。シカはきょとんとした顔をしている。何が起きているのか理解していないのだろう。何もわからなくていい、そのまま動かないでくれ!
俺はあと数メートルのところまで近づいた。石はまさしくシカの頭上だ。大丈夫、かろうじて間に合う! そのまま麻痺してろ、シカ!
その時だった。シカがニヤリと笑った。ほんの一瞬だったが、彼の口角が上がるのが見えた。彼は頭上を仰ぎ、鞭を振るった。麻痺も腕だけは回復していたようだ。そして、鞭で魔法石を正確に撃ち抜いた。
くそっ、石はどこへ行った? 高速移動をしているせいか、獣王の眼でも追えなかった。これじゃ間に合わない!!!
あと数メートルだったのに。これで全てが終わってしまうのか?! いや、そんなことはさせない。
俺は残った力を振り絞って、さらに加速した。
「んっぐっ」
次の瞬間、喉に違和感を感じた。……何かを飲み込んだ?! 硬い固形物が喉を通り過ぎるのを感じ、食道を通って胃の中へ落ちていく感覚があった。口を開けたまま高速移動をしていたせいだろうか。会場に飛んでいる虫でも飲み込んでしまったのかもしれない。
俺はシカを飛び越え、全力でブレーキをかけた。土煙が舞い、闘技場の緩衝壁の前で止まった。すぐに口に入った物を吐き出そうとしたが、全然出てこない。いや、今はそれどころではない。魔法石は? 剥奪の悪魔は発動してしまったのか?
「おい、我が栄養源よ。大変なことになったぞ」
「どういうことですか?」
「今お前が飲み込んだのが、”剥奪の悪魔”だ」
上空に浮かんでいるソルトが、腹を抱えて笑っていた。
「アーッハハハハハハ、カミラ、君といると本当に退屈しないよー。まさか魔法石を飲み込んじゃうなんてねぇ。超楽しい展開じゃない?」
左手が大きくブルブルと震えた。
「どうやらここまでのようだ。後のことは頼む」
「後のこと? 頼む? 一体何の事ですか?」
「あのエルフ、……長老を守ってやってくれ。あいつは必ずお前に益をもたらす。ではさらばだ」
左腕が”らしくない”台詞を吐いた。次の瞬間だった。俺の腹から赤黒い光が全方位に放たれた。直ぐに体に力が入らなくなった。立っているのが精一杯だ。同時に左腕から悪魔が一体、飛び出してきた。三つ目の悪魔。金髪で派手な化粧をしている。とても美しい悪魔だった。神々しさすら感じる。何と、こいつ女だったのかよ。口調からして、てっきりおっさんなのかと思ってたけど……。なんて切ない顔をしてるんだ。そうか、こいつが”皇帝の悪魔”の姿か。
「我が栄養源よ、約束通り救ってやる。我がお前の体に入り、”剥奪の悪魔”を制する」
「そ、そんなことをしたら」
「ああ、力なき今の我は消滅するであろうな」
嫌だ。こんな奴でも、今までずっと一緒に過ごしてきたんだ。そんな自分の片割れを失うような事は絶対に嫌だ。
「だ、だめです」
「我が犠牲になれば、奪われるのはお前の力だけで済む。会場の仲間は助かるのだぞ」
「だからって、そんな……」
「時間はない。ほれ、大きく口を開けよ」
「嫌です! 貴女だって私の大切な仲間ですっ! それに私は貴女の栄養源なんです。栄養を摂らずに消滅するなんて許しませんよ」
「ふっ、ったく……この馬鹿者めが」
皇帝の悪魔は薄っすらと笑みを浮かべた。困ったような嬉しいような、それでいて悲しそうな笑顔だ。俺はこの笑顔を見たことがある。コーネットでドラゴンゾンビと一緒に地下へ沈んで行った、ミカさんと同じ表情だ。
「悪魔は人間を喰らう者。だがお前の魂は喰うにはもったいない」
そう言って皇帝の悪魔は、幽体化して俺の体の中に吸い込まれていった。左腕の義手が、ガシャンと音を立てて闘技場の地面に落ちた。悪魔がいなくなったから、普通の鎧の腕に戻ったんだろう。
俺の腹から放たれる光が膨れ上がった。剥奪の悪魔が暴れ出したに違いない。全身の力が抜け、俺はバッタリと仰向けに倒れてしまった。頭上にニヤけた顔のくそったれなソルトが見える。俺が石を飲み込んだことで、どうなるか興味を持って趨勢を傍観しているのだろう。
ああ、もうダメかもしれない。今まで何度も死にそうになったけど、今度こそ本当に。
意識がゆっくりと奪われていく。深酒をして、目が開けられないほど眠くなった時の感覚に似ている。剥奪の悪魔に、能力と経験を奪われているのだろうか。
胸の奥からせり上がってくるものがあった。吐きたい。強い悪心だ。本当に酒に酔った時みたいだな。どうせこのまま死ぬんだろう。苦しむのは嫌だなぁ。
吐いた。横になって、最後の力を振り絞って口から吐瀉物を吐き出す。自分の吐いた物で窒息死なんて、真っ平ごめんだからな。どうせ終わるなら、せめて格好よく終わりたい。俺が剥奪の悪魔の犠牲になれば、あとは仲間がソルトを倒してくれるだろう。ビスマイトさん、大丈夫かな。やっぱり最後の最後で気がかりなのは、ビスマイトさんだ。命の恩人、そして本当の親父みたいなもんだからな。
自分で吐いた物を、落ち行く視力でもはっきり見ることができた。透明なゼリー状のスライムだった。これには見覚えがある。キュアスライムだ。治癒に使われる希少なスライム。こいつが俺の体内で心臓と肺の一部を代わってくれてたんだよな。急に悪魔が2体も入ってきて、驚いて飛び出てきてしまったんだろう。悪いことをした。
俺は経験と能力だけでなく、肺と心臓の機能をも失ったということだ。肉体を再生できる獣王の力も奪われつつある。つまり致命傷だ。もう意識が保てない。ビスマイトさん、これまで育ててくれてありがとう。今の俺には、感謝の言葉を念じる事くらいしかできなかった。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ますと、懐かしい場所に居た。日本から最初に飛ばされてきたあの場所。口の悪い神様爺さんがいた空間だ。相変わらず鏡がたくさん浮いている。魔法や呪術の世界を経験した今なら、目の前の鏡が現実だということがよくわかる。だけど、今日はあの爺さんが居ない。確か管理人だったはずだ。席を外すなんてありえないだろ。魂を管理する神様なのに。
「よぉ、久しぶりじゃの。……いや、”さっきぶり”かの、ホッホッホッ」
声に気が付いて振り返ると、そこには爺さん師匠が立っていた。どうしてここに? ……うん? 違うな、そうじゃない。俺は忘れていたのか。あるいは記憶を操作されていたのか。
ずっと思い出せなかったが、爺さん師匠は、誰かに似ていると思っていた。爺さん師匠が闘技場で言った”初対面ではない”という謎の台詞の意味が、ようやく理解できた。神様爺さんこそ、爺さん師匠だった。あの規格外の強さも納得できる。そりゃ神様だったら、誰が対峙したって勝てっこない。
「不思議じゃ。こうしてみると、最初にここへ来た人間と同一人物とは思えんな。よくぞここまで……」
「どうしてですか? どうしてこんなことを?」
「言った通りじゃ。お前という存在が面白くなってきたのでな。ついついちょっかいを出したくなってのぉ」
いやいや、そんな遊び心満載のフリーダムな神様ありえないだろ。
「異世界から異世界へ転生した魂は、ほとんどが死ぬか不遇の内に生涯を終える」
「……そうですか」
「まぁ、ある種の罰、地獄行きみたいなもんじゃな。自分自身の死を願った者に対するな」
日本国内の転勤でも、心身を病んでしまう人がいるくらいだ。それが異世界へ飛ばされてしまうのだ。食べ物も習慣も違う。知り合いも居ない。財産も金もない、丸裸の無一文で放り込まれる。恵まれた環境で育った日本人は、生きていけないだろう。俺みたいによっぽどの幸運が重ならない限りは。
「いやいや、お前も直ぐに死ぬものだと思っていた。生き延びたとしても、せいぜい奴隷で数ヶ月持つか持たぬか……。じゃがどうだ、蓋を開けてみれば、お前は今や異世界で王になろうとしている。これを面白いと言わずしてなんと言う。儂も協力してみたくなってしまうではないか、ホッホッ」
「神様が個々の世界に肩入れして大丈夫なんですか?」
そうだ。神様がエコひいきなんてしたら反則だろう。
「長年管理人をやっているからの、それくらいの遊びは許されるじゃろ」
「でも、ご期待に添えず申し訳ありませんでした。残念ながら、私はあの闘技場で死んでしまったみたいです。ここに居るのが、その証拠ですよね?」
「何を言っている。お前がここに居るのは、儂が呼んだからじゃ」
……え? 死んだんじゃないの? 一体俺はどうなったんだ?
「まぁ、本当は死ぬはずだったんじゃろう。じゃか、お前は見事にそれも回避したようじゃ」
「どういうことですか? 私は獣王の力も剣の力もすべて失って、その上キュアスライムまで吐き出してしまったんですよ?」
「順当に行けば死ぬじゃろう。しかし原始の悪魔、あの皇帝の悪魔がまさか身を呈してお前を救うとはのぉ。これまた予想もしない展開じゃ」
そうだ。あの左手の悪魔はどうなったんだろうか。剥奪の悪魔とぶつかり合って、消滅するとか言ってたな。何ともやりきれない。
「あの悪魔、いや魔神じゃから本来は儂と同格の存在じゃが、面白いことになっておるぞ」
「面白いこと?」
「お前の中で剥奪の悪魔を封印して力尽きた。じゃが、そこでお前の例の体質が作用したようじゃ」
「……”受入れ体質”ですか?」
「うむ。剥奪の悪魔は、お前の獣王の力と経験によって培われた力をすべて奪った。じゃが受入れ体質は、能力でも経験でもない。お前が生まれつき持つ”体質”じゃ」
確かに神様爺さんの言う通りだ。受入れ体質はあくまで体質だ。わかりやすく言えば、花粉症みたいなものだ。能力でもないし訓練や経験によって得られた力でもない。だから剥奪の悪魔でも奪えない。
「瀕死となって消滅寸前の皇帝の悪魔を、お主の体は取り込んでしまったようじゃ」
何だよそれ。悪魔は力を失ったら、消滅するんじゃなかったのかよ。
「まぁ、彼奴は特別製だからの」
「それで、私はどうなったんでしょうか?」
「皇帝の悪魔を取り込み、それによって命を繋ぎとめておる。まさにお前は”悪魔に命を救われた人間”というわけだ。しかも相手はただの悪魔ではない、魔神じゃ。悠久とも言える時間の中で、儂は無数の魂を見てきたが、これほど愉快で痛快な話もなかったぞ、ホッホッホッ」
とにかく左手の悪魔のおかげで、俺はまたあの世界に戻れる。あいつとはもっとたくさん話をしてみたかったが、もう俺の一部になっている訳だ。そう考えると不思議な感じがする。だけど……俺はそれでもまだ人間なのだろうか?
「人間じゃよ。ちょっと特殊だがの。おっと、のんびりしている暇はなさそうじゃな。これからさらに辛い時代がやって来る。お前の人生はこれからが正念場とも言える。まぁ、せいぜい頑張れよ」
神様爺さんは、俺が最初に来た時みたいに、神様らしからぬあっさりとした台詞を吐いた。途端に視界が明転し、意識が戻る。
どうやら俺は闘技場に倒れたまま、意識だけ神様爺さんのところにあったようだ。というか、もう夢と区別がつかないけどな。
両目を開けると、ソルトの姿が視界に入ってきた。表情がいつもの奴じゃない。珍しく焦った顔のまま固まっている。俺が死ぬと思っていたのに、目を覚ましたからかな。ふん、大誤算だったな。ざまあみやがれっ!
「まさか、そんな……お前も幻覚呪術を使っていたのか?」
いつものヘラヘラした口調が、真面目口調になっている。こんなソルトを見るのは初めてだ。だけど幻覚呪術ってなんだよ。俺は幻覚なんて使えないぞ。しかも剥奪の悪魔に、獣王の力やカーミラの力まで持って行かれた。だから治癒呪術も使えない。
「くそ小娘がっ。どちらにしても黄泉の軍団で皆殺しには変わらないけどねー」
小娘? 今の俺は長身の大柄娘のハズだけど……。そう思って起き上がる。視界がいつもと違う。低い。手足もだいぶ短い。髪は黒髪で長いままだけど。そうだ、確か鎧の中に手鏡があったはずだ。鏡は見えない物を見えるようにする聖なるものだといって、レンさんがお守り代わりに渡してくれてたんだった。
手鏡を素早く取り出し、自分の顔を映す。
そこには、成長した大人のカミラは映っていなかった。俺がこの世界にやってきた時の小学生女児に戻っていた。
……なんてこった。俺の体が大きく成長したのは、爺さん師匠の施術のおかげだ。アレは”能力”ではないはず。でも体質でもないか。施術から発生した、あの強烈な激痛の日々を”経験・訓練”と見做されたのか。剥奪の悪魔め、やってくれるぜ。だけど、これで俺は本当に片腕の小学生女児だ。もう獣王の力もない、剣技もできない。格闘術も忘れてしまっている。その上、腕力もないし体も小さくか細い。
ま、まぁ、可愛いけどな。
……自分で言うのもなんだが、それくらいしかない。
ソルトの幻覚呪術のタイムリミットが来たようだ。幻覚が晴れ、観客席からレンレイ姉妹やコーネット一向が、大急ぎで闘技場に降り立ち、こちらへ向かってきている。ちびっ子エルフも一緒だ。だがソルト、いやアルベルトの幻覚呪術を見破れていない。エルフの長老もアンデッドに関しては、あまり当てにできないのかもしれないな。
空中に浮いているソルトが呪文を唱え始めた。黄泉の軍団を呼び出す気だろう。できれば呼び出す前にこいつを倒したいが、今の無力な俺では不可能だ。悔しいが何もできない。指を咥えて見ていることしかできない。
「あーら、カミラちゃん、お久しぶり。しばらく見ないうちに随分大人になって……ないわね?」
闘技場で対峙していた俺とソルトの下に、一番早く駆けつけてくれたのは、なんと意外にもシャルルさんだった。




