第77話 暗殺屋
――― 第6回戦
俺の対戦相手は、闘技場に立つことができなかった。5回戦での負傷が大きすぎたらしい。両足を骨折し、戦うどころではなかったようだ。つまり不戦勝だ。幸運といえば幸運。だが次の第7回戦は準決勝。俺を含めて残っているのは、もう4人だけになった。
もちろん爺さん師匠は残っている。あの大型ドワーフ、ガトラスさんの姿もある。最後の1人は男だ。スリムで、まるでモデルのような体型をしている。しなやかな鞭のような筋肉が、服の上からでも感じられる。細身だが、かなり鍛えられているに違いない。
見たところ武器は持っていない。……素手か。爺さん師匠と同じタイプの格闘家かもしれない。剣が主体の俺からすると、こういう相手が最も厄介だ。素手と剣では間合いが違う。遠距離では、剣の方が圧倒的に優位だ。だが、一旦懐に入られたら立場は逆転する。さらに言うなら、徒手空拳の格闘家タイプは、実に間合いの取り方に長けている。
準決勝まで勝ち上がってこられたんだ。実力者に違いない。彼の鋭い眼光を見ていると、緊張してきてしまう。だが、俺は彼に当たりたい。爺さん師匠に勝つのは難しい。優勝には奇跡が必要だ。ガトラスさんとは約束がある。これからも仲良くしていきたいし、できれば戦いたくない。
確か、組合せ的に爺さん師匠とは準決勝では当たらないはずだ。
組合せを審判役の騎士にこっそり聞いてみた。
「あのー、次の私の対戦相手って……」
「ああ、あんたの相手は”暗殺屋のシカ”ってヤツだ」
よかった。知らない相手なら思い切りやれる。しかし、”暗殺屋”ってなんか響きが怖いな。日本でいえば忍者みたいなものなのか? 毒の吹き矢とか使う殺し屋のイメージがあるけど……。毒は俺には効かない。デスベアの力、獣王の力で無害化できる。そう考えると、シカという暗殺屋とは、意外と相性はいいかもしれない。向こうからすれば、俺は最悪の相手だろうけど。
残念だがガトラスさんは負ける。優勝は無理だ。あの爺さん師匠相手では、天地がひっくり返りでもしない限り、勝利は見込めない。彼の”優勝賞金で土地を買う”という夢は果たせないだろう。
準決勝からは、闘技場全体を使って戦うことになる。つまり、1戦1戦に全観客の注目が集まるという訳だ。よしよし、やってやろうじゃないか!
と気合を入れたところで、休憩のお知らせがアナウンスされた。戦い用の舞台を設えるために、時間がかかるらしい。その間、俺たち出場者は休憩タイムだ。
休憩時間を使って、鍛冶師部門の様子を探りを入れることにした。ビスマイトさんの事が気になる。ヴァルキュリアを通じて、再度中庭の様子を観てみる。予想では順調に勝ち上がったビスマイトさんが、そろそろブラッドール家の紋章を掲げて、喜びの声をあげている頃だ。
しかし、鍛冶師部門は大変な事になっていた。最初に俺の目に飛び込んできた映像は、マイヤーの坊ちゃんがビスマイトさんを激しくののしっている姿だった。試合は中断している。観客たちも騒然としている。審判役の騎士たちは、場の混乱を収めようと、必死で観客を押さえ込んでいる。一体どうしたっていうんだ?
『ヴァルキュリア! これは何事ですか?』
『獣王様、ブラッドール家にいかさまの疑いがかけられております』
『どういうことですか?』
『決勝戦の開始前、鍛冶師はお互いが出品する剣を交換し、手にとってインチキがないことを確かめます』
『ええ、それは知っています』
『その時、ハッブル家のマイヤーが手に取ったビスマイト様の剣が輝き出したのです』
『もしかして、魔剣、……ということですか?』
『はい。場は一気に大騒ぎとなりました』
そんなはずはない。ビスマイトさんが魔剣に頼ることなど絶対にない。魔剣製造機の俺も、うっかりビスマイトさんの剣に触れないように、注意していた。ビスマイトさんが”魔剣風”の剣を打つことはあっても、魔剣そのものを作り出すことはない。誇り高い鍛冶師だ。悪魔の手を借りて剣を作るなんて死んでもしない。それは俺がよくわかっている。しかし、観客の目の前で魔剣を決勝戦に出品してしまったのだ。それを対戦相手のマイヤー坊ちゃんに指摘された。まずい展開だ。どうしたらいいのだろうか。
いや、ちょっと待てよ。そういえば左手の悪魔が言ってたな……中庭にも悪魔がいると。もしかしたら、マイヤー坊ちゃんに何か悪魔がとり憑いているってことはないのか?
『ヴァルキュリア、お父様の剣が光を放つ瞬間を観ていましたか?』
『はい。マイヤーが手に取る前までは普通の剣でした。彼が手に取った後、剣を一旦地面に落とすのが見えました。地面から拾い上げる時に、マイヤーは剣をすり替えました。一瞬の事でしたので、誰も気がついていません』
『剣がすり替わっているなら、お父様が主張すれば、審判が直ぐに気が付くのでは?』
『残念ながら、マイヤーが光を放つ剣を掲げ、それに観客が激しく反応してしまったのです。ビスマイト様の主張も虚しく、会場は騒然となったままです』
まさかあのピュアな坊ちゃんが、こんな姑息な手を使うとは。おそらく観客にサクラが仕込んであったのだろう。先導する人間を数人入れておくだけで、興奮状態の群衆は簡単に操作することができる。
ましてや、あのブラッドールがいかさまをする。それだけでセンセーショナルな話だ。無敗の横綱がドーピングしてたみたいな話題性だろう。ゴシップ好きな人たちは、お祭り騒ぎだ。まずいな。ここで俺が出て行くべきか。
気持ちとしては、こっちの試合を放棄してでも、今すぐにビスマイトさんを助けに行きたい。だけど、騒ぎ自体が罠かもしれない。今ここを離れたら、次の試合までに戻れない。不戦敗になる。
突然、左腕が震えた。ブルブルとマナーモードが発動している。
「何ですか?」
「中庭の悪魔は”拘束の悪魔”だ。以前会ったヤツと同じだな」
いいタイミングでお知らせしてくれるじゃないか、マナーモード魔神。
ということは、マイヤー坊ちゃんは誰かに操られているのだろう。……誰かって、そりゃあエルツ家しかいない。大舞台で”いかさまの濡れ衣”を着せることができれば、ブラッドール家を潰すことができる。しかも、国民の目の前で大義名分を以って、だ。当然、親戚筋のヴルド家にも罪が及ぶ。
くそっ、こんな手を使ってくるとは。俺たちは鍛冶師コンテストを利用する作戦だったが、それは敵も同じだった。
マイヤー坊ちゃんにとり憑いた悪魔の術者は、宰相カールか、それともソルトか……。カールならここから見える位置にいる。貴賓席に座り、王様と何かを話している。ワイン片手に余裕の表情だ。彼の慎重な性格からして、自分で手を下すことはないだろう。カールが黒幕で間違いないだろうが、術者である可能性は低い。証拠もない。力に任せて問い詰めても、知らぬ存ぜぬで通されてしまう。
俺は左手の悪魔に話しかけた。
「術者がどこにいるかわかりますか?」
「そこまではわからん。だが、割と近くに気配を感じるな」
俺の周りだけでも数千人単位の観客がいる。探し出すのは無理だ。ディラックさんに事態の収拾をお願いするしかないか。騎士団長の彼に、きちんと事の真偽を示してもらう。ビスマイトさんの剣は魔剣ではないということを。
俺は、貴賓席近くで侍っていたディラックさんに駆け寄った。
「ディラック様、大変です。父が鍛冶師会場でいかさまをやったと疑いをかけられています。でもマイヤーが父の剣をすり替えて、罪をねつ造したみたいなんです」
「まさかそんなことが!? それでは直ぐに仲裁に向かいます。ご心配には及びませんよ。必ずビスマイト殿の濡れ衣を晴らしてご覧にいれます。お任せください」
「はい、どうか……どうか父をお願いいたします!」
騎士団長が仲裁に入ってくれれば、騒ぎは何とか収まるだろう。しかし、問題は疑いが晴れるまで、時間がかかってしまうところだ。長引けば長引くほど、人は噂を立てる。噂には尾ひれがついて、疑心暗鬼を生む。これが厄介なのだ。今の俺は清廉潔白でなければならない。鍛冶師の最高峰、絶対王者のブラッドールでなければならない。
宰相カールとその隣に座っている赤毛の女が、気のせいかニタニタと笑っているように見える。ちくしょう、やっぱりお前らが仕組んだんだろう。そう思うと、知らぬ間に怒りがこみ上げてきた。あの正直で鍛冶にひた向きなビスマイトさんを、陥れるような事をしやがって! 許さない。犯人を見つけたら、ただじゃおかない。
俺が内なる怒りで我を忘れていると、いつの間にかレンレイ姉妹が隣に座っていた。
「ビスマイト様のことは、騎士団長様にお任せしましょう。今は目の前の試合に集中してください」
「……レン」
「そうですよ、カミラ様が心を乱して優勝を逃してしまったら、計画が成り立ちません」
「レイ、よく言ってくれました……」
彼女たちの言う通りだ。ここで俺が勝手な行動を取ったり、集中を欠いて試合に負けるようなことがあれば、すべてがおじゃんである。ビスマイトさんにもヴルド家にも顔向けできない。俺の心を乱す事自体、敵の目的の一つかもしれない。挑発に乗ったら負けだ。
◇ ◇ ◇
30分もすると、闘技場の準備が整い、ようやく準決勝開始の宣言がされた。憎々しいが、宣言したのは宰相カールだ。余裕の笑顔が気に入らない。まだ何か仕掛けてくるかもしれない。十分に警戒しなければ。
準決勝の第1試合は、俺と”暗殺屋シカ”の対戦だ。
「998番、シカ! 288番、カミラ=ブラッドール=メンデル!」
審判の鋭い声で呼ばれた。闘技場に降り立つと同時に、大きな歓声が上がった。全観客が俺とシカに注目している。一挙手一投足を観られている。準決勝ともなれば、客たちの期待も大きい。名勝負を見たいのだろう。勝敗はもちろんだが、無様な試合はできない。
「始めっ!!!」
戦闘開始。途端にシカの取り巻く空気が変わった。存在を感じないほど希薄に見える。殺気どころか、気配そのものが弱々しい。これはまるで、熟睡している人間の気配だ。どういうことだ?
俺が疑問を感じて警戒心を強める一方、シカは悠然と歩みを進めてきた。ゆらりゆらりと動くその感じは、まさに妖しい影だ。獣王の聴力を全開にしても、足音が聞こえない。音もなく近寄ってくる殺人者……これが暗殺のプロなのか。こんなのが夜襲ってきたら、怖すぎるぞ。
短剣を構えて、俺の方から間合いを詰める。影のようなシカに向かって、剣撃を繰り出す。フェイントを織り交ぜながら、大ぶりにならないように努めた。
しかし、シカにはまるで当たらなかった。いや、正確には当たっている。だが、手応えがまるでないのだ。こんな相手は始めてだ。当たる寸前に体をくねらせ、ダメージにならないよう攻撃を捌いている。どういう原理なのか見当もつかない。これが、暗殺者の体術というやつなのだろうか?
「そろそろ俺から攻撃させてもらってもいいか?」
シカがそう言った次の瞬間、俺は左頬に衝撃を感じた。熱い。そしてバランスを崩してよろめいた。左頬に何らかの打撃をくらったらしい。しかし、攻撃がまったく見えなかった。シカは相変わらずゆらゆらと妖しく揺れている。
体勢を立て直してガードを固める。何でどう攻撃されたのかもわからない。怖すぎる。とりあえず、防御に徹して相手の動きを見切るしかない。
パアァァン! ――― 鋭く激しい破裂音がした。
と思ったのもつかの間、今度は右頬と左脇腹に激しい痛みを感じた。ガードの隙を突かれて、打撃をもらってしまったようだ。だが、目の前のシカはやっぱり、ユラユラと妖しくリズムを取りながら佇んでいるだけだ。
ガードをがっちり固めて意識を集中する。シカの動きはもちろん、服の擦れ合う音さえ逃さない俺の気配感知だ。なのに察知されずに攻撃ができるのはなぜだ?
「ふっ、まだわからんか? ならば敗北するがいい!」
シカからは、ビュンという音ともに、鋭い打撃が飛んできた。空気が裂ける音がする。ようやく見えた。シカの武器は細くて透明な鞭だ。ウィップというヤツだ。透明な素材でできているので、目で追う事はほとんど不可能だ。
シカの取る独特なリズムと気配。それに惑わされてしまい、攻撃はなおいっそう見えにくくなっている。彼の鞭さばきはノーモーションだ。予備動作がゼロなのだ。これは恐ろしいことだ。俺や爺さん師匠の見切りは、敵の予備動作を察知して先読みする手法だ。だからノーモーションの相手には、通用しないという訳だ。
「わかったところで私の攻撃は防げないがな」
シカのノーモーション(予備動作なし)から繰り出されるの鞭が、雨あられと降ってきた。俺は大きくバックステップし、彼から間合いを取った。何とか凶悪な透明の鞭の雨を回避する事ができた。
だがジリ貧だ。このままでは鞭の餌食だ。剣ほどではないが、当たれば相応のダメージがある。俺の両頬は既にざっくりと切れて流血している。このまま獣王の力を発動すれば、周囲に猛毒のデスベアの血を撒き散らすことになる。まずいな。どうしたらいいだろうか。負ける訳にはいかない。でも獣王の力は使えない。
観客席にいる爺さん師匠の方へ目をやると、腕を組んでホクホク顔をしている。ちくしょう、弟子が窮地だってのに、なんて嬉しそうな顔をしやがる。絶対に危機を楽しんでいるよな、あの化け物爺さん。
俺は苦し紛れに闘技場の地面の土を掴み、シカの方へ投げつけた。埃が舞い、数秒の間視界が悪くなる。だが、これで空気の流れが見える。空気の流れがわかれば、シカの鞭をガードできる。少しの間だけでもガードできれば、懐に入ることができる。至近距離で鞭は使えないはずだ。
案の定、空気中に舞った埃が切り裂かれるように動くのが見えた。鞭の軌道だ。これを目安に踏み込んでいけばいい。俺はガードを固めつつ、全力でシカの方へ突っ込んだ。狙い通り間合いは短剣の間合い。拳の届く距離でもある。ここまでくれば、長い射程距離の鞭はかえって不利になるはずだ。
――― しかし、俺の読みは甘かった。鞭の攻撃を封じるどころか、さらに激しい打撃が降り注いできた。しかも今度は、背中にまで打撃を感じた。一体何がどうなっている? こいつには死角がないのか?
ガードの隙間からチラっと覗くと、何とシカの鞭は地面を激しく叩いてた。跳弾の要領だ。地面を叩いて、その反動で鞭を俺へ向けているのだ。だから間合いがゼロでも、俺に攻撃することができる。地面を叩いている分、威力は弱まる。それでも下手な剣撃より、シカの鞭は威力を持っている。
あの鞭、透明な見た目に反して、結構な重量があるのだろう。この変幻時代のテクニック、相当な場数を踏んでいるに違いない。ダメだ、隙がない。実戦経験が違いすぎる。このままだと、嬲り殺しだ。
この鞭さえ封じることができれば、勝機が見えるのだが。俺はシカの腕を狙って斬りつけた。いくら見にくい、読みにくいといっても所詮は手先から繰り出される攻撃だ。腕にダメージを与えれば、鞭を封じることができる。
だが、シカは当然それを予測していた。腕を狙った剣撃に合わせ、鞭を俺の剣に絡ませた。そしてあっという間に、俺の腕から剣を巻き上げる。鞭で絡め取られた剣は、宙を舞って観客席に落ちていった。
……まずい。完全に丸腰にされてしまった。こいつの鞭に対して、なす術がない。
「フェルミを斃した時のような気迫がないな。もうギブアップか?」
「私は、私は……負けません。負ける訳にはいかないんです!」
「では死ぬまで俺の鞭をくらい続けるがいい!」
ビュンビュンと鞭が飛んでくる。容赦ない攻撃が襲い掛かってくる。唯一ガードしている顔だけは何とか免れているが、もはや全身満遍なく鞭で打たれている。全身の皮膚が痛すぎて麻痺している感じだ。くそぉ、好き放題やりやがって。
ガードしながら目線を地面に落とすと、一匹の蜂がモゾモゾと動いているのが目に入った。こんなところに蜂? しかも結構大きいぞ。日本でいうと、スズメバチだ。だけどスズメバチと違って黄色くない。赤く鮮やかなシマシマが入っている。見るからに猛毒を持っている攻撃色だ。
だけどどうしてこんなところに? 地面をよく見ると、ところどころに小さな穴が空いていた。その穴から蜂が出入りしている。この地下には蜂の巣があるようだ。
こんな窮地で、俺はモンスター事典を思い出していた。この特徴的な蜂には見覚えがあった。確か、”デス・ファイヤー・ホーネット”だ。戦闘機みたいなカッコイイ名前だな、という印象で記憶していた。大陸の冒険者が、出会ったら必ず逃げるように言われているのが、この蜂だ。
たった一刺しで人間を麻痺させる猛毒を持っている。その上、組織だって動く賢い蜂で、戦い慣れている。性格は好戦的で凶暴。好物は人間の脳みそだそうだ。毒で動けなくした後に、耳と鼻から入り込み、脳髄を啜るのが彼らのハントらしい。しかも魔法耐性まであるときている。もしもこの蜂の大群に襲われたら、手練れの冒険者でもひとたまりもない。
そうだ。武器ならなんでも使っていいんだったな。だったら”コレ”もルールの範囲内だろう。
「デス・ファイヤー・ホーネット達よ。私の命令を聞きなさい」
俺は獣王の権限で、蜂を武器にすることにした。この地面の下に、どれくらいの数の蜂がいるのかわからない。もしかしたらほんの小さな巣で、戦力には程遠いかもしれない。しかし今は猫の手、いや蜂の手でも借りたいのだ。
直ぐに俺の耳元へ一際大きな蜂が飛んできた。羽音もかなりのものだ。この巣を取り仕切るボスだろう。シカの鞭も負けずにブンブンと煩く飛んできている。
「あなたの眷属をすべて使い、目の前の敵を全力で斃しなさい」
途端に、闘技場の地面に空いていた小さな穴という穴から、物凄い数のファイヤー・ホーネットが飛び出してきた。数千、いや数万匹はいるだろう。こんなにたくさんいたのかよ。予想の遥か上を行く数だ。
蜂達が俺の周りに集まり始めると、さすがに観客達も気がついたようだ。
「おい、あれって……」
「殺人蜂だ!」
「だ、大丈夫なのかよ?」
興奮しつつもざわつく観客席。だが、怖いもの見たさの好奇心の方が勝っているようだ。逃げ出すような人間はただの一人もいない。闘技場で起きている事は、ある意味テレビの向こう側で起きているような感覚なんだろうな。
シカは当然、異変を察知して鞭攻撃を止め、大きく後ろに飛びのいている。さすがに勘はいいようだ。死線を潜っている達人はそういう第六感が優れているから、生き残っているのだよね。
やがて蜂の大群は、俺の手に集まって、槍のような形を取った。蜂で出来た槍、ホーネット・ジャベリンだな。
「き、貴様……何だそれは?」
シカが警戒して訪ねてくる。だが、教えてやるつもりは毛頭ない。
「行きなさい」
俺は一言だけ命じた。
赤黒い槍の形となった蜂は、大きな羽音を立てながら、集団でシカへ襲いかかった。必死で振り払おうと、猛烈な速度で鞭を振り回すが、焼け石に水だ。数が違いすぎる。たちまち蜂に全身を刺され、シカの体は直ぐに麻痺してしまった。バタリと倒れると、蜂が一斉に彼の耳から入り込んだ。
「そこまでです。止めなさい。もう巣に戻っていいですよ」
静かに命令を発すると、蜂達は蜘蛛の子を散らすように、地面の穴へと吸い込まれていった。何匹かシカの鞭に落とされた蜂もいたようだが、生きている蜂はすべて消えていた。残されたのは、身じろぎ一つできなくなったシカだ。地面に這いつくばって、悔しそうな顔で俺を睨めあげている。シカはもう戦闘不能。つまり俺の勝ちだ! ちょっとズルい気もするけど、ルールには違反していないはずだ。決勝進出だぜ!
喜んだところに、俺とシカ、そして審判役の騎士以外の姿が闘技場にあった。俺の勝利は確定したとはいえ、審判からまだ勝利宣言はされていない。試合中は、王でさえも闘技場に降りることが許されていないはずだ。それなのに……。
試合中の闘技場へ無断で降り立ったのは、あの赤毛の女だった。宰相カールの隣に座っていた、見覚えのない貴族だ。
その時だった。左手の悪魔がブルブルと震えだした。おう、バイブ悪魔くん、こんな時に一体何だっていうんだよ。
「まずい。相手が悪すぎる。いいか、我が栄養源よ。よく聞け。今直ぐにこの場から全力で逃げるのだ」
「一体どうしたっていうんですか?」
「あの赤毛の女、いや男か。彼奴は悪魔を持っている」
「どんな悪魔なんですか?」
「”剥奪の悪魔”だ。我もここまでやもしれぬ。まさか人間界にあやつが出て来るとは。……覚悟が必要だ」
傲慢で怖いもの知らずの皇帝の悪魔を、ここまで警戒させるとは……。しかしこの赤毛の女は何者だ?
「フハハッ、本当にすごいねぇ。君はとんでもない力を秘めているようだねー。面白い、実に面白いよー」
「あなたは一体誰ですか?」
「私が誰かだって? アハハ、まだ気が付かない? 初対面じゃないはずだよぉー。アハハハハハハハ」
無駄にフランクな話し方。この掴みどころのない態度。のらりくらりと、人を小馬鹿にしたような得体のしれない雰囲気。
俺の脳裏には、ある人物が思い浮かんでいた。
……いや、でもそんなはずはない。アイツは女ではない。気持ちの悪い黒服を着た、なよなよした男だ。ありえない。
「まさか……」
「その通りだよ。私だよ、ソルト=エルツだよぉー」
赤毛の女はあっけらかんとした態度で、俺に言い放った。そして指をパチンと鳴らすと、赤い髪はたちまち黒く変わり、女性らしかった体つきは、男性の体になった。信じたくはなかったが、ソルトその人だった。
「ハロー、カミラ=ブラッドール。元気してたぁ? 今日は君を含めてここにいる人間、全員ぶっ殺しに来たんだよ、アハハハ」
無邪気な笑顔で、さらりと恐ろしいことを言う。実にソルトらしい態度がそこにあった。




