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第2話 奴隷の境遇

 フカフカして気持ちがいい。


 次に意識を取り戻したのは、見慣れない部屋のベッドの上だった。そうか、髭のおっさんに買われたんだっけ。何とか餓死せずに済んだのか。


 ぐぅぅ~と派手に腹が鳴る。飽食の国、日本で育った俺は、本当に餓えるということを体験したことがなかった。いつでもどこでも飯が食える。これが素晴らしいことだったなんて、考えた事もなかった。今、こうして生きているということは、髭のおっさんが何かを食べさせてくれたんだろう。


 枕元を見ると、お粥のようなドロリとしたスープが冷めたまま置いてあった。ジャガイモの匂いがする。どうやら俺は、ジャガイモのスープに救われたようだ。しかし、スープだけではとても足りない。おそらくは育ち盛りであろうこの体。きっと肉や野菜をモリモリ食べないとダメだろう。


 ……あ、でもそれは男基準か。小学生女子ってたくさん飯を食ったりするものなんだろうか。よくわからん。


 髭のおっさんに礼をしなければ。あの窮地から命を救ってくれたんだ。たとえ奴隷を買うような極悪非道な人間だったとしても、命の恩人には違いない。礼を言うのは最低限必要だろう。


 ベッドから上半身を起こす。相変わらず服装はそのままだった。いや上半身は裸で、下半身は麻布一枚だから日本人の俺からしたら、もはや服装とすら呼べないのだが。


 痩せているせいだろうか。女子だというのに、胸が無い。洗濯板とは言いえて妙だが、まさにそれだ。中年おやじだった頃の俺よりも胸が無い。いや、この年頃の女子ってのはこんなものかもしれない。でも親戚の子は小学6年生でかなりの物をお持ちだった。ぷっくり腫れる程度でも胸がないと、女という感じがしないな。まぁ、男の身勝手な思い入れだけど。


 部屋はいたってシンプルな作りだった。ベッドの他には、窓際に物書き用の小さなテーブルがある。羽のペンとインクだ。おぉ、初めて見た。ファンタジーっぽいな。もし俺がタイムスリップしたと仮定すると、本物の中世ヨーロッパか。ちょっと感動した。


 そして何より壁を見て驚いた。一面が武器で埋め尽くされている。王侯貴族が、装飾用の剣を自慢げに壁に並べておく。あんな感じだ。武器と言っても銃はない。近接で戦う刃物ばかりだ。


 よく見ると、お飾り的な武器とは大分様子が違う。どれも実用的なものばかりだ。華美な装飾はほとんどない。剣の種類もかなり多彩だ。昔、ファンタジーRPGに散々はまったおかげで、そっち系の武器の知識だけは豊富だ。というか実はかなり好きだったりする。


 細身のタウンソード、豪快なバスタードソード、レイピアやマンプル、三つ又鉾、日本刀なんかもある。槍や円月刀、薙刀のような極端な長剣もある。この光景、男だったら誰しも少なからず燃えるだろう!


 しかし、趣味で集めるには数も種類も尋常じゃないな。あの髭のおっさんは、裏の暗殺稼業でもしているのだろうか。壁の武器もたっぷり血を吸っていたりして……。これは礼を言う前に様子を見た方がいいな。下手な事を言って、その場で斬り捨てられたらたまらない。折角拾った命が無駄になってしまう。


 腹減ったな。風呂入りたいな。着替えたいな。

 ……不自由だ。


 これまでいかに、自分が恵まれた環境で生きて来たかがよくわかる。ここには、人権すらないんだもんなぁ。


 まぁいいや。ちょっと壁の武器を見てみよう。武器は男の浪漫だぜっと……今は女だけど。


 俺はゆっくりとベッドから這い出し、何とかギリギリ立つことができた。しかし不安定だ。足に力が入らない。だけど原因はそれだけじゃない。左腕が無い分、体の重心がまるで違うのだ。歩くにしても手を振るのは右腕だけ。一歩進めるだけでも強い違和感を覚える。慣れるまでに、時間がかかるかもしれないな。


 壁に近づいて武器をよく観察すると、どれも傷一つないことに気が付いた。使い込んだ形跡はない。血を吸ったのではないかと疑った剣もない。全部新品だ。ということは、髭のおっさんの趣味か……。


 刀マニア、武器コレクターというのは日本にもいたけれど、銃刀法がどうのこうので管理が大変だと言ってたな。この世界では、関係ないんだろうな。


 俺は壁から細身のショートソードを一本手に取った。ショートソードというのは短剣の総称だ。この形状はカタールだ。長さにして約40cm。思ったより重い。この体に筋力がないせいもあるけれど、やはり鉄というのはこんなに重いのか。日本で鉄の刃を持つなんて、せいぜい包丁くらいだもんな。このカタールを振り回すだけで、人の手足くらい簡単に断ち斬れそうだった。


「やっぱ重いな」


 思わず口を突いて出た。この体になって初めての発語だった。自分で自分の声に驚いた。女の子っぽい高い声だった。アニメキャラのようなロリっぽい声ではない。品のある幼い可愛さのある声質だ。自分の声を聴いて、改めて自分がもう、むさくるしい中年オヤジではないことを自覚した。


 決して中年がよかった訳じゃない。でもアレはアレで、楽でよかった。五体満足で体力も人並み以上にあったから、大抵の事はできたし……。今じゃ片腕の小学生女子だ。しかも筋力ゼロだ。奴隷として働くこともできないんじゃないか。


 気を取り直してカタールを一端の剣士のように構えてみる。片腕だからますますバランスが悪いが、

それを計算に入れてなんとか体を支える。うん。なんかこう、ファンタジーっぽいな。


「ふへへへ」


 思わず笑みがこぼれてしまう。中年オヤジだったら単に気持ち悪い笑い声も、今の体だと、全部が可愛らしく聞こえてしまう。うーん、若いって素晴らしい……のか?


 調子に乗ってブンブンとカタールを振り回す。やっぱりカッコいいなコレ。真面目に欲しくなって来たぞ。


 ノリノリになって振り回しているその時だった。前触れもなく部屋のドアが開いた。入口に立っていたのは、髭のおっさんではなかった。若い女だった。20歳くらいだろうか。髪の長い金髪碧眼。バランスの取れた適度に豊満なボディライン。ファンタジーではお決まりの美人さんだった。


 俺と目が合うと、彼女はニコっと作り笑いをした。そして慎重に腰を落とし、背の低い俺の目線に合わせた。ゆっくりと両手を前に出して彼女は言った。


「大丈夫だよ、ほら怖くないよ」


 ……うん? どういう展開だ?


 今さらながら気付いた。俺は剣を持っている。そして振り回していたのだ。彼女は、俺が怖がって武器を取ったと勘違いしているのだろう。しかし相手が子供とは言え、剣を持っているのだ。それを無手で対応するなんて、勇気があると思う。ましてや、俺はただの子供ではない。奴隷として買われて来たのだ。彼女は俺が暴れて逃げ出すという事を、考えてはいないのだろうか。


 だがここから逃げ出すのは得策じゃない。策を弄する以前に、もう体力が限界に来ていたからだ。俺は剣を床に置き、そろりと後退りした。


 彼女は目を逸らさず、ゆっくりと剣を取り、またニッコリと笑った。邪念のない素直な目だった。カタールを壁に戻すと、彼女は俺のことを抱きかかえてベッドに寝かせた。またしてもお姫様抱っこである。くそぅ、今度は若い女子にお姫様抱っこされるとは。それだけ体重が軽くなっているのだろうが、なんか悔しい。


「起きちゃったんだね。不安だったんだね。ゴメンね。お姉ちゃんが、今から美味しい夕飯を作ってあげる。だからその前に湯浴みしちゃおうね」


 彼女は優しかった。俺を憐れな奴隷だと思ったのかもしれない。


 湯を張った大き目のたらいを部屋に運び込む。唯一無二の着衣だった腰回りの麻布を手早く外すと、鼻歌を唄いながら俺の体を拭き始めた。恥ずかしがる余裕もなかった。それほど俺は汚れていたからだ。


 日本人としては、毎日風呂に入らないと気分が悪い。なぜかそういう感覚だけは、丸ごとしっかり残っている。神様の爺さん、変な魔法みたいな能力は要らないから、せめてこの時代に適応できるように気を遣ってくれよ。


 でもまぁいいか。美人さんに体を洗って貰えるという、これまでの人生になかったラッキーイベントが発生したのだ。生きててよかった。


 彼女のおかげで俺の汚れた体が、どんどん綺麗になっていった。さっぱりして気持ちがいい。


「もう直ぐ終わるからね。髪を乾かしたらお洋服着ましょうね」


 彼女はご機嫌だった。生来明るい性格なのかもしれない。


 湯浴みが終わり、俺の体が隅々まで綺麗になると、彼女のテンションはさらに上がっていた。


「まぁ! なんて可愛らしい!」


 なんか微妙だ……。女の子なら喜ぶべきところなのだろうが、残念ながら心は荒んだ中年オヤジだ。彼女の台詞に何も反応できずにいた。


 彼女は素早く部屋を出て行ったかと思うと、今度は多量の服を持ち運んで来た。


「さて、どれにしましょうかー」


 こんなにもたくさんの服を持っているということは、この家は裕福なのだろうか。奴隷を買えるくらいなのだ。少なからず貧乏ではないだろう。


「この服、全部私のお下がりなんだけど。捨てちゃうのももったいないし……着てくれたら嬉しいな」


 なるほど。この美人さんのお下がりか。悪くない。これもラッキーというものだろう。彼女は、さながら着せ替え人形のように、次々と服を俺に当てていく。選ぶだけで30分も掛かっただろうか。


 昔から不思議に思っていたが、どうして女の着替えというヤツは、時間がかかるのだろう。今、その謎が解けたような気がする。解けたところで何の役にも立たないけどね。


「さぁ、できたわよ」


 彼女は嬉しそうに俺の手を引き、部屋の片隅にある大きな鏡の前に立たせた。


「お姉さんのコーディネート、どうかな? 可愛いと思わない?」


 この体になって、初めて自分の姿を見た。ガリガリで小汚い骸骨みたいな醜い子供が映っているのだろうと思っていた。しかし、俺の予想は完全に裏切られた。鏡に映っていたのは、どこの貴族の令嬢かと見まがうような可愛らしくも愛らしい少女だった。


 信じられない……これが、俺なのか?


 鏡に近づき、右手で改めて自分の顔を撫でてみる。鏡の中の少女も同じように顔を撫でる。当たり前だが本物だ。昨日まで鏡を見るのは、髭を剃る時くらいのものだった。もちろん鏡に映っていたのは、フツーの中年男子だった。しかし今や貴族の御令嬢だ。確かに体は痩せてはいるが、顔はふっくらと肉が残っていた。お目目パッチリ、黒髪の色白美幼女じゃないか。


「お姉さんのチョイスは、気に入ってもらえなかったかしら?」


 俺はすっかり彼女の事を忘れていた。自分の姿にばかり気が行っていた。早く何か答えてあげなければ。ここまでしてくれた、彼女の心遣いを曇らせてはいけない。


「そんなことはないです。この服……いいと思います」


 必死で声を絞り出した。今の俺に話せる限界だ。


「やっとお話ししてくれたね。よかった」


 彼女はニコニコと笑顔美人に戻ってくれた。危なかった。何とか通じてくれたようだ。


 結局、彼女の選んだ服は、スタンダードな白のワンピースだった。無難な王道だが、色白でロングの黒髪にはよく映える。腰の部分にアクセントで青いリボンが付いている。そして裾の方はヒラヒラとした派手な装飾。いかにも女の子って感じだが、緻密に縫われた模様を見ると、職人技が詰まっている事がわかる。安物の服ではない。日本なら、ちょっとしたゴスロリファッションだろうか。だがこの整った顔立ちは、ヒラヒラした装飾に負けていなかった。


「これもしてみよっか」


 彼女はネックレスを取り出し、俺の首に巻いてきた。銀の緻密な造作だ。装飾部分は蝶を模ったものだった。


 改めて鏡に眼をやる。おぉ。さっきよりもさらに貴族の御令嬢っぽいぞ。やばい、ちょっと嵌まりそうだ。女子がファッションに血道を上げるのも、何となく理解できたような気がした。


「ほらぁ、やっぱり似合う!」

「……ありがとう」


 俺はポツリと呟いた。意味もなく気恥ずかしい。


「ねぇ、名前を教えてもらってもいいかな? お姉ちゃんは”エリザラ”って言うの。エリーって呼んでね」


「私の名前は神谷(かみや)……」


 あっ、いけね。日本の名前出しちゃったよ。ヨーロッパっぽい名前に言い直しておけばいいのか? アーサーとかロジャーとか。これはどっちも男の名前か。


 「……」


「カミラちゃんだね! 教えてくれてありがとう。やっぱりお名前がないと話し難いもんね」


 ”神谷(かみや)”という発音が”カミラ”と勝手に彼女の中で脳内変換されたらしい。まぁ、いいか。本名に近くてあまり違和感ないし。でもそれ、名前じゃなくて名字だけどね。


 そういえばカミラっていう有名人、どこかに居なかったかな? そりゃ有名な女吸血鬼か。


「着替えも終わったし、お姉ちゃんは夕飯の準備をしてくるね。この部屋で大人しく待ってること。いいわね。まだ病み上がりなんだから、さっきみたいに暴れちゃダメよ」


 エリザラことエリーは優しくウインクして去って行った。


 良い人だ。平和ボケした日本でも、こんなに親切で良い人は見たことがない。人身売買が許される人権もないこの世界で、彼女は大丈夫なんだろうか。逆にこっちが心配になってしまう。


 ……アレ?


 ふと重要な事に気が付いた。ここが中世ヨーロッパだとすれば、俺が言葉を理解できるのはおかしいぞ。少なくとも英語とかドイツ語とかだろう。間違いなく日本語は通じないはずだ。


 自慢じゃないがドイツ語はもちろん、英語もさっぱりだ。仕事で英語の会議もあったが、正直相手の言ってることはほとんど理解できなかった。俺の苦手分野の最たるところが語学なのだ。


 でも普通に日本語で通じてたよな、エリー。そういえば、髭のおっさんと奴隷商の商談も完全に理解できていた。しかも日本語と同じように、自然に頭に入って来ていた。いつの間に理解できるようになっていたんだ? いや違うな。元々はこの体の持ち主の言語能力だろう。神様の爺さんも、そこだけは配慮してくれたのかもしれない。


 文字はどうだろうか? そう思ってベッドから抜け出し、物書き用の机の上にあった分厚い本を一冊開いてみた。


 ……いい仕事してるじゃねぇか、神様の爺さん。


 読める。十分普通に読める。本に書かれている文字は、明らかに漢字や平仮名ではない。でも日本語と同じ感覚で読み進められる。所々理解できないのは、専門用語だからだろうか。この体の主が持っていなかった知識は、さすがに読めても理解ができないってことだろう。


 よしよし、とりあえずこれで十分だ。理解できないところは、勉強していけばいい。サラリーマン人生、最後まで勉強だ、と先輩たちから教わったもんだ。むしろ学ぶ楽しみが増えたと前向きに考えておこう。


 しかしこの本、ちょっと面白いぞ。タイトルは「鉄と武器 その製造技術」だ。やっぱりあの髭のおっさん、相当な武器マニアだな。


 本は、前編が武器の種類や形状についての辞書的な資料になっていた。後編は一般的な剣の製造方法について詳しく書かれている。材料である鉄の集め方や目利きまで書いてあるぞ。こりゃすごい。現代日本でもここまで丁寧に書いてある本は、無いかもしれない。侮りがたし、中世ヨーロッパ。


 俺が本に夢中になっていると、ドアをノックする音が聞こえた。


「……はい、どうぞ」


 振り返って返事をする。ガチャリとドアが開くと、エプロン姿のエリーが立っていた。


「夕飯できましたよ。一緒に下に降りましょうね」


 ……下? そうかここは2階だったのか。本に夢中で全然気が付かなかったが、窓から見える木の高さからすると、少なくとも1階でない。


「カミラちゃん、本が読めるんだ? 凄いなぁ。私文字が読めないから尊敬しちゃう」


 この世界、識字率はあまり高くないのかもしれない。ということは教育に格差があるのだろう。身分制度とか貧富の差とか、激しそうだな。この体の持ち主は、かなり良い教育を受けたのかもしれない。


 エリーに手を引かれて、階段を降りる。まだ足に上手く力が入らないため、一歩一歩を慎重に進める。

此処まで来て、階段から落ちて死んだらシャレにならない。


 階下に降りると、そこは玄関ホールになっていた。ホールを抜けて奥へ進むと、食事の良い匂いが漂ってきた。これはコンソメベースのスープか。そして肉の焼けた香ばしい匂いもする。豚と鳥だな。


 自慢じゃないが、昔から鼻だけは良いんだ。3軒隣の晩飯のおかずまで言い当てられる自信がある。匂いに敏感過ぎて、悪臭への耐性がないという両刃の剣だけれど。


 キッチンに入ると、たくさんの料理を前にして、髭のおっさんが座っていた。改めて正面から見ると、威厳がある。何か悩んでいそうな顔をしているためか、眉間に皺が寄って頑固で怖い印象しかないな。


 武器マニアの怖い髭のおっさん。もしも取引先相手にこんな人が居たら、無駄にペコペコ頭を下げてしまうかもしれない。そしてできれば、あまり会いたくないと思うだろう。それぐらい怖い顔をしている。


 ここは絶対に機嫌を損ねてはいけない。今の俺は買われた奴隷なのだ。逆らったり気分を害するようなことをしたら、殴られるだけじゃ済みそうにない。それこそ、2階にあったバスタードソードでぶった切られるかもしれない。


 下手(したて)作戦に徹しよう。幸い今の俺の姿は小学生女児だ。従順で無知なフリをしておくのもいいが、それだと積極的な奴隷アピールができない。使える奴隷と思わせておかないと、直ぐに捨てられてしまうかもしれない。この姿で外に放り出されたら、数日で死ぬ自信がある。


 俺は髭のおっさんの横に歩み寄り、片膝を突いて深々と頭を下げた。


「カミラといいます。この度は命をお救いくださって心より感謝申し上げます。私は貴男様の奴隷です。どんなご命令にも従います。どうぞ何なりとお申し付けください」


 ……決まった。完璧だ。


 どんな高慢ちきな顧客に対しても、ここまでやれば絶対に問題ない。丁寧すぎて少し鼻に付くところはあるが、それも礼儀作法のうちと思ってくれれば大成功だ。


「ふうぅー」


 髭のおっさんから、深い深いため息が漏れてきた。まずい。もしかして奴隷はこういう挨拶をしちゃいけなかったのか? それとも、何か(しゃく)に障るようなところがあったのだろうか。見た目は……まぁ、おっさんが選んで買ったんだから問題ないとして、俺の台詞か態度が原因か…


「挨拶はいい。椅子にかけなさい」

「はい……」


 残念ながら、俺の渾身の挨拶攻撃は通じなかったようだ。手強いな。


 エリーさんが椅子を引いてくれたので、そこにチョコンと大人しく座った。ちょうどテーブルを挟んで髭のおっさんの真正面だ。エリーさんは俺の左隣に座っている。左手が使えない俺を補ってくれるつもりらしい。やはり良い人だ。


 しかし目のやり場に困るな。真正面を見ると、髭のおっさんとモロに視線が合ってしまう。っていうか、おっさん、俺のこと凝視し過ぎだろう。これは視姦プレイなの? そういう趣味なら従いますが。


「話は夕食を取りながらにしよう」

「はい、叔父様」


 エリーが嬉しそうに答えた。


 ん? エリーはてっきりこの家のメイドだと思っていたが、叔父様ということは、親戚関係なのか。


 しかし、奴隷の俺が主人と一緒のテーブルで、飯を食っていいのだろうか。普通、奴隷と言えば犬みたいに土間のようなところに鎖で繋がれ、汚い皿でカビの生えたパンを食わされるイメージなんだが。これじゃ普通の家人扱いじゃないか。何かがおかしいな。俺の頭はこれまでの少ない情報を統合して、フル回転していた。そこから導き出される結論 ―――。


 ……なるほど、わかったぞ。奴隷にも”労働力”として必要とされる者と”愛玩用”として必要とされる者が居る。俺の場合、きっと後者だ。


 愛玩用だったら、主人の手元に置いておくのも頷ける。それで一緒のテーブルで飯を食うという訳か。エリーが湯浴みで俺を綺麗に磨き上げ、服選びに悩んでいたことを考えても、今は主人へのお披露目時間なのだ。これなら辻褄が合う。


 それにこの家、見たところエリー以外の女っ気を感じない。つまり髭のおっさんは、独身だろう。自分の趣味をやりたい放題ということか。俺の役目は慰み者だったのか。


 あの武器コレクションを見てもわかる。趣味性の高い髭のおっさんだ、どんな高度な夜のテクニックを要求されてしまうのだろうか。悪いがそっち方面のテクはよくわからん。今まで仕事一辺倒で、女と付き合うこともあまりなかったし。


 俺がぼんやりとそんな事を考えていたせいか、エリーと髭のおっさんは既に食べ始めていた。


「右手だけでは食べられんのか?」


 ふいにおっさんが聞いて来た。


「だ、大丈夫です。食べられます」

「そうか。もし不自由だったらエリーに手伝ってもらいなさい」

「あ、ありがとうございます」


 緊張してかなりぎこちない受け答えになってしまった。正直、ここでの食事のマナーがわからない。迂闊に手を出すと粗相をして、その場で殴られそうだ。まぁいい、その時はその時だ。


 俺は腹が減っていたのもあり、普通の洋食のマナーでフォークを使って一気に食べ進めた。肉や野菜はエリーが気を遣って、きちんと一口サイズに切り分けてくれた。


 美味い。エリーの料理の腕前はなかなかだ。気が付いたらいつも会社帰りに食べていた牛丼のように、豪快にモグモグと口を動かしていた。


 おっさんの方をチラリと見ると、険しい顔が心なしか緩んだように思えた。よかったよかった、危なかったぜ。もっとお上品に食べないとまずいかと思ったが、どうやらそういうマナーではないらしい。見れば、おっさんもかなり豪快にバクバクと食べている。


「どうだ、美味いか?」

「はい、とても美味しいです」

「そうか」


 髭のおっさんは見た目通り、口数の少ない無骨な人のようだ。話し上手ではないな。感情を表に出すタイプではないのかもしれない。昭和時代の頑固親父みたいなもんだろうか。そんな硬派なナイスミドルなのにロリコン……じゃなかった、”幼女趣味”なのか。このギャップはかなり嫌だな。男でも普通に引いてしまう。


 本題に踏み込んでみようか。俺のここでの役目というか、奴隷としての具体的なお仕事内容だ。


「儂の名前はビスマイト=ブラッドールという。……カミラだったな。今日からはカミラ=ブラッドールと名乗るがいい」


 うっ! ……自分の姓を与えるということは、やっぱ俺は愛玩奴隷コースなのか。ビスマイトとはこれまた頑固そうな名前だな。ドイツ人っぽい。やはりここは中世のドイツなのだろうか。


「ありがとうございます。……それで私はここで何をすればよろしいのでしょうか?」


「何もする必要はない。当面は滋養のある物を食べて療養するがいい。困ったことがあったらエリーに何でも言いなさい」


「はい、わかりました。ご面倒をおかけします」


 はぁ、療養して体が戻ったら”夜のお勤め”ってことになるんだろうな。嫌だけど生きていくためには仕方がないよな。この体じゃ、どうせ逃げ出したとしても路上生活者になって野垂れ死にってことになりそうだし。ここにはエリーという美人さんがいるし、衣食住も不自由しなさそうだし。とりあえずやるしかないか。


 俺がいろいろ考えている間に、髭のおっさん……いや、ビスマイトさんは、飯を食べ終えて食後のコーヒーを飲み始めていた。一方の俺は、まだ半分も食べ終えていない。エリーも俺に合わせてくれているのか、ほぼ同じペースだ。


 ビスマイトさんは、コーヒーを一気に飲み干した。熱くないのだろうか。


「仕事に行ってくる」


 一言だけ発すると席を立った。


「いってらっしゃいませ、ビスマイト様」


 俺は奴隷らしく、軽く頭を下げて挨拶してみせた。ビスマイトさんはかなり微妙な顔をしていた。悲しそうな、それでいて嬉しそうな複雑な表情だ。上手く感情が読み取れないな、この人の顔は……難しい。そのまま何も言わず、そそくさと部屋を出て行ってしまった。


 取り残されたエリーと俺。ちょっと一安心だが、愛玩用奴隷としては、ご主人様の親戚筋に当たるエリーにも失礼があってはならないだろうな。下手な事をして、心証を悪くしたらまずいかもしれない。


「くくくくくっ……アハハハっ」


 突然エリーが笑い出した。我慢していた笑いを一気に吐き出した感じだ。涙目になるくらい本気で笑っている。俺はそんなに”おかしな事”をしたんだろうか?


「ど、どうしたんですか? 何がおかしいんですか?」


 目をぱちくりさせて尋ねる俺に、エリーは笑いを抑えながら答えてくれた。


「ゴメンゴメン。でも叔父様の表情、見たでしょ? あんな顔は10年ぶりよ。分かり難いと思うけど、あの顔が嬉しい顔なのよ。もう本当に傑作。カミラちゃん、あなた叔父様を上手く操る天才ね」


「そ、そうなんですか。全然よくわからないですけど……」


 エリーの言っていることから想像すると、どうやら愛玩奴隷としては合格だったようだ。確かにあの顔は分かり難い。アレが夜になるとどう激しく変化しちゃうのかを考えると、ブラック企業で鍛えられた鋼のメンタルを持つ俺でも、さすがにげんなりだが。


「でもちょっとビスマイト”様”はまずかったかしらね……」


 そうか、まずかったのは敬称だったのか。”様”がダメなら、やはり”ご主人様”だろうか。それとも貴族かなんかだったら、爵位を付けるべきだったのか。うーん、やはり勝手が違うと難しいな。


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